ペンテコステ・主日礼拝メッセージ】                           2001年6月3日

 激しい風、炎のような舌

  使徒言行録2:1〜4

 

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 キリスト教会ではイエス・キリストの復活節であるイースターから数えて50日目をペンテコステと呼んでいます。それが今日です。ペンテコステとは何の日か、一言で言いますと、キリスト教会の誕生を祝う日です。今からその由来をお話して、皆様と共にお祝いしたいと思います。

 その日、エルサレム市内はこの五旬祭で賑わっていました。しかし主イエスの弟子たちは市内にある家の二階に集まり、そこで静かに祈っていました。彼らは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)と言って昇天した主イエスを心に思い、約束の聖霊を祈りの内に待ち望んでいました。その約束の時が満ち、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて家中に響き渡りました。これこそ神の息、聖霊が降臨された音です。聖霊は今弟子たちの集まる部屋に風の如く臨まれました。聖霊は誰にも、どんなものにも妨げられることのない自由と主権をお持ちであることの証です。そして彼らに命を与え、主イエス・キリストを証しする力を与えて下さいました。それだけではありません。この方は耳に聞こえるばかりか、目にも見えました。炎のような舌が分かれ分かれに現れ。一人一人の上にとどまりました。神は炎のように弟子たちを清め、舌のようなもので弟子たちに預言の霊、主を証しする言葉をお与えになりました。激しい風のように降臨された聖霊は、炎のような勢いをもって、また舌のような丁寧さで一人一人の上にとどまりました。するとどうでしょうか。一同は聖霊に満たされ、御霊の導きのままに他の国々の言葉で話し出したと言うことです。これはやがて全世界の人々に全世界の国々の言葉を以てイエス・キリストの御名が宣べ伝えられるという象徴的な出来事です。

 あれから2千年の時が流れました。歴史に名を残す偉大な伝道者の陰に隠れて多くの無名の先人たちもまた苦労を重ねて下さったお陰で、今や殆どの国にキリストの教会が生まれています。あの日エルサレムに集められた15の国と地域の人々を遙かに凌ぐ数の国々にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられています。これは誰の功績ではありません。偏(ひとえ)に聖霊の賜物です。誰か一人二人の大伝道者の活躍によらず、多くの無名の働き人を用いて下さった聖霊の力です。

 イエス・キリストはこの極東の日本にも御心を向けて下さいました。この仙川の地にもイエス・キリストの福音を宣べ伝える証人を与えて下さいました。私たちの教会はこの地に建てられて今年39年になります。この教会も使徒言行録2章におけるペンテコステの出来事の延長線上に今置かれているのです。聖霊は実に今もこの私たちの内にいまして私たちに清い思いと主イエス・キリストを証しする力を与えて下さいます。どうぞ聖霊の知恵と力により頼んで名も無き人であることを喜び、どこかの誰かがイエス・キリストの救いを待ち望んでいることを確信し、キリストの証を携えてここから遣わされて行こうではないですか。

 

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ペンテコステ・主日礼拝メッセージ・本文】     

 激しい風、炎のような舌

 使徒言行録2:1〜4

 

 キリスト教会ではイエス・キリストの復活節であるイースターから数えて50日目をペンテコステと呼んでいます。それが今日です。ペンテコステとは何の日か、一言で言いますと、キリスト教会の誕生を祝う日です。今からその由来をお話して、皆様と共にお祝いしたいと思います。

 ユダヤには一年の間に随分多くの祭りがありますが、春の「過越祭(すぎこしさい)」、その日から数えて50日目に祝う「五旬祭(ごじゅんさい)」、そして10月初旬に祝う「仮庵祭(かりいおさい)」をユダヤ三大祭として特に重んじています。中でもこの五旬祭はモーセの時代、エジプトの奴隷であったイスラエルが解放された記念の日です。更に今で言うパレスチナの一角に定住できるようになってからは地の産物の収穫感謝としても祝っています。

