【主日礼拝メッセージ】                           2001年3月18日

「良いものを器に、悪いものは投げ捨てる」

   マタイによる福音書13:47-52

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                

 主イエスの譬え話は曳き網式で漁をする漁師のお話です。引き網漁法は何でも網に引っかかってきます。これは天国の譬え話です。内容的には「毒麦の譬え話」に似ています(36節〜)。また教会はその天国の扉を開け閉めする鍵が授けられていますから(16:18〜19)、この譬え話は教会の為に与えられたメッセ−ジと言うことが分かります。教会は色々な人が集められる曳き網のようなものです。良い人も悪い人も、優しい人も意地悪な人も、有益な人も無益な人も来ます。そのような時、私たちは自分のことを棚に上げて自分勝手な価値観で人を審いてしまう傾向があります。しかし私たちは「汝審くなかれ」(7:1)と戒められていることを忘れてはなりません。正しく裁く等と言うことは人間には出来ないからです。

 しかしこの譬え話は同時に善と悪、真実と偽善、義と罪がはっきりと分けられる時が来ると言う警告であることもまた確かです。終わりの日、漁師ならぬ天使が神の審きによって滅びを宣告された者を外の暗闇に投げ捨てることでしょう。あなたがその一人になり果てることがないようにと言うこれは警告のメッセ−ジです。

 審きの日に耐えられる人、それは神と個人的な交わりを多く持った人、互いに罪を告白し合い悔い改めに導かれた人、神からの和解と兄弟姉妹相互の和解を経験した人です。

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【メッセージ本文】       「良いものを器に、悪いものは投げ捨てる」

                マタイによる福音書13:47-52

 

 聖書の時代にも、魚を漁る二つの方法がありました。一つは投げ網漁です。漁師は岸から膝くらいまで進み、水中に泳ぐ魚が近づくのを待って網を投げるやり方です。

 もう一つは曳き網漁法です。四隅に網と錘のついた大きな網を垂直に沈め、船を移動させると網は傘のようになって魚を集めるのです。漁師は網を引き上げて岸に戻り、売り物になる魚は器に入れ、値打ちのないものや稚魚は湖に戻します。主イエスの譬え話に用いられたのはこの二番目の方法です。

 

一、引き網漁法は何でも網に引っかかってきます。これは天国の譬え話です。内容的には「毒麦の譬え話」に似ています(36節〜)。また教会はその天国の扉を開け閉めする鍵が授けられていますから(16:18〜19)、この譬え話は教会の為に与えられたメッセ−ジと言うことが分かります。教会は色々な人が集められる曳き網のようなものです。良い人も悪い人も、優しい人も意地悪な人も、有益な人も無益な人も来ます。そのような時、私たちは自分のことを棚に上げて自分勝手な価値観で人を審いてしまう傾向があります。しかし私たちは「汝審くなかれ」(7:1)と戒められていることを忘れてはなりません。正しく裁く等と言うことは人間には出来ないからです。誰が救われ、誰が審かれるかは神の主権に待たなければなりません。真実にイエス・キリストに従う者か、偽りのクリスチャンか私たちには見極めることができないからです。主イエスの弟子の中にイスカリオテのユダのような人がいたことは、主が捕らえられるまで他の11弟子の誰にも分かりませんでした。誰にも分からないように彼を守り導き、最後の最後まで悔い改めのチャンスを彼から奪わなかったのは、外でもない主イエスご自身であったことを私たちは忘れてはなりません。

 教会には様々な個性の人がいます。時にはこの教会にいて貰いたくないと思う人、或いは出て行ってくれたらどんなにこの教会は明るく聖い群れになるのにと思うような人がいるかも知れません。しかし私がそう言ったからといって、お互いに顔を見合わせないで下さい。それはあの人だ等と想像しないで下さい。そのような思いが既に人を審いてしまっているのです。教会は排除と差別から自由でなければなりません。神の目にはもしかしたら私自身が審きの対象なのかも知れないことを思い、常に主の御前に謙る者となりましょう。

