グッドフライデー特別礼拝メッセ−ジ】                          2004年4月9日

 贖われたのは

ペトロの手紙一1章17〜25節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会カレンダーによると、四旬節第五日曜日の週に当たる今週を「パッション ウィーク(Passion Week 「キリスト受難週」)」と呼び、特に今日の金曜日を「キリスト受難日」と呼んでいます。わたしたちの教会ではもう何年も前から、この日を「グッド フライデー(the Good Friday) 」として特別礼拝をささげています。パッション(passion)とは、「感情」、あるいは「情熱」という意味ですが、その原義は「苦しみ(suffering)」にあることから、キリスト受難日と呼ばれています。わたしたちの教会ではキリストが十字架の上で苦しみを受け、死んで下さったことによって、わたしたちの罪、そしてその結果としての神の裁きを免れて救われたことを記念して、「グッド フライデー」、「(感謝すべき)良い金曜日」という意味で礼拝をささげることにしているのです。

 さて、新約聖書に収められている四つの福音書には、主イエス・キリストのご生涯が記録されています。とりわけどの福音書にも十字架に上げられる前後のこと、及び三日目に甦られた後のことを丁寧に記録されています。イエスは地上にある間、虐げられた人、社会の隅っこに取り残され、あるいは排除されている人々に積極的に近づいて愛の御業をお示しになりました。その教えはいつも単純でわかりやすく、しかも神の国とその意味、また聖なる神の愛を率直に語って下さいましたから、イエスを慕う人々の数は次第に増し加わりました。しかし愛の光が射すところでは、その向こう側で妬みや憎しみの影を作る人がいます。特にイエスに対して激しい憎悪を抱いたのは、当時聖職者と呼ばれる祭司階級と律法の教師達でした。彼らは人々に聖書が証言している真の神に礼拝をささげることの大切さと、聖書の教えを生活の中で実践することを熱心に教えていながら、その聖書の本当の意味を教えるイエスを受け入れようとしないばかりか、イエスに対する民衆の支持が高まるにつれて妬みと憎しみに燃え、やがてその憎しみは殺意となり、ついにイエスを捕らえて十字架につけてしまいました。これは神を敵に回し、裁きをその身に招く恐るべき大罪です。罪を犯している人は自分が罪びとであるという自覚を持ちません。だからどんな酷いこともできるのです。

 それとは対照的に十字架上のイエスは、このようなひどい仕打ちを受けながら驚くべきことに、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)と祈っておられるではありませんか。神を畏れぬ罪びとたちの勝ち誇った顔、顔、顔に取り囲まれながら、「敵をも愛せよ」と教えられたイエスは、死の間際にあってもなお、自らそれを実践なさったばかりか、この罪びとたちのために執り成しの祈りを捧げておられます。果たしてこの祈りの言葉をいったいどれくらいの人が聴いていたのでしょうか。十字架の下では死刑執行人であるローマの兵士がイエスの着ていた服を引き剥がして分け合い、肌着は一枚ものでしたから、くじ引きで奪い合っています。主はこのローマ兵のためにも祈って下さったのです。聖職者達は民衆をあおって、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救ってみよ」と、激しい口調で十字架上のイエスを嘲(あざけ)り、罵(ののし)っています。主は、この聖職者たちや無知な民衆のためにも祈って下ったのです。イエスの弟子たちはどこへ行ったのでしょうか。12弟子のひとりでユダは銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切って売り渡しましたが、後になってイエスに有罪の判決が下ったと聞き、とんでもないことをしてしまったと後悔しました。そして自ら命を絶つという間違った責任の取り方をしてしまいました。主はユダのためにも祈って下っていたのに。では、他の11人の弟子たちは殉教も辞さず最後までイエスに忠実であったかというと、そうではありません。みな恐くなって逃げ出してしまいました。12人の中の1人(たぶんヨハネと思われます)とイエスの母マリアと数人の女性の弟子たち以外に、十字架上の祈りをまともに聞いている人はいなかったようです。

