【主日礼拝メッセージ】                           2001年4月29日

「インマヌエル(神我らと共に)」

  マタイによる福音書28:16-20

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 主イエスの昇天に関する記事はマタイ、マルコ、ルカの三福音書と使徒言行録それぞれに書かれていて、各々特徴を持っています。ではこのマタイによる福音書の特徴とは一体何でしょうか。

それは山です。今弟子たちと地上での別れの場所として選ばれたのも山です。その山の上で主イエスは「弟子にしなさい。バプテスマを施しなさい。教えなさい」と教えて言われます。これが教会に与えられた使命の全てです。これ以上でもないし、これ以下でもありません。

 教会は全ての民をキリストの弟子(キリストの教会員)にすることを第一の目的とします。礼拝を大切にすると言うことです。

 次に教会はバプテスマを大切にします。バプテスマはキリストの弟子とされたことを公に表明することです。

 第三に教会は信徒教育を大切にします。「キリストが命じられたことをどのようにすれば守ることが出来るのか」を学ぶのです。聴いたみ言葉をどのように生活の中で実践することが出来るか、それを学ぶことが大切です。

 このような教えを残して主イエスは今天に上げられようとしています。今この時、主は弟子たちとの別れに臨んで、これっきりかと不安な表情の弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。イエスのニックネームは「インマヌエル」(マタイ1:23)です。目には見えなくなります。しかし主イエスを信じる者の内に、イエス・キリストは世の終わりまでいつも共にいて下さるのです。イエス・キリストはあの山の上の人にだけこの言葉を残されたのではありません。今この所にある私たちに向かっても、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと主にいる」と約束して下さいます。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「インマヌエル(神我らと共に)」

  マタイによる福音書28:16-20

 

 主は40日の間弟子たちに現れて復活の体を示し、ついに天に上げられることになりました。主の昇天に関する記事はマタイ、マルコ、ルカの三福音書と使徒言行録それぞれに書かれていて、各々特徴を持っています。ではこのマタイによる福音書の特徴とは一体何でしょうか。

 

一、山上での教え

 第一にそれは山です。イスラエルの歴史は山で作られたと言って過言ではないでしょう。アブラハムは神の命に従い、山で独り子イサクを献げる決心をしたことで、救いの道は神が備えていて下さっていることを学びました(創世記22:14)。モーセはホレブの山で同胞の救いのために立ち上がれと神の召命を受けました(出エジプト3:9〜10)。40年後、モーセは同じホレブの山で神とイスラエルの契約の徴として十誡を授かりました(出エジプト20:1〜21)。

 マタイはその福音書の中でユダヤ人の為に旧約聖書を一つ一つ解説しながら、今度はユダヤ人という民族の枠を越え、異邦人をも巻き込みながら、キリストの教会を世界に開かれたものとして下さいました。その舞台はやはり山上です。イエスがサタンの試みと戦われたのも(4:1〜11)、黄金の説教を与えた所も(5〜7章)、御自分の本質が神であることを明らかにする為に選ばれた場所も(17:1〜13)全て山でした。そして今弟子たちと地上での別れの場所として選ばれたのも山です。

  「山辺に向かいて我、 目を上ぐ。 助けは、 何方より来るか。

  天地の御神より、 助けぞ 我に来る」と言う讃美歌を思い出します。

 今、主イエス・キリストは天に上げられるにあたって弟子たちをガリラヤに、そしてベタニヤ郊外の山上に呼び集め、天と地の一切の権能を授かった者として偉大な教えを残して行かれました。事実上教会の歴史はここから始まったのです。ルカ24:52を見ると、弟子たちは自分たちから離れて天に上げられて行くイエスを見て、悲しむどころか大喜びでエルサレムに帰り、神の宮で絶えず神をほめたたえていたと福音書を締め括っています。彼らはこの山でどのような力を得たのでしょうか。

 

二、確かな信仰を与えられた山

 殆どの弟子はイエスを神と崇めて平伏しました。「しかし疑う者も」いました。何が信じられなかったか、詳しくは分かりません。しかしそれを分析する必要はありません。「疑う者もいた」と言う事実が特筆されていることに注意しましょう。要するにイエスの何かを信じることが出来ないと言うことがここで問題にされているのです。私たちも祈りの言葉としては「全てをあなたの御旨のままに委ねます」と祈るのですが、心はケースバイケースなのです。ある部分は委ねていますが、ある部分は委ねていないのです。これはつまりある部分は信じられますが、ある部分は信じられないと言うことです。ほんの少しでも疑いの心があるなら、結局イエスを全面的に信じているとは言えないのです。主イエスは今ご自身の全てが信じられないでいる弟子の為に、巷の雑踏ではなく、静かな山の上に導き、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われました。これで充分です。僅かな疑いを残している者も、この一言で疑いが払拭されたに違いありません。これ以上何を疑う必要があるでしょうか。信じられる者として下さいました。

