【クリスマス感謝礼拝メッセ−ジ】                               2006年12月25日   

 

「 大いなる救い」 

 ルカによる福音書2章8−20節

高橋淑郎牧師

 

 2006年12月25日、わたしたちは晴れ晴れとしたこの朝、飼い葉桶に身を置いてくださった嬰児イエス・キリストに見(まみ)えることが許されているのです。今日はクリスマスの朝です。昨日、わたしたちは下からクリスマスの喜びを分かち合いました。聖書を人間の目線から眺めて、クリスマスの意味を考えました。それはとても大切な時でした。礼拝の前も後もわたしたちが置かれている状況に、格別の変化がないように見えましたが、わたしたちの内なるものは不思議に変化していることに気付かせられています。それは恐れから平安、悲しみから喜びへという変化です。

 しかし、わたしたちはそれをもってクリスマスの礼拝を完結したと言い切ってよいのでしょうか。聖書を人間の視点で読んで、果たしてそれで聖書を読み尽くしたと言えるのでしょうか。わたしたちは大切なことを忘れかけていました。それは、上からの視点、神の目線で聖書を読み直してみるということです。

 なぜなら、クリスマスは上からの出来事だからです。神が人間の歴史の中に割り込んで来られた、ここからクリスマスの物語は始められていたことを見落としてはならないのです。詩14編(旧約聖書p.844)を開いてください。ご一緒に読んでみましょう。

 お分かり頂けたでしょうか。神はわたしたちの経済的、精神的貧しさ、人生の矛盾と悲哀の全てをご存知で、わたしたちの涙、わたしたちの苦痛を憐れんで独り子を送ってくださった、そういうクリスマス理解も決して間違いではありません。しかし、神の御目から見るこの世界はもっと深刻なものでした。この世界には罪に目覚めた人、神を求める人は誰もいなかったという神の悲しみをわたしたちは誰一人知らなかったのです。それどころか、誰も彼もが、神に背を向け、「神などない」と豪語してはばからないのです。神は悲しみと怒りに燃えておられます。しかし、それでも預言者は神の御心をこのように伝えています。

 「わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり わたしを求めようとしない民にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない者にも わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザヤ65:1−2)と。

 しかし、神は、人間がいつかは預言者たちを通して語られる神の呼びかけに耳を傾け、悔改めて立ち返るであろうと期待し、忍耐しておられましたが、人類はその手を振り解(ほど)くようにして、罪の泥沼にどっぷりと浸かりこんでいました。もはや救いようのない絶望的な状況、これが人間社会の現実です。豊かであれば神など必要ないと言い、貧しければ神はいないと不平を言い、毎日が順風満帆であれば神の存在を疑い、不幸が重なり合って打ちひしがれていると、神は何をしているのか、どうして助けて下さらないのかと抗議を恐れない、これがわたしたちの現実なのです。高慢で全く救いようのない者、これがわたしたちなのです。神の側からすれば、今すぐに最後の審判を下すこともできます。しかし、神はどこまでも愛と正義のお方です。憐れみに満ちたお方です。この罪深く心頑ななわたしたちを裁くためでなく、救うために、永遠の滅びに至らせるためでなく、永遠の命を得させるために、この世に飛び込んできて下さった。これがクリスマスです。しかもその降誕は飼い葉桶の中に身を置くまでに謙り、わたしたちにもっと心を低く砕いて悔改めよと、語りかけておられるのです。これが上から始まったクリスマスなのです。

 やがて30年後、この方は十字架にその身を委ねられました。そして復活の御体を示し、釘跡も鮮やかな両手を一杯に広げて、「神などいない」と豪語する罪深いこの世に、最後の最後まで、そうです。今も忍耐して、「わたしを尋ねよ、わたしを求めよ。わたしはここにいる、わたしはここにいる。」と招いて下さっているのです。これがクリスマス物語の完結なのです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

 わたしたちはいつも自己中心的にクリスマスを考え、飼い葉桶を覗き込んでは余り気にも留めずに表面的なお祝いで満足する者でした。それはあたかも羊飼いから主イエス・キリストのご降誕の様子を聞いた人々が不思議に思ったのと、同じ程度のことでした。

しかし、羊飼いは素直に天使のメッセージに耳を傾けて飼い葉桶に眠る神の御子を尋ね求め、探し当てて礼拝し、神を崇め、讃美しました。マリアもまた飼い葉桶に眠る嬰児をめぐって起こる一つひとつの出来事を心に納めることを忘れない敬虔な女性でした。

クリスマスは、飼い葉桶からこの世界と共に、さまざまなわたしたちの姿を映し出しています。あなたの顧みと赦しなしにわたしたちはあなたの前に立つことのできなかったことを思い、今こそ心からあなたに感謝します。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


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