【主日礼拝メッセージ】                           2001年5月20日

「安 心 せ よ」

  マタイによる福音書14:22〜36

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 主イエスが今人里離れた所から、更に弟子たち、また群衆からも離れて独りになろうとしておられる理由を五つのパンと二匹の魚で満腹した群衆が「彼(イエス)を王にしようとした」(ヨハネ6:15)からだと他の福音書は説明しています。確かにこのような方が王になってくれたら政治を変え、国を変える絶好の機会です。しかし人々のそうした願いにもかかわらず、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、群衆を敢えて解散させました。主はヘロデの世界を変えるためではなく、人々の魂を変革する、いや造り変えるためにこの世に来られたのです。政治がどんなに変わっても、人々の心が神に背を向けている限り、平和も幸せも決して実現しません。

 主イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませました。信仰の実地訓練です。案の定海は時化ました。さすがのベテラン漁師ペトロたちも抗う術を知りません。逆風に阻まれてこぎ悩んでいる時、主イエスは湖面を歩いて近づいてこられました。時に夜明け前です。世相の暗さに例えるなら、夜明け前は最も暗いのです。明るい未来は永遠に来ないのではないかと絶望しかかる時なのです。しかし全知全能の救い主は人々を絶望の淵に据え置く方ではありません。「幽霊だ」と恐れる弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。その時ペトロという弟子が主の許に行かせて欲しいと願い、許されました。しかし主から目が離れた時、沈みかかりました。主は直ちに彼を引き上げて下さったと言うことです。

 教会がこの世で伝道する時、また一人のクリスチャンが信仰を全うしようとする時、様々な嵐に行く手を阻まれます。それは必ずしも「迫害の嵐」とは限りません。世の誘惑という嵐も吹き込んできます。心の中に不信と疑惑という嵐も沸き上がってくることでしょう。そのような嵐が絶え間なく、いつ終わるともなく続きます。しかし、私たちの救い主はその嵐のただ中に、嵐を踏み越えて来て下さいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「主よ、助けて下さい」と祈りましょう。祈りのみが主イエスの助けと平安を得る唯一の道です。祈りこそ、向こう岸に導く全能の神の臨在を仰ぐただ一本の道なのです。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「安 心 せ よ」

  マタイによる福音書14:22〜36

 

 「自民党を変える、日本を変える」とのスローガンを掲げて総裁選に三度(みたび)出馬した小泉純一郎氏は総裁選、首班指名を勝ち取りました。確かに国会での代表質問も、予算委員会も変化の兆しが見られます。国民の期待感が、森政権の時代とは比較にならないほどの高い支持率となって表れています。しかしこれで確かに国民皆が幸せになるのか、国民が願っているような変化を見ることができるのかとなると、それは些か疑問です。政治が国をよくしてくれることを願うのは国民の自然な感情です。しかし、政治に百%の信頼を置くことは危険です。

 主イエスが今人里離れたところから、更に弟子たち、また群衆からも離れて独りになろうとしておられる理由を五つのパンと二匹の魚で満腹した群衆が「彼(イエス)を王にしようとした」(ヨハネ6:15)からだと他の福音書は説明しています。確かにあの日、もしイエスが一政治家としてデビューすれば、すぐにでもヘロデを政権の座から引きずり下ろすことは可能だったでしょう。彼こそダビデ王直系の子孫だと旧約聖書の預言者たちも福音書著者、即ち弟子たちも認めているわけですから。群衆はこのような方が王になってくれたら政治の浄化、教育の改革、外交の円滑化、経済の安定、不況の一掃を可能にしてくれるに違いないと期待しました。まさに政治を変え、国を変える絶好の機会です。しかし人々のそうした願いにもかかわらず、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、群衆を敢えて解散させました。主はヘロデの世界を変えるためではなく、人々の魂を変革する、いや造り変えるためにこの世に来られたのです。政治がどんなに変わっても、人々の心が神に背を向けている限り、平和も幸せも決して実現しません。 

 さて、主が弟子たちを強いて船に乗り込ませ、群衆を解散させた目的の一つは父なる神との一対一の交わりを必要とされたからです。今日は奇蹟のパンを食べて喜び感謝し、ダビデの子イエスを王に仕立てようと運動しかけた群衆も、一年後には「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ輪の中にあることを主はご承知です。群衆に乗せられてヘロデの世界を転覆する道を選ぶのでなく、父なる神の御心に従った王道を確認する祈りに時を費やされました。一年後に受ける苦い杯、十字架こそが主の歩むべき王なるキリストの道だからです。 