 その日、エルサレム市内はこの五旬祭で賑わっていました。しかし主イエスの弟子たちは市内にある家の二階に集まり、そこで静かに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)と言って天に上げられた主イエスを心に思い、約束の聖霊を祈りつつ待ち望んでいました。その約束の時が満ち、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて家中に響き渡りました。これこそ神の息、聖霊が降臨された音です。聖霊は今弟子たちの集まる部屋に風の如く臨まれました。聖霊は誰にも、どんなものにも妨げられることのない自由と主権をお持ちであることの証です。そして彼らに命を与え、主イエス・キリストを証しする力を与えて下さいました。それだけではありません。この方は耳に聞こえるばかりか、目にも見えました。炎のような舌が分かれ分かれに現れ。一人一人の上にとどまりました。神は炎のように弟子たちを清め、舌のようなものをもって弟子たちに預言の霊、主を証する言葉をお与えになりました。

 かつてモーセは燃えていながら燃え尽きない柴に導かれて神の預言者としての召命を受けました(出エジプト記3:1〜10)。イザヤはその唇を燃える炭火で清められ、預言者としての召命を受けました(イザヤ書6章)。バプテスマのヨハネは「イエス・キリストは聖霊と火によってバプテストをお授けになる」と預言しました(マタイ3:11、ルカ3:16)。神は実に火を以て清めるお方です。弟子たちは先ず清められなければ何も出来ません。人は罪の清めなしに神の御前に立つことはできないのです。ましてや神の僕、主イエス・キリストを証しする力は清められた者にのみ与えられるのです。「武力によらず、権力によらずただわが霊による」と聖書が預言している通りです(ゼカリヤ4:6)。何と言う恵みでしょう。聖霊は権力ある者、賢い者、能力豊かな者ではなく、また時の偉大なる宗教的指導者ファリサイ派やサドカイ派、また祭司達ではなく、主イエスの弟子たちという真に小さな群れ、無名の主の僕に降って、命と力に満たして下さいました。

 激しい風のように降臨された聖霊は、炎のような勢いをもって、また舌のような丁寧さで一人一人の上にとどまりました。するとどうでしょうか。一同は聖霊に満たされ、御霊の導きのままに他の国々の言葉で話し出したと言うことです。これはやがて全世界の人々に全世界の国々の言葉を以てイエス・キリストの御名が宣べ伝えられるという象徴的な出来事です。

 この家は神殿の近くにあったようで、彼らは力を受けると、主イエス・キリストの救いの言葉を語りつつ外に出て行き、神殿の中庭まで進み出ました。五旬祭を祝うためにエルサレム市内にいた人々はこの物音を聞きつけて集まってきました。かれらの国や地域の名も紹介されています。パルティアはカスピ海南方の山岳地帯にある国です。メディアとはペルシャのことです。エラムはペルシャ湾に注ぐチグリス下流の国。メソポタミアは皆さんもよくご存知の国です。カパドキヤ、ポントスとアジア、フリギヤとパンフィリアは小アジアの国々、今のトルコ共和国の領土です。クレネはエジプトとリビアの間の国。ローマ、クレタ島、アラビアからも来ています。地中海を囲んでこれほど広範囲の国々から寄留のユダヤ人達、或いはユダヤ教に改宗した人々がエルサレムに来ていました。当時五旬祭が如何に重要な意味を持つものであったか窺(うかが)えます。しかしもっと驚くべきことにはこの人々が次の瞬間、イエス・キリストの救いに与(あずか)り、原始キリスト教会の礎として選ばれたことです。その数約3千人であったと2:41は伝えています。彼らはその後エルサレム教会を組織しましたが、恐らくその内の幾人かは祭りが終わってそれぞれの国に帰っていったことでしょうから、早くもキリストの教会はこれらの地方に増え広がって行ったことは疑いを差し挟む余地もありません。

 

