クリスマス燭火礼拝                      2002年12月24日
【クリスマス・イブ・メッセージ要約】                      
「全世界の喜び」

ルカによる福音書 第2章8-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 天使は羊飼いたちに告げて言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と。

 当時羊飼いたちは敬虔なユダヤ教徒から差別されていましたが、神は彼らを顧みておられました。世を救うためにおいでになったイエス・キリストは一枚の布きれにくるまり、飼い葉桶の中にその身を置いて、羊飼いたちを待っておられたのです。

 今日の社会は法律に従って行動しています。しかし時には法律や正義がかえって足枷となり、弱者や不公平に泣く人々を救う力が欠落していることがあります。そしてますます彼らを社会の隅に追いやってしまうことがあります。実に審かれるべきは善男善女と呼ばれるわたしたちなのだと言うことを痛感します。時には福音の使者であるべきクリスチャンでさえ、表面的な倫理観を振りかざして、神から賜った愛と赦しを置き忘れているという悲しくも罪深い一面のあることを認めないわけにはゆかないのです。クリスマスは全世界に与えられた恵みを全世界が心を一つにして喜ぶ日なのです。どうか、今もこの喜びに与ることの出来ない人々のあることを心に留めて先ずあなたがこの席に招かれたことを感謝してください。そして外見ではなく、心底救いを求めている人々のあることを心に留めて彼らをイエスさまのもとにご案内してください。

 
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クリスマス燭火礼拝                      2002年12月24日
【クリスマス・イブ・メッセージ要約】                      
「全世界の喜び」

ルカによる福音書 第2章8-20節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

皆さんクリスマスおめでとうございます。

 今日は聖書の朗読と讃美歌を通してイエスさまのお生まれの物語を聴きました。日曜日とはまた違った形でイエス・キリストのお生まれが神さまからの豊かな愛のプレゼントであったことを知っていただいたのではないでしょうか。

 

 聖書に記されているクリスマスの物語は主にマタイによる福音書とルカによる福音書によって知ることがでますが、この二つのクリスマスの物語を注意して読みますと、一つの興味深い共通点が見られます。クリスマスとは救主イエス・キリストのお生まれを喜び、拝むという意味ですが、マタイによる福音書を見ると、世界で最初にクリスマスを経験した人々はユダヤ人ではなく、遠い東の国からはるばる旅してきた異邦人(ユダヤ人が「異邦人」と言うとき、それはただの異国の人という以上に、「聖書も真の神も知らない地獄を運命づけられた国に生まれ育った哀れな人」を指すのです)の天文学博士でした。またルカによる福音書では長い間救い主を待ち望んでいた敬虔なユダヤ教徒ではなく、ユダヤ人の血を引きながら、事実上イスラエルの市民権を持たない羊飼いたちが、世界最初のクリスマス招待客であったというのですから、神さまのなさることは分からないものです。

 

 ユダヤ教はイエスがキリストであることを認めない故に、わたしたちクリスチャンから見ると異教徒になってしまいましたが、元々は一つのグループでした。ユダヤ教徒の生き方から多くの点で学ぶものがあります。その一つは聖書に対する姿勢です。ユダヤ教の人々は聖書を土台にした解説書に基づいて、聖書の戒めを厳密に守ろうと努めています。例えば「安息日」の過ごし方は徹底しています。安息日には朝起きて寝癖がついていても髪の毛をとくことが許されません。それは労働になるからです。聖書に、「安息日にはいかなる業もしてはならない」と戒められているからです。顔を洗うにも規定通りにしなければなりません。食事の準備もできません。前の日に安息日の分も作っておかなければなりません。歩く距離も半径1以内と決められています。余談になりますがユダヤ人が紀元70年にローマとの戦いに敗れたのは勿論ローマの圧倒的な物量と軍事力によるのは言うまでもないことすが、直接の敗因はローマ軍がユダヤ人の安息日規定を知って、この日を選んで攻撃を仕掛けたものですから、易々と攻略できたのです。このように彼らは命を懸けて聖書の戒めを守ろうとしました。

 