 

二、しかしこの譬え話は同時に善と悪、真実と偽善、義と罪がはっきりと分けられる時が来ると言う警告であることもまた確かです。終わりの日、漁師ならぬ天使が神の審きによって滅びを宣告された者を外の暗闇に投げ捨てることでしょう。あなたがその一人になり果てることがないようにと言うこれは警告のメッセ−ジです。

 教会は清められていなければなりません。しかし教会は審き合うことによっては決して清められることはないのです。私が学んだ神学校の校舎にはいくつかの小部屋がありました。そこへはいつでも誰でも入ることが許されていました。時には一人で何時間もの間その部屋に籠もりっきりの人がいました。時には数人が入って行きます。それらの部屋は「小祈祷室」と呼ばれていました。あなたはこの会堂のいくつかの部屋をそのように利用したことはありますか。ただ聖書を学ぶ教室としてだけでなく、また定例の祈祷会の部屋としてだけでもなく、あなた個人の祈りの部屋、神と一対一の交わりの部屋として用いたことがありますか。審きの日に耐えられる人、それは神と個人的な交わりを多く持った人、互いに罪を告白し合い悔い改めに導かれた人、神からの和解と兄弟姉妹相互の和解を経験した人です。

 

三、最後に、主イエスは弟子たちに「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」と尋ねられた時、弟子たちは「分かりました」と答えました。主はこの答えに満足して、弟子たちに「天国のことを学んだ学者」の称号をお与えになりました。勿論弟子たちはこれからもまだまだ多くのことを主から学ばなければなりません。彼らが持っていた古い知識とはモーセ伝来の律法です。しかし彼らは主から新しい知識を受けるまで、律法の意味する素晴らしい目的を理解していませんでした。モーセはかつてこう言いました。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起こされるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」と(申命記18:15)。神がお立てになるモーセのようなひとりの預言者とは、外ならぬイエス・キリストこの方です (ヨハネ1:21,25,45,5:46,使徒言行録3:22,7:37)。

 主から来る新しいものとは永遠の命に至る道を告げる福音です。主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と(ヨハネ14:6)。古い律法が新しい福音の光に照らされたとき、古い律法の意味するところが何であったかを深く悟ることが出来るのです。これが天国のことを学んだ学者の証明です。弟子たちはそれが分かったので、福音宣教者として世界中に出て行って力強くイエス・キリストを証し、教会の礎を築くことが出来ました。

 もう一つ古いものがあります。これは世の知恵とか技術、或いは経験です。これらキリストに出会うまで身につけていたものはキリストに出会ったとき、全て捨てなければならないのでしょうか。確かにキリストの弟子として邪魔になるようなものは捨てなければなりません。しかし全てを捨てる必要はないのです。学問でも技術でも、或いは芸術、スポーツの賜物まで捨てる必要はありません。今までは時代の動きに合わせながら、自分の目的のためにこれらのものを用いてきましたが、これからは主イエスのためにこれらのものを用いて行くことによって祝されるのです。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)

主の御旨に従って与えられたものを用いることが終わりの日、外に投げ捨てられずに、器に入れていただけるただ一つの道なのです。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

この教会には個性豊かな人々が集められています。この人々は曳き網に掛かった魚のように、色々な切っ掛けを通してこの教会に集められてきた人々です。この交わりの中で「互いに相愛せよ」と言うあなたのみ言葉が響いて参ります。私たちは目に見るところ、耳に聞こえるところで人を審くようなことをしないで、主の御名の故に互いを愛し、互いに仕え、互いのために祈る群れとして成長させて下さい。

そして終わりの日に備えて、いつも信仰をもって目覚めていることが出来ますように、主よ来て下さい。あなたの御国という器の中に私たちを選り分けて下さいますように私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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