 先ほど読んで頂いたペトロの手紙一ですが、この手紙の筆者であるペトロは弟子の1人でした。18節をご覧下さい。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」と言っています。この言葉はペトロ自身の苦い体験が言わせたものと言ってよいでしょう。ペトロはイエスの弟子としてイエスを誰よりも愛していると自負していました。だから、最後の晩餐の席で、「どんなことがあってもあなたを見捨てたりしません。」と言い切ったのです。しかし、主イエスは、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と予告されました(マタイによる福音書26:34)。それから数時間後、主イエスが捕らえられ、不条理な裁きを受けておられる間、ペトロはその様子をこっそり見にきていました。ところが、人々が彼に気がついて、「あなたもあのイエスの仲間ではないのか」と尋ねられたとき、彼は怖くなり、思わず「知らない」、「知らない」と二度まで嘘をつきました。そして三度目に、「わたしは彼を知らない。この言葉が嘘なら、神に呪われてもよい」と誓ってまで、イエスの弟子であることを強い調子で否定したその時、どこかで鶏が鳴きました。ルカによる福音書はその時、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(22:61)と書いています。彼はイエスのあの警告の言葉を思い出して、外へ出て激しく泣きました。しかし、聖書を読み進みますと、再びペトロが登場します。自分の弱さ、卑怯さを痛感して一時は自分を責めましたが、自分の帰るところはやはりイエスの許でしかない、と悔い改めて立ち返ったのです。しかも、彼は自分ひとりが立ち直ってよしとはしません。自分のあの苦い経験を通して、ひとりでも多くの人に神に立ち返る機会を提供するものとなれば幸いだという思いを込めてこの手紙を書き送りました。

 確かにわたしたちはこれまで先祖伝来の空しい生活をしていた一人です。食べて、寝て、働いて、子育てをしていますが、人生の意味も目的も、死後自分の魂はどうなるのか、どこへ行くのか何もわからないまま、ただ惰性に流れてその日その日を過ごしているのです。先祖が生きてきたように生き、先祖が死んで逝ったようにわたしたちもやがて死んで行くのです。先のことは何も分からないのです。考えてみると、これほど不安なこと、恐ろしいことはありません。そうはお思いになりませんか。ペトロは言います。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と。ここにいう主の言葉とは「聖書」のことです。今日その気になれば主の言葉を聞く機会は沢山あります。町のところどころにキリスト教会があります。そこでは毎日曜日主の言葉が語られているのです。この言葉に耳を傾けることを知らず、神を知らず、神に脊を向けながら空しい人生を送ることを聖書は罪と言います。主イエスを十字架に釘付けたのは2千年前のユダヤ人だけではありません。今日ただいまわたしたちの無知と傲慢さこそが主イエス・キリストを十字架に釘付けているのです。しかし、こんなわたしたちの罪のために、主は十字架の上から、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って下さいました。主の弟子であったユダは犯した罪を後悔して、その罪を自ら裁いてしまいましたから、この赦しの言葉を聞くことができませんでした。ペトロは一見卑怯な人間、生き恥を曝した人間のように見えますが、その後の彼はすばらしい神の働き人として変えられています。彼は弱さから主を知らないと言ってしまいましたが、その後悔い改めて神の許に、復活のイエス・キリストの下に立ち返ったからです。

 人は皆、過ちを犯します。罪のない生涯を貫くことは不可能です。わたしたちもユダのように自分の欲望を満たす為に自分の魂を、いや神さえも売り渡すことをやってのけます。ペトロのように今は、「主を愛しています。この方に生涯従います。」と告白していても、自分を取り巻く状況次第では、「神はいない」、とか、「イエス・キリストなど知らない」と主を裏切ってしまうかも知れません。わたしたちはこのように弱い者です。先ずその事実を受け入れましょう。その上で心したいことは、犯した罪や過ちを後悔するだけでは不十分だということです。後悔は人を孤独にし、絶望の道をたどらせてしまいます。悔い改めてこそ救いがあるのです。今夜、主キリストはあなたのためにも十字架の上から、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って下さっているのです。あなたの罪は今夜この祈りの中に溶かされました。あなたはもう赦されているのです。どうか、この赦しの言葉に背を向けないで下さい。後悔するのではなく、今悔い改めて下さい。悔い改めて主の赦しの許に立ち返りましょう。イエス・キリストをあなたの救い主と信じ、この方に従う決心をしましょう。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によってわたしたちの罪は贖われました。しかし、わたしたちは今日までこの神の愛を知らず、先祖伝来の空しい生活を送っていました。わたしたちは今、わたしたちの内には、自分ではどうしようもない罪と弱さのある現実を認めます。この罪と弱さこそ、さまざまな過ちを繰り返す源であり、この罪の現実が主キリストを十字架に釘付けている何よりの証であるということを受け入れます。しかし今夜、主イエス・キリストはこんなわたしたちのために、わたしたちの罪の象徴である十字架の上から、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という執り成しをして下さっていたことを知りました。わたしたちはもう後悔しません。悔い改めます。悔い改めてあなたの許に今立ち返ります。あなたこそわたしたちの人生を新しく造り替えることの出来る全能の神です。あなたこそわたしたちの唯一の救い主です。感謝します。

私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。


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