 それほど厳密なユダヤ教社会の中にもなかなかその通りに生活できない人々もいました。その一つが羊飼いたちです。彼らの仕事は生き物相手なので、安息日だからと言って羊を放り出して礼拝に行くわけには参りません。すると厳格なユダヤ教の祭司やラビたちは礼拝に出席しない羊飼いたちを不信の輩と決めつけて市民権を剥奪してしまいました。またユダヤ人が神の選民、イスラエルであることの証として最も大切にしていた「割礼」を受けていない異邦人に対してはなおさら冷厳なものでした。しかし神さまは神さまを求める心さえあるなら、たとえ羊飼いたちや東方の博士たちであっても神の愛のふところに導き入れてくださいました。実際彼らこそ誰よりも一番にクリスマスを祝う権利を得たのでした。わたしは今日のクリスマスメッセ−ジのために「全世界の喜び」という主題を付けました。それは地球の裏側の人々も神の愛の対象だというメッセ−ジを感じるからです。しかしわたしは「世界」の定義をもっと身近なところに認めずにいられません。天使は彼ら羊飼いたちに告げて言いました。

 

 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と。

 

 わたしは大阪や兵庫県にいた頃、教派を越えた少数の牧師グループの一員として、赴任当初からこちらに来るまで、小さい働きながらいろいろな事情を抱えておられる方々のお世話をさせていただきました。東京に来てからわたしに与えられた使命はインターネットを通して寄せてこられる悩める人に対して、いささかなりとも相談相手になることだと自覚しています。顔と顔を合わせるとなかなか言えないことも、ネット越しですと突っ込んだ相談を持ちかけてこられます。そうしたささやかなご奉仕を通して感じることは、こうした人々の厚生を同じ人間でありながら差別し、阻害しているのは他ならない善男善女と言われる一般市民であり、救済機関であるはずの国や地方自治体であるという現実です。また、世界の誰よりもその子を愛しているはずの善良な親の心が、子どもたちにとって最も遠いところにある事実を知らされ背筋が凍る思いをさせられます。確かに社会は法律に従って行動しています。親たちも言っていることは正しいのです。しかし結果として不公平が生じ、弱者から見て差別感を拭えないでいます。子どもたちは居り場を無くしているのです。こうした非情さを目の当たりにするとき、イエスさまの時代の祭司やラビたち、そして敬虔なユダヤ教徒たちの異邦人に対する、また羊飼いたちに対する扱いと何か似ているものを感じるです。実に審かれるべきは善男善女と呼ばれるわたしたちなのだと言うことを痛感します。時には福音の使者であるべきクリスチャンでさえ、表面的な倫理観を振りかざして、神から賜った愛と赦しを置き忘れているという悲しくも罪深い一面のあることを認めないわけにはゆかないのです。

 

 クリスマスは全世界に与えられた恵みを全世界が心を一つにして喜ぶ日なのです。どうか、今もこの喜びに与ることの出来ない人々のあることを心に留めて先ずあなたがこの席に招かれたことを感謝してください。そして外見ではなく、心底救いを求めている人々のあることを心に留めて彼らをイエスさまのもとにご案内してください。そうでないと、異教徒とみなされていた東方の博士たちのように、不信仰と揶揄(やゆ)されていた羊飼いたちのように、彼らこそ一番に神の憐れみに浴し、反対にわたしたちは外の暗闇に追放されてしまうかも知れません。

 

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ4:19〜21)

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 あなたの独り子イエス・キリストの御降誕を感謝します。わたしたちはあなたを心から愛しています。でも、私たちはあなたの愛に遠く及びません。あなたの愛は前提のない愛です。無条件の愛です。偏見も差別もない愛です。しかし私たちの愛には矛盾があります。あの人を愛してこの人を愛することができません。他人様には善い顔をしますが、家族の者には冷淡になってしまいます。時にはその反対で家族のことが第一になって隣の人に関心を持つことができません。自分の子どもたちのためには何百万円も惜しみなくつぎ込むことができてもあなたのためには、或いはあなたの愛して止まない隣人のためには一円のお金も出したくないのです。

 しかし、あなたはこんな自己中心のわたしのためにも救い主を与えて下さいました。あなたの愛の偉大さ、広さを思わずにいられません。感謝します。どうかわたしを愛のある人間にしてください。あなたにならう者としてください。わたしにできることを教え、あなたに仕える心でこの世に仕える道を教えて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 


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