【元旦礼拝メッセージ】                    2001年1月1日

「主 こ そ 神」

詩編100:1〜5

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 2001年が明けました。日本では一月をまた正月と言います。「波頭 いただきそめし 初日かな」

 

 見慣れた景色も元旦となると、何か新鮮な輝きを感じます。彼の吉田兼好(卜部氏の出ですが、吉田に在したことから「吉田兼好」と称したそうです。1283〜1350年)も「徒然草」第19段文末で「こうして元旦の明けて行くあたりの様子は、昨日に変わっているとは見えないが、まるで変わって珍しい心地がする。都大路のさまも、松を立て並べて、はなやかに嬉しそうな感じがするのも、また趣の深いものだ」と書いています。650年以上経っても日本の正月に寄せる風情は変わっていません。欧米ではどうかというと、英米では1月をJanuaryと呼びます。これはローマ神話に出てくるヤヌスの神をまつる月という意味があります。ヤヌスには前にも後ろにも顔があって、過去と現在、或いは未来を、去年と今年を守るものとされています。

 

 また年賀状に関するこういう句もあります。「年賀状 小さな借りを 思い出し」。正月元日を新たな思いで迎えるのも、年賀状で旧交を温めるのも一向に構いません。但し、ここにも気を付けないとクリスチャンの心に忍び寄る偶像崇拝の誘惑がある事を忘れてはなりません。正月は元々仏教的な理解に立つなら、最早この世にいないはずの先祖の霊が懐かしい子どもや孫、親類縁者の元に帰ってくる三日間です。それが正月三が日の過ごし方です。だから人々は大晦日の晩から初日の出を拝みに行き、また神社・仏閣への初詣に出かけるのです。もう一つの誘惑は「干支(えと)」です。クリスチャンの賀状にさえ「干支」が君臨しているのを見ると、この異教の国で伝道し、教会造りをする困難さを痛感します。そこで元旦礼拝を共にささげている私たちはこの機会に「干支」について注意すべき事を学んでおきたいと思います。

 

 古代中国の暦の組み合わせから来たもので、十干・十二支といいます。十干とは番号の役をする基本カナ十個の名称です。木(き)・火(ひ)・土(つち)・金(か)・水(み)の五行に、それぞれ兄(え)と弟(と)と併せて読みます。甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)と読みます。この十干と組み合わせて方角、年月日を表す十二支の名称として用いました。これが子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥です。所がこれを実在の動物や架空の動物を当て字で用いるようになると、今やそれが一人歩きして、縁起を担いだり、霊験あらたかなものとして崇めるようになりました。或いは崇めないまでも吉凶を占う材料にさえなっています。これはクリスチャンにとって、教会にとって由々しいことです。「今年は平成13年、巳年です。蛇のように賢く、鳩のように素直な信仰生活でありたいと願うものです」などという年賀状を受けた人もいるのではないかと思います。キリストが誰であるかを知らない人ならともかく、クリスチャンがこのような年賀を出すことは危険です。

 

 イエスは弟子たちに「わたしを誰というか」とお尋ねになったことがあります。イエスがこの質問をなさったのには理由がありました。その場所はフィリポ・カイサリヤと言う所でした。この地名からも想像できるように、カイザルを神とも崇めるところで有名でした。所狭しと異教の神々が奉られているところでした。だからこそ弟子たちがその土地の文化風習、また宗教にじわりじわりと染められることのないように「わたしをだれというか」とわざわざ質問なさったのです。つまり、この世に神と呼ぶべき方、主と呼ぶべき方はイエス・キリストを置いて他にないという信仰告白を迫ったのです(マタイ16:13〜16)。この日本こそあちらにもこちらにもこのような誘惑に満ちています。気を付けないと、キリストへの信仰が曖昧にされそうです。詩100編の詩人は言います。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群」と。クリスチャンは元旦こそ、どこへ行くよりも先ず私たちを造られた神、私たちを養っておられる主イエス・キリストの下に感謝しつつ、門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入って行かねばなりません。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 新しい年、2001年の幕開けに私たちをあなたの御許に呼び集めて下さいましたことを心から感謝いたします。世の多くの人はあなたが誰であるかを知らず、人の手で造られた神々、人の手で持ち運ばなければならない神々の前に初詣と称して平伏し拝んでいます。しかしあなたは私たちをこの御堂に呼び集めて下さいました。けれどもそれは私たちだけの自己満足のためではありません。あなたは今こそ「わたしを誰というか」と信仰告白を迫っておられるのです。どうかこの一年、いつでも。どこでも、どのような状況に置かれても、あのペテロのように「あなたこそ生ける神の子キリストです」と大胆に証しする事の出きる者へとお導き下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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