 もう一つは弟子たちに「お前たちにもやがて嵐が来るぞ」と教えるためです。近い将来弟子たちにも迫害の手が伸びてくることを主はご存じです。この世は容赦なく弟子たちに覆い被さって、彼らを一呑みにしようとします。だから敢えて湖の荒れやすい時刻にも係わらず、弟子たちを強いて船に乗り込ませました。信仰の実地訓練です。案の定海は時化ました。すり鉢状の湖面に低気圧は容赦なく猛威を振るいます。さすがのベテラン漁師ペトロたちも抗う術を知りません。逆風に阻まれてこぎ悩んでいる時、主イエスは湖面を歩いて近づいてこられました。時に夜明け前です。極めて象徴的な時刻です。時の刻みとしての夜明け前は、やがて空が白々と薄明るくなるまでほんの一瞬のことです。しかしこれを世相の暗さに例えるなら、夜明け前は最も暗いのです。客観的な立場にある人は別として、現在暗い世相の中で七転八倒している人にはこの時が一番暗いのです。明るい未来は永遠に来ないのではないかと絶望しかかる時なのです。しかし全知全能の救い主は人々を絶望の淵に据え置く方ではありません。「幽霊だ」と恐れおののく弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。「わたしだ」とは直訳的には『わたしはある』(εγω ειμι)と言う意味で、これは出エジプト記3:14の神名『ヤハウェ』と同義語なのです。この言葉の重さに注意して下さい。教会がこの世で宣教を展開して行こうとするとき、また一人のクリスチャンが信仰を全うしようとするとき、様々な種類の嵐に行く手を阻まれます。それは必ずしも「迫害の嵐」とは限りません。世の誘惑という嵐も吹き込んできます。心の中に不信と疑惑という嵐も沸き上がってくることでしょう。そのような嵐が絶え間なく、いつ終わるともなく続きます。しかし、私たちの救い主はその嵐のただ中に、嵐を踏み越えて来て下さるのです。

 

 ペトロは声の主がイエスであることを知って、大変勇気づけられました。そして「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」と言いました。私は若い頃ここを読んでペトロの勇気と信仰深さに驚き、また感心しました。自慢にも何もなりませんが、私は泳ぎが大の苦手です。早い話が、遅く言っても同じですが、泳げません。泳げない者は決してペトロのようには言えません。ですから、ペトロの勇気に驚いたのです。所がその先を読んでまた驚きました。風が怖くなって、思わずイエスから目を離したその時、「沈みかけた」のです。当時私が読んでいた聖書は口語訳で、それによると「おぼれかけた」と書かれていました。ペトロは漁師です。泳ぎの名人と思っていました。でもこの時ばかりは「主よ、助けてください」と叫んだというのです。泳げる人でも溺れそうになるのか、と我が目を疑ったものです。ペトロはお言葉に従ったのに沈みかけました。理由はただ一つ、イエスから目を離したからです。しかし讃美すべきことに、イエスはペトロから目を離してはおられません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱りながら、直ちに救いの御手を伸べて下さいます。そして主イエスが船に乗り込むと、嵐は止みました。弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝みました。

 

 私たちもペトロのように主の命に従い、独りで猛り狂う嵐のただ中に足を踏み出さなくてはならないことがあります。その時世は様々な形で「お前には無理だ、お前など絶対に主の下に行けるものか」と言うでしょう。もしかして私たちも心に囁く誘惑や外からの脅迫の声が気になって、主イエスから目を離して溺れそうになるかも知れません。ウィリアム・バークレーは『マタイによる福音書注解書』の中で「キリスト者とは絶対に倒れない人ではない。倒れても立ち上がって、前進する人である」と言っています。その通りです。私は更に「倒れた時、溺れかけた時に、『主よ、助けて下さい』と叫ぶことの出来る人だ」と申し添えたいと思います。私たちは誘惑に弱い者、試練が来ると『い』の一番に逃げ出す卑怯な者、苦しみに遭うとなぜ自分一人がこんな目に遭うのかと愚痴ってしまう、そのような者であることを先ず認めることから信仰はスタートするのです。「主よ、助けて下さい」と祈りましょう。祈りのみが主イエスの助けと平安を得る唯一の道です。祈りこそ、向こう岸に導く全能の神の臨在を仰ぐただ一本の道なのです。詩編46:1〜7を読みます。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

今日も平安のみ言葉、命のみ言葉を感謝します。主の弟子たちが恵み深い主イエスの給食を味わった後、思いがけない試練にであったように、私たちもまたこの礼拝の一時であなたの豊かな霊の糧をいただいた後、この世の海に強いて船出させられます。恐らく私たちも嵐に遭遇し、逆風のために自分の位置も、進むべき方向も分からなくなってしまうことでしょう。夜明け前にもかかわらず、暗い世相は永遠に続くのではないかと絶望的にさえなるかも知れません。しかし、主イエスは独り山に登ってこの世のため、特に弟子たちの信仰のために祈って下さっていたのです。

 今もあなたはこの礼拝で牧師を通して祝祷を以てこの世に押し出そうとなさいます。しかし、主イエスは私たちを世の嵐の中にいつまでも据え置く方ではありません。あなたは必ずその嵐を踏み越えて私たちを救いだして下さいます。あなたの御到来こそが夜明けなのです。あなたの御臨在こそが平安です。主よ、この週も私たちを世の嵐からお守り下さい。勝利させて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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