【主日礼拝メッセージ】                 2001年2月4日

「耳ある者は聴け」

マタイによる福音書13:1〜9,18〜23

         メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                

 教会は神の御言葉を全ての人に届けたいとの願いを以て語ります。しかし高慢と意識的反感によって理論武装し、踏み固められた心の人がいます。このような人は端(はな)から御言葉を受付ません。するとその人よりもっと「悪い者」(サタンとその配下の悪しき霊)が折角語られたみ言葉を奪い取ってしまいますので、その人は聞いたことさえ忘れてしまうのです。

 熱し易く冷め易い心の人がいます。初めてみ言葉を聴いた時、とても新鮮です。感動して暫く出席しますが、その内に牧師の説教がいつも同じ内容に感じられ、飽きてきます。また教会生活が社会生活の妨げになり、選択を迫られると、この世の方が大事だからと教会から離れて行ってしまうのです。

 この世の文化や華やかさにすっぽり包み込まれたままみ言葉を聴いている人もいます。聖い生活に憧れて教会に来始めましたが、どうしても古い生活習慣が抜け切れません。御言葉がちくちく心に突き刺さり、このままではいけないと思うのですが、それ以上に巧みに誘惑してくるこの世の力に抵抗できず、次第に蟻地獄に吸い込まれて、教会から離れて行ってしまうのです。

 しかし、偶々教会に導かれて真理の御言葉に触れた時、まるで電気に打たれたように、罪を示されて悔い改め、イエス・キリストを神の子救い主と信じ従う生活を貫く者とされるのです。するとその人は30倍、60倍、100倍もの実を結ぶ祝福された人生へと導かれて行くのです。聴く耳のある人は幸いです。

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【メッセージ本文】      「耳ある者は聴け」

マタイによる福音書13:1〜9,18〜23

 

 主イエスの説教はいつも例話、特に譬え話を中心にしているのでとても聞きやすい感じがします。しかし聞きやすいから分かり易いというものでもありません。よほど聴く耳を持って聴かないと、真理に近づくことは難しいのです。今日のお話などは特にそうです。 

 さて譬え話を大きく分けると、寓話と比喩と言うことになるでしょう。寓話とは教訓めいた譬え話のことです。イソップ寓話の一つにこう言うお話があります。一匹の犬が何かを口にくわえて池の畔に来ました。水面を見ると向こうにも何かを口にくわえたままじっとこちらを見ている犬がいます。「よし、あいつを脅かしてくわえている物を横取りしてやろう」と考えて「ワン!」と一声吠えました。すると自分のくわえていた物がポチャンと池の中に落ちてしまいましたとさ」 こういう話はある程度の年頃の子どもたちであれば、欲張りはいけないんだなと理解できます。

 所が同じ童話でもアンデルセンの「醜いアヒルの子」の話を読んで、それが私たちの罪のために醜くなって下さったキリストの受難と栄光の比喩で、もっと醜い罪人の私たちもやがてこのキリストと共に栄光の体に甦らせられる約束の物語であると理解できる人は何人いるでしょうか。このように譬え話というものは、話として聞いていて楽しいし、面白いです。しかしその話が何を意味しているかとなると案外難しいのです。 

 イエスの譬え話も、仮に1〜9節で終わったままであったとすると、その意味するところを理解するのは容易なことではありません。群衆の殆どはすぐに解散してしまいましたが、12弟子と幾人かの人々はこの話の意味を尋ねたとマルコ4:10は伝えています。よくぞ尋ねてくれたことです。ところで13:1〜2はルカ5:1〜3と良く似ていると思いませんか。もしかしたらこの時のことかも知れません。つまり今日学ぶ箇所は2000年度から2001年度へと継承された教会主題と無関係ではないと言えます。イエスはここで御国の言葉とその言葉を聞く人の心の関係を譬えで教えておられるのです。

 

一、道端に落ちた種

 ミレーの「種播く人」という絵があります。この絵から、種を一粒一粒丁寧に蒔く日本の農業とは違い、あちらでは結構大雑把な播き方をしていることが分かります。農夫が田畑で種を播いていますが、すぐ後ろにどう見ても雀のような小鳥ではなく、烏のような鳥がおこぼれを頂戴しようと悠然と羽を広げてついてきています。一羽や二羽ではなく、何十羽もの鳥がです。 

 神の御言葉を聞く人の中に「道端」のような心の人がいます。人や車で踏み固められたように、種に根を下ろす余地を与えない人です。このような人は傲慢で、この世の論理に武装されているため、御国の福音を聞いても冷笑と無関心、意識的反抗を繰り返し、心にそれを受け入れようとしません。すると「悪い者」が来てみ言葉を奪い取り、その心に神が語られた記憶さえ消し去ってしまうのです。「悪い者」とはサタンとその配下の悪霊のことです。彼らは人々の心に蒔かれた種が根を下ろす暇を与えないように躍起になっているのです。

 

二、石地に播かれた種

 石地は太陽の熱を吸収、保存しますからそのような所に播かれた種は他よりも早く発芽します。しかし地熱がいつまでも上昇したままなので、やがて朝毎に昇る太陽に根が焼かれてしまうのです。「み言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、み言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」と説明されています。第二次世界大戦が日本のポツダム宣言受諾を以て漸く終わったのが1945年でした。その直後から連合軍GHQによる占領政策が始まりました。それと並行して宣教師達が続々と日本にやってきました。雨後の竹の子のように全国にキリスト教会が出来、多くの日本人が教会に吸い寄せられました。

