【主日礼拝メッセージ】                           2001年3月11日

良い真珠か、高価な真珠か

   マタイによる福音書13:45-46

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                

 今日は真珠の取引を生業(なりわい)とする商人が非常に高価な真珠に出会った時喜びの余り、持ち物をすっかり売り払ってそれを手に入れたというお話です。私たちの人生は良い真珠を探し求める人生です。しかし良い真珠は必ずしもそれを持つ人々を幸せにはしません。時にそれは苦痛を伴うことがあり、人をもわが身をも傷つけることがあります。世界の歴史がそれを証明しています。

 人を本当に幸せにする高価な真珠はイエス・キリストがもたらす天国のみです。天国とは神の国という意味です。即ち私たちの心を神に従わせた時、私たちは初めて天の御国を得たことになるのです。良い真珠とはこの世でそこそこ充実した人生という程度のものです。しかし高価な真珠は神のもとにしか求めることが出来ない「永遠の命」です。これを得るためには、私のあるがままを神に献げなければなりません。

 ツィンツェンドルフと言う18世紀の偉大な神の僕(しもべ)が、若き日に美術館でイエス・キリストが十字架に張り付けにされている絵を見ていました。やがて彼の目から涙が溢れ出てきました。その絵の下の方に書かれた一行の文章を読んだからです。その文章とは「わたし(イエス・キリスト)はあなたのためにこれをした。あなたはわたしのために何をするのか」と。その直後彼は祈りに導かれて自分の生涯を神に献げますと決心したと言うことです。

 あの美しい真珠はどのようにしてできるか、それは皆さんもご承知の通り、貝のなかにほんの少しだけ貝粒を入れることから始まります。貝は侵入してきた異物を吐き出すこともできず、苦しみもがきながら、結局それを巻き込んで成長して行き、やがてあんなに美しい真珠として完成するわけです。

 天国も同じです。イエスさまは私たちの罪という異物を受け入れて下さいました。主はその異物のために苦しまれます。十字架はその苦しみの頂点と言うことが出来ます。しかしその結果イエス・キリストはあの高価で美しい真珠として甦られました。天国を得るとはこのイエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、従うことです。神の僕として成功を収めた人々は皆、神が備えて下さった永遠の命を得るために自分の全生涯を神に献げました。

「イエス・キリストがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(コリント5:15)。

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【メッセージ本文】     良い真珠か、高価な真珠か

マタイによる福音書13:45-46

 

 先週は農夫が主人公の譬え話でしたが、今日は真珠の取引を生業(なりわい)とする商人のお話です。先週は偶然宝物を発見して手に入れた人のお話でしたが、今日は良い真珠を探し歩いていた商人が非常に高価な真珠を見つけたお話です。この二人に共通するものは宝や高価な真珠に出会うやいなや喜びの余り、持ち物をすっかり売り払ってそれを手に入れたという点です。実に主イエスの譬の目指すところはここにあることがわかります。 

、昔も今も真珠に魅力を感じない人はいないでしょう。何と言っても清楚な美しさに引かれるからではないでしょうか。主イエスの時代、真珠の採れる所と言えば紅海沿岸か遠くはイギリス、或いはインドであったと言われています。ですから商人は少しでも質の良い真珠を求めて世界中を歩き回っていました。そんなある日、実に「これぞ真珠」というべき最高の真珠に出会ったのです(「高価」と訳されている原語の意味はそれほどの意味があるのです)。これだけのものは世界広しといえどもめったにお目にかかれるものではありません。商人は早速持ち物全てを売り払ってそれを買い求めました。良い真珠は確かに多くはないでしょうが、それでも紅海やイギリス、インド、またはこの日本の国にも見出せないことはありません。しかし非常に高価な真珠は世界に一つしかないのです。 

、天国は真珠にたとえることが出来ます。主イエスの譬の意味は天国こそ非常に高価な真珠のような世界だと言う教えです。

沖縄に「ニライ・カナイ」という信仰があるそうです。ニライ・カナイとは「遙か遠い海の彼方に満ち足りた国、あらゆるものの根源である国が存在する」という信仰です。地平線の彼方から水平にこちらへやってくる神を待つという信仰と言って多分間違いないでしょう。大抵の人々は、神は上から来られると考えます。これを垂直思想というなら、沖縄の人々のニライ・カナイ信仰は琉球に独裁者を生む素地を造らない水平思想と言うことが出来ます。この穏やかな琉球の民の前にこれまで実に多くの垂直的な神々が渡来して彼らを苦しめてきました。時にキリスト教会でさえその上からの支配、権力を利用するような形で沖縄の人々にのしかかった時期がありました。実に私たち日本バプテスト連盟もそのような罪責があるのです。最近漸くにして日本バプテスト連盟はそれに気が付いて、いや正直言って沖縄の諸教会からご指摘を受けて恥ずかしながら謝罪したばかりです。 

 私たちの人生も幸福の青い鳥、良い真珠を探し求める人生です。しかし良い真珠は必ずしもそれを持つ人々を幸せにはしません。時にそれは苦痛を伴うことがあります。人をもわが身をも傷つけることがあります。人を本当に幸せにする高価な真珠はイエス・キリストがもたらす天国のみです。

、ツィンツェンドルフと言う18世紀の偉大な神の僕が、若き日に美術館でイエス・キリストが十字架に張り付けにされている絵を見ていました。やがて彼の目から涙が溢れ出てきました。その絵の下の方に書かれた一行の文章を読んだからです。そこにはこう書かれていました。「わたしはあなたのためにこれをした。あなたはわたしのために何をするのか」と。その時彼は祈りに導かれて自分の生涯を神に献げますと決心したと言うことです。

 あの美しい真珠はどのようにしてできるか、それは皆さんもご承知の通り、貝のなかにほんの少しだけ貝粒を入れることから始まります。貝は侵入してきた異物を吐き出すこともできず、苦しみもがきながら、結局それを巻き込んで成長して行き、やがてあんなに美しい真珠として完成するわけです。

 天国も同じです。イエスさまは私たちの罪という異物を受け入れて下さいました。主はその異物のために苦しまれます。十字架はその苦しみの頂点と言うことが出来ます。しかしその結果イエス・キリストはあの高価で美しい真珠として甦られました。天国を得るとはこのイエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、従うことです。神の僕として成功を収めた人々は皆、神が備えて下さった永遠の命を得るために自分の全生涯を神に献げました。

 愛する兄弟姉妹、あなたの人生はこれまで良い真珠を求める日々であったことでしょう。しかしその良い真珠を得たことで却って多くの人を傷つけてきたかも知れないのです。最後に使徒パウロの言葉を聴いて下さい。

「イエス・キリストがすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(コリント5:15)。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。私たちはこれまで良い真珠を求めながら競争社会を生き抜いてきました。その結果この国も私たち日本人全体がアジア諸国に対して、また同胞の沖縄の人々、或いは社会の底辺に呻吟する人々を踏みつけ、差別し、排除して参りました。しかし、今朝主イエスのこの譬え話を通してそのような愚かな人生に区切りをつけるべき時が来たことを認めます。

 主よ、今こそ受けることを優先するこの自我を捨てて、あなたに献げるることから始めさせて下さい。そして高価な真珠、永遠の命を受ける道をお示し下さい。私たちの主イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 


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