クリスマスイヴ礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年12月24日
 
「馬小屋にひれ伏す」
コリントの信徒への手紙二 4章7節
メッセージ 高橋淑郎牧師

                       

 聖書が言うように、人間は土の器として、できるだけ優れたもの、麗しいものを蓄え、それによって自分を高めようと務めるのです。しかし、たとえば花瓶に生けられた美しい花を見て、これは花瓶自身の努力で生けられたものと考える人はいません。では、土の器であるわたしたちの内に、誰がどのようにして美しい花のような宝を納めてくれるのでしょうか。

 新約聖書四福音書には世界で最初のクリスマスの様子が描かれています。有名な物語としては羊飼いと東方の博士たちのクリスマスです。博士と羊飼いは今日全ての人を代表しています。博士たちは地位方か書く、博学で、しかも豊かでした。反対に羊飼いたちは何も持っていません。今風に言うと、この世の勝ち組と呼ばれる人、負け組みといわれる人を代表しています。あなたがいわゆる人生の勝ち組なのか、それとも負け組みなのか、そんなことはどうだって良いのです。大切なのは、今夜あなたのうちに永遠の命の主、真の宝である主イエス・キリストがお生まれになった事実を受け入れることができたかどうかということが最も大事なことなのです。神は貧しい身分の羊飼いを、続いて博士たちを。そして2005年の今日、神は、全ての人を幼子イエス・キリストの下に導いてくださいました。沖縄には美しい言葉があります。「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉です。朽ちることのない命は朽ちることのない宝であるイエス・キリストにこそあります。わたしたちは、わたしたちのために貧しく低くなって下さったこの方の前に、身も心も低くひれ伏し、礼拝をささげなければなりません。この方のみ前にひれ伏してこそ、本当の意味で人生の勝利が約束されているのです。

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クリスマスイヴ礼拝メッセ−ジ】                         2005年12月24日

 
「馬小屋にひれ伏す」
コリントの信徒への手紙二 4章7節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 クリスマスは全世界で祝われています。それは「民全体に与えられる大きな喜び」だからです(ルカ2:10)。今夜、神が与えてくださったこの喜びを皆さんと分かち合いたいと思います。

 神は、人類の始祖アダムが禁断の木の実を食べ、罪に堕ちたとき、「お前は顔に汗してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」と言われました。(創世記3:19)。

 このお言葉を受けて新約聖書の著者は人間とは「土の器」であると言っているのです。それには二つの意味があります。一つは、人間は永遠の神さまと違って時間の中でしか生きられない者、いつかは朽ち果てる者だというのです。もう一つは、人間が時間の中でしか生きられないのは、神を畏れず、自己中心に生きようとする罪の性質を持っているからです。

 しかし、神は今から2千年前、天の御使を通して、民全体に大きな喜びを与えくださいました。クリスマスです。土の器である人間ですが、神の御子がこの地上に生まれてくださったことによって、わたしたちの罪は赦され、神の愛の中で永遠の命を受けるチャンスが与えられたからです。

 人は自分が土の器であることを知っています。だから、できるだけ優れたもの、麗しいものを蓄え、それによって自分を高めようと務めます。ある人にとってそれは学問かもしれません。それともお金儲けでしょうか。或いはスポーツに精進してヒーローになることかもしれません。世直しのため政治家を目指す人もいることでしょう。或いは大それたことはできなくても、日々つつましく生き、小さな家庭を守れればそれでよいと考える人がいるかもしれません。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(コリント4:7)

 ここに花瓶があります。美しい花が生けられています。この花は花瓶自身の努力で生けられたのでしょうか。もちろんそんなことはできません。人手によって美しく生けられているのです。生けられた花は、またこの花瓶の美しさを引き立てています。では、土の器であるわたしたちの内に、誰がどのようにして美しい花のような宝を納めてくれるのでしょうか。

新約聖書の四福音書には世界で最初のクリスマスの様子が描かれています。天使たちはこの嬰児を讃美して、「いと高き処には栄光、神にあれ、地には平和、主の悦び給う人にあれ。」(ルカ2:14。文語訳)と歌いました。また聖書は、主イエス・キリストのご降誕について、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリント8:9)と言います。

博士たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになったキリストを求めてはるばる東の国からやってきましたが、この方は王宮に生まれませんでした。名もなく地位もなく、貧しいマリアを通して、その婚約者ヨセフに見守られて家畜小屋にお生まれになりました。けれどもこの方はやはり、「ユダヤ人の王」、地上の諸々の王たちの中の王でした。イエス・キリストは神を畏れぬ人々の手で十字架に釘付けられて息絶えましたが、その十字架の上にはヘブル語とギリシャ語とラテン文字で、「ユダヤ人の王」と書かれていたように、イエス・キリストは死んで墓に葬られましたが、三日目に復活されました。イエス・キリストは人としてこの地上に下ってこられましたが、土の器ではありません。復活して天の王座に迎え入れられたのです。

イエス・キリストがお生まれになったとき、羊飼いと東から来た博士たちに、まずクリスマスへの招待状が与えられました。この人たちがささげたクリスマス礼拝は、当時も今も全ての人を代表しています。今風に言うと、この世の勝ち組、負け組みと呼ばれる人を代表しています。一方ではアポイントメントなしにユダヤの国王ヘロデに謁見が許される博士たち、一方は雇い主から預かった羊の番をするために、夜であっても野原でひじを枕に眠るしかない人たちです。学問のある人、ない人。社会的に地位の高い人、低い人。黄金・乳香・没薬など高価な贈り物を神にささげることのできる豊かな人、献げるものと言えば、溢れる感謝の心を認めてもらうほか何も持っていない貧しい人等、現代社会全ての人を代表しています。

 

愛する皆さん、あなたが人生の勝ち組なのか、それとも負け組みなのかそれは分かりません。でも、そんなことはどうだって良いのです。大切なのは、今夜あなたのうちに永遠の命の主である主イエス・キリストがお生まれになった事実を受け入れることができたかどうかということです。神は先ず貧しい身分の羊飼いを、続いて博士たちを。そして2005年の今夜、神は、彼らに代表される全ての人を幼子イエス・キリストの下に導いてくださいました。沖縄には美しい言葉があります。「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉です。命こそ何にもまさる宝です。朽ちることのない命は朽ちることのない宝であるイエス・キリストにこそあります。わたしたちは、わたしたちのために貧しく低くなって下さったこの方の前に、身も心も低くひれ伏し、礼拝をささげなければなりません。この方のみ前にひれ伏してこそ、本当の意味で人生の勝利が約束されているのです。これこそ真のクリスマスです。

 

祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神の御名を心から崇めます。

あなたは富んでおられたのに、わたしたちのために貧しくなり、2005年の今宵、人生の勝ち組、負け組み関係なく全ての者をクリスマスの喜びへと招いて下さったことを心から感謝します。しかし、教会から一歩外へ出ると、凄惨な事件、心も凍る悲しい事件が相次いでいます。命の貴さを知らない土の器の存在する現実を思うとき、そのような人たちにこそクリスマスを知らせなければなりません。今からクリスマス キャロリングのメンバーはこの暖かい交わりから出て行って、讃美の証、クリスマスの喜びを歌って回ります。どうぞこの奉仕が天の使いの歌う讃美に合わせて神の栄光、地に平和を触れ回る者として用いてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって。 アーメン。


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