【主日礼拝メッセージ】                           2001年5月13日

「五つのパンと二匹の魚」

  マタイによる福音書14:13〜21

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

人類の始祖アダムの妻はエバと名付けられました。エバとは「命」という意味です(創世記3:20)。全人類の母だからです。今日は母の日です。私たちは私たちをこの世に産み出して下さった両親をいつも感謝の心で見ているでしょうか。父と母を敬えと言う戒めはどこか遠くの言葉ではなく、あなたに与えられた神の言葉です。この戒めを風化させてはなりません。私たちの先祖は国籍や人種を問わずアダムとエバです。更にその源は創造主である神ご自身です。今朝はこの事から命の糧の供給者である神の愛と全能の力を学びましょう。

 群衆は時間の経つのも忘れてイエスの話に聴き入っていました。気が付くと日が傾きつつあります。弟子たちは食事のことや、彼らが今夜宿をとる所を心配し始めました。それもそのはず、そこにあつまった人は男子だけで5千人、それに女性と子どもたちを合計すると、膨大な人数です。そこで「皆を解散させる」ようにと主イエスに提案しました。極めて常識的な提案です。間違っているとは思えません。私たちも多分そこにいたら同じことを考え、同じ提案をしたことでしょう。しかし主イエスは思いがけないことを言われます。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。 何と言うことでしょう。どこにそんなお金があるというのでしょう。その時弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。一文無しの私たちが差し出すことのできるものはこれ『しか』ないのです」と答えます。弟子たちはもしかしたら「あなたがたの手で」と無理を言うイエスに納得して貰う為にありったけのもの(パン五つと魚二匹)を差し出したのでしょう。主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われます。福音はそこにあります。「これしきのものでは」と諦めている弟子たちが差し出した五つのパンと二匹の魚を用いて下さいました。小さなものですが、献げて初めて大いなる主の恵み、全能の神の力を体験しました。

 主イエスは言われます。先ず「あなたの手で」と。今手にある物が、たとえ五つのパンと二匹の魚に劣るものであっても、それを主イエスに献げて下さい。あなたは奇跡を起こすことは出来ません。しかしあなたが手にある物を献げた時、全能の主はそれを用いて、驚くべき御業を見せて下さいます。大いなる祝福を全ての人にお与え下さいます。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「五つのパンと二匹の魚」

  マタイによる福音書14:13〜21

 

 人類の始祖アダムの妻はエバと名付けられました。エバとは「命」という意味です(創世記3:20)。全人類の母だからです。今日は母の日です。私たちは私たちをこの世に産み出して下さった両親をいつも感謝の心で見ているでしょうか。父と母を敬えと言う戒めはどこか遠くの言葉ではなく、あなたに与えられた神の言葉です。この戒めを風化させてはなりません。私たちの先祖は国籍や人種を問わずアダムとエバです。更にその源は創造主である神ご自身です。今朝はこの事から命の糧の供給者である神の愛と全能の力を学びましょう。

 

 主イエスはバプテスマのヨハネの弟子たちからヨハネの殉教と、ヨハネを処刑したヘロデがイエスを死んだヨハネの生き返りと思い込んでいるという報告を受けて、人里離れた所へ行きましたが、人々はどこまでもイエスに付いて行きます。主は彼らを深く憐れみ、病人を癒し、尊い教えを語られたのです。「深く憐れみ」(スプランクニゾマイ)とは、直訳的には内蔵の激しい運動を指します。 ユダヤ人は、心は内蔵(スプランク)に宿っていると信じていたのです。 確かに心配事があると、胃の辺りがちくちく痛みますし、ある種の感情が働くと、お腹の辺りに火がついたような熱い物を感じることがあります。この世の支配者は社会の底辺に呻吟する者を顧みません。社会から取り残された彼らは主の許に吸い寄せられました。このような人々を見て主は内蔵が揺り動かされるような心の痛みを感じ、深い憐れみを催されたのです。