 ケースバイケースの信仰、中途半端な信仰で、教会とこの世の間を行ったり来たりしている人がいるとしても、その人もこのイエスの一言で十分に信じられるのではないでしょうか。教会にはイエス・キリストを信じられる人がいるのは当然ですが、信じられない人がいても良いのです。しかしここを出て行く時には、全ての人がイエスを天と地と一切の権能を持つ神の独り子、キリストであると信じる者となって欲しいのです。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。イエスの教えはいつも単純明快です。

 

三、主の使命に生きる

 イエスは今全ての弟子が御自分を全面的に信じていることを確認なさったので、「だから」と言葉を続けます。それは新しい使命です。弟子たちはこれからキリストの教会の礎とならなければなりません。主から託された使命を新しい教会の群れに教えなければなりません。「だから」主はその指導要綱を与えます。「礼拝と礼典と教育」の使命です。

 教会は全ての民を弟子にする(宣教、伝道)ことを第一にします。これは礼拝における講壇からのメッセ−ジと既に弟子とされたキリスト者の証です。このようなメッセ−ジや証を通して全ての人がキリストの弟子となるように導かれるのです。

 次に教会はバプテスマを大切にします。宣教の実りとしての礼典を大切にしなさいと言う御命令です。礼典の行われない教会はキリストの御命令に背くことになります。バプテスマは宣教に対する信仰の応答を象徴的に表明することです。信仰の中身は父、子、御霊の三位一体の神を言い表すことです。皆さんは三位一体の神に対する理解をどの程度持っていますか。礼典はこの三位一体の信仰を確かなものにする学びの機会となります。

 第三に教会は信徒教育を大切にします。私たちの教会では礼拝の後にファミリー分級という教育の場が与えられています。また夏に教会キャンプ、冬に研修会を持ちます。これらは何の為に開かれるのか、今日の御言葉から分かります。「キリストが命じられたことをどのようにすれば守ることが出来るのか」を学ぶのです。ちょっときざな言い方をすれば、み言葉の生活化を応援するのがこの学びです。

 「弟子にしなさい。バプテスマを施しなさい。教えなさい」と主は言われます。これが教会に与えられた使命の全てです。これ以上でもないし、これ以下でもありません。

 

四、イエスさまはいつも共に

 しかしこのような使命を与えた主イエスは一体どこへ行ってしまわれるのでしょう。どこか遠くへ行ってしまわれたままなのでしょうか。確かにイエス・キリストは天に上げられることになっています。

 京都の言葉は私のようにがさつな大阪人にはまねのできない柔らかさがあります。特に私の好きな言葉は、出かけて行く人に「お早うお帰りやす」と言う送る言葉です。これはドイツや中国の言葉に似ていて、「また会いましょう」という響きがあってとても良いなと思います。これが大阪なら「いっといなはれ」、共通語で言えば、「行ってらっしゃい」と送り出します。これでは今から出かける人が帰ってくることに期待を置いていないように聞こえます。それどころか「帰ってこなくていいよ」とさえ聞こえます。ところが京都の人は隣のおじさんを送り出す時でさえ、あたかも帰ってくるのを期待しているような響きがあって、とても良いです。出かけるときは大阪の人に送り出されるよりも、京都の人に送り出してもらいたいと大阪出身の私でさえ思います。

 今この時、主イエスは弟子たちとの別れに臨んで「行ってらっしゃい」でも、「お早うお帰り」でもなく、「また会いましょう」という言葉を期待しておられます。私たちの所に帰ってくるのではなく、私たちを神の国へと迎えに来て下さるという意味での「また会いましょう」なのです。これっきりかと不安な表情の弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。これはマタイ1:23で言えば「インマヌエル!」です。目には見えなくなります。しかし主イエスを信じる者の内に、イエス・キリストは世の終わりまでいつも共にいて下さるのです。イエス・キリストはあの山の上の人にだけこの言葉を残されたのではありません。今この所にある私たちに向かっても、この礼拝が終わって厳しい社会の第一線に踏み出して行くあなたにも、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと主にいる」と約束して下さいます。この言葉を信じて、さあ出かけて行きましょう。 

祈りましょう。 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今から2000年前、天に上げられるイエスさまが弟子たちに「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と約束して下さいました。この言葉は本当でした。2000年後の今も教会を通して、み言葉をもって、あなたはあなたを信じる者、あなたを頼る者を決して裏切ることはありませんでした。あなたはいつも私たちと共におられます。あなたは私たちの祈りに耳を傾けて下さるからです。この道を歩めとみ言葉を以て導いて下さるからです。

主よ、今から後も私たちと共にいて下さい。そしてあなたとお目にかかれる日まで私たちの信仰を支えて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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