 私も実はその一人です。所が20年も経たない内にまた潮が引くように多くの日本人は教会から離れて行きます。なぜでしょうか。まさに当時の人々の心は石地のような心でみ言葉を聞いていたのです。それ以後教会はさながら「ざる」で水を掬うような伝道を繰り返しています。勿論牧師の説教に問題がないとは言えません。教会の伝道の不熱心も原因しているかも知れません。それは素直に反省し、悔い改めなければなりません。しかし同時に聞く側の心もまた神の御前に審かれるのです。み言葉を聞いて喜ぶ人に訪れる「信仰のテスト」があります。日常生活の困難、大きくは迫害に曝されるのです。それでも神に従うか、まず神の国と神の義を求めるか、それともこの世の趨勢に膝を屈めるのか、決断しなければなりません。石地に蒔かれた人の心は「それでも」と神に信頼し、神に従うことが出来ず、反対に神の御言葉そのものにつまずいてしまう人のことです。

 

三、茨の中に蒔かれた種

 香川県丸亀市で伝道していたとき、教会のお隣に農家の方がおられました。垣根越しに挨拶を重ねる内にすっかり親しくなり、家族ぐるみのお付き合いが出来るまでになりました。昔ながらの三世代同居のお家で、当時60代後半の父上はまだ現役で、連れ合いの方を助手席に載せて軽トラックを運転しながら毎日忙しそうに働いておられました。夕方など庭で草を取っていましたら畑から戻ってこられます。市場に出せない大きさや形の野菜をヒョイと無造作に食べてくれといいながら手渡して下さいます。そんなお付き合いが始まったある日、何を思ったか突然「今でこそ土地も肥えて思うように米や野菜を作れるまでになった土地だが、初めの頃は辺り一面いろんな種類の雑草が抜いても抜いてもどんな野菜よりも先に延びて成長を邪魔されて困ったよ」と苦労話をして下さいました。 

 イエスの譬え話にある茨の中に播かれた種の話もそうです。パレスチナ一帯は茨の地とも言われるところと物の本に書いてあります。多分そこはきちんと茨を抜いたと思っていた土地だったのでしょう。しかし土の中にその根は生きていました。茨は土の中で播かれた種と一緒に育ち、やがてもの凄いスピードで成長し、ついには種の成長をストップさせてしまったのです。 

 人の心に一応み言葉が届きました。み言葉はその人の心に根付いたかに見えました。しかしその人の心にはもう一つの種が既に根を下ろしています。それは世間体や富の誘惑と言う根っこです。先日青梅曙キリスト教会に協力牧師として赴任された渡辺暢雄先生の就任感謝礼拝に行って参りました。挨拶の中で大谷唯信先生は「東京の西のはじっこに位置するこの地で伝道する者にとっては忍耐と希望を学ばされる所です」と仰いました。特別集会やコンサートを開くとそこそこ人は集まってきます。そして聖書の話にも耳を傾けます。しかしいざ信仰を決断する段になると、代々続いている家のしきたりや宗教との絡みがあって、そこから先なかなか前に進まないのだと言うのです。

 しかしこのようなことは青梅地区に限らず、日本中どこにでもみられます。新共同訳聖書では「世の思い煩い」とありますが、口語訳では「世の心づかい」と訳されています。家のしきたりや宗教や世間体が神の御言葉を塞ぎ、実らせないのです。神を求めながら、いつの間にか信仰が死んでしまう人のことです。

 

四、良い地に播かれた種

 しかしみ言葉を聴いてそれを悟る人がいます。聖書が言う「悟る」(συνιεντοs)とは「共に遣わす」という意味の単語からの派生語だそうです。つまり「悟る」という言葉には運動があり、方向があり、目的があります。神のみ言葉から「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言うキリストの命令を聴き取り、それを実行しようとする人です。この世の全てを失ってもキリストを失うまいとする新生を体験した人です。それはまた「キリストを失わない限り、この世で生きていけないと言うことはない」と経験をする道。100倍、60倍、30倍にも成長する道なのです。

 愛する兄弟姉妹。このイエスの譬え話は未信者や求道者のためにのみ与えられたものだと思いますか。そうではありません。全ての人、そうです。クリスチャンといえども毎週の礼拝で語られるメッセ−ジをどのような心で聴いているか、それが問われているのです。あなたの生活に実りが見られないのは勿論メッセ−ジを取り次ぐ牧師である私の責任かも知れません。それと共に、聴くあなたの心も問われていることを忘れないで下さい。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

あなたは今日私たちの心に神の御言葉を蒔いて下さいました。私たちは今自分の心が道端のような心であったり、土の薄い石地であったり、茨に覆われた土地であったりしていることを思い起こさせて下さいました。どうか今あなたの憐れみのみ手で固く閉ざされた心をときほぐして下さい。石をすっかり取り除けて下さい。茨を取り除いて下さい。み言葉を悟る者、他の何を失っても全ての全てであるあなたの独り子イエス・キリストを失うことのない信仰の人と造り変えて下さい。

救主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 


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