 群衆は時間の経つのも忘れてイエスの話に聴き入っていました。気が付くと日が傾き、空が茜色に染まりつつあります。弟子たちは食事のことや、彼らが今夜宿をとる所を心配し始めました。それもそのはず、そこに集まった人は男子だけで5千人、それに女性と子どもを合わせると、膨大な人数です。弟子たちの気配り、優しさに清々しさを感じます。そして主イエスに提案しました。極めて常識的な提案です。間違っているとは思えません。私たちも多分そこにいたら同じことを考え、同じ提案をしたことでしょう。しかし主イエスは思いがけないことを言われます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。 何と言うことでしょう。どこにそんなお金があるというのでしょう。弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。私たちが差し出すことのできるものはこれ『しか』ないのです」と答えました。どう考えても不可能です。これが現実なのです。弟子たちはもしかしたら「あなたがたの手で」と、無理を言うイエスに納得して貰うためにありったけのもの(パン五つと魚二匹)を見せたのでしょう。福音はそこにあります。このことが結果的に主の大いなる御業を見るきっかけとなりました。弟子たちも私たちも五つのパンと二匹の魚程度のものは持っています。でも、5千人以上もの人数を前にして、それは「焼け石に水」です。だから群衆を解散させるという常識的で正しい判断に傾斜の度を増して行きます。しかし主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言い、五つのパンと二匹の魚を用いて下さいました。差し出して初めて大いなる主の恵みを、全能の神の力を体験できました。

 この世の中には体の弱い人、経済的に行き詰まっている人、空腹で夜も眠られない人が大勢います。私たちはそう言う人を見て、とても気の毒に思い、神さま、あなたはどうしてこんな不公平な世界をお造りになったのですか。何とかして上げて下さい、と祈ることがあります。しかし主イエス・キリストの父なる神さまは静かにこう言われます。「あなたの手で与えなさい」と。そうなのです。正しい祈り、本当の愛は、神さまに「ああしろ、こうしろ」と命令することではなく、あなたの手にある物を先ず主の許に持って行くことです。すると、主はあなたの献げ物を用いて体の弱い人を元気にし、お金に困っている人の必要を満たし、お腹の空いている人を満腹させて下さるのです。

 この世で何か役に立つ者になりたい、誰かに仕えたいと思います。しかし余りに非力な自分にはとてもそんな大それたことをする知恵も力もないとあきらめて、結局何もしなかったという経験はなかったでしょうか。それは本当の愛、主イエスから来る優しさではありません。主イエスは言われます。先ず「あなたの手で」と。今あなたの手にある物が、たとえ五つのパンと二匹の魚にさえ劣るものであっても、それを主イエスに献げて下さい。あなたには奇跡を起こす力はありません。しかしあなたが先ず手にある物を献げた時、全能の主はそれを用いて、大いなる祝福を全ての人にお与え下さいます。驚くべき御業を見せて下さいます。

 私たちは毎週会堂建築のために祈っています。今日は特にこの事を覚えて祈って下さい。あなたのポケットにある小さなコイン、一枚の紙幣、それは今教会が目指している予算規模から見て、お話にならない小さなものかも知れません。しかし「あなたの手で」と言われる主に信仰と希望と愛をもって献げるなら、主は必ずそれを祝福して用いて、必ずや会堂建築を実現して下さいます。主の御命令に、今大胆に従いましょう。

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今日の御言葉を感謝します。五つのパンと二匹の魚を用いて主は大いなる奇跡を起こして下さいました。このような聖書の記事を見て、或いはそんな馬鹿なことが、と一笑に付す人もいるかも知れません。弟子たちもそんなことを予想もしていなかったことでしょう。しかし、とにかく手にあるパンと魚を差し出したとき、彼らは驚くべき経験をしました。奇蹟はそれを信じられなくても、とにかく手にある物を主に差し出すことから始まるものであることを、私たちは今本当に分かりました。

 この世には多くの人が飢え、或いは虐げられ、或いは途方に暮れています。そしてこの教会の実に20年来の祈りであった会堂建築という目標を前にしています。私たちはそのような人の数の多さ、課題とする規模の大きさに圧倒されて、自分一人で何が出来るかと腰が引けてしまいます。でも、主は言われます「あなたの手で」と。私たちは勇気を得ました。私たちにそれが出来なくても全てを成し遂げる全能の主を信じて、今ある小さなものですが、あなたに献げます。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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