 五旬祭とは過越祭から数えて50日目の祭りであると先程説明しました。この50という数字のギリシャ語読みはペンテコステと言います。アメリカの重要な軍事施設の建物の一つは五角形で出来ていることからペンタゴンと言いますが、5という数字のギリシャ語に語源を持っているのです。余談になりました。さて、主イエス・キリストの弟子たちはあの五旬祭の日、ペンテコステの本当の意味を聖霊降臨の出来事という経験から学びました。キリストの教会は聖霊降臨の出来事なしに誕生しなかったのです。キリストの教会は聖霊によってイエス・キリストを証する力を与えられることなしに成長することはなかったのです。

 イエス・キリストは弟子たちに聖霊降臨の約束を与えました(1:8)。確かに使徒言行録は1:8に基づいて編集されています。1〜9章までエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤの全土に福音は行き渡り、教会が誕生して行きました。10章以後は地の果てまで福音が行き渡り、異邦人社会の中にもどんどんキリストの教会が誕生している様子が力強く語られています。所で「使徒言行録」という書名は一体誰が付けたのでしょうか。元々原文にはただ「活動」(πραξειs プラクセイス=TheActs)とあるだけです。これに「使徒−」を書き加えたのは、後世の聖書学者が、本書の前半(1〜12章)で主に使徒ペトロが中心に書かれていること、また後半(13〜28章)で主に使徒パウロが中心に書かれていることからそう呼んだものと思われます。このように偉大な使徒たちではありましたが、私たちは人間に心を奪われてはなりません。教会を生まれさせて、その働きを支え、増し加え、成長させて下さるのは他ならない聖霊御自身であることを忘れてはなりません。即ちこの書名は本来「聖霊言行録」と呼ぶべきです。

 新生讃美歌229番の2節に「キリストには替えられません、有名な人になることも、人のほめる言葉も、この心をひきません。世の楽しみよ、去れ、世の誉(ほま)れよ、行け、キリストには替えられません。世の何物も」とありますが、そのような歌を歌いながらも伝道集会を計画するとき、有名な伝道者を講師に呼びたいという誘惑に駆られます。この讃美歌さえ有名な歌手が歌うとジーンときますが、同じ教会の誰かが歌っても感動しないのは何故でしょうか。心のどこかで誰かに認められたい。褒められたいという思いが働くのはどうしてでしょう。また世の楽しみを追い求める誘惑を感じるのは何故でしょう。

 あれから2千年の時が流れました。歴史に名を残す偉大な伝道者の陰に隠れて多くの無名の先人たちもまた苦労を重ねて下さったお陰で、今や殆どの国にキリストの教会が生まれています。あの日エルサレムに集められた15の国と地域の人々を遙かに凌ぐ数の国々にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられています。これは誰の功績でもなく、偏(ひとえ)に聖霊の賜物です。誰か一人二人の偉大な伝道者の活躍と言うより、多くの無名の働き人を用いて下さった聖霊の力です。

 

 イエス・キリストはこの極東の国、日本にも御心を向けて下さいました。この仙川の地にもイエス・キリストの福音を宣べ伝える証人を与えて下さいました。私たちの教会はこの地に建てられて今年39年になります。この教会も使徒言行録2章におけるペンテコステの出来事の延長線上に今置かれているのです。聖霊は実に今もこの私たちの内にあって清い思いと主イエス・キリストを証しする力を与えて下さいます。どうぞ新生讃美歌229番を本気で歌いながら、聖霊の知恵と力により頼んで名も無き人であることを喜び、どこかの誰かがイエス・キリストの救いを待ち望んでいることを確信し、キリストの証人としてここから送り出されて行こうではないですか。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 ペンテコステのこの日、キリストの教会が誕生したこの喜ばしい日に私たちを招いて下さいましたことを心から感謝します。聖霊よ、あなたは今も生きて働いておられます。あなたは今も地の果てまでキリストの証人として働く者の内にあって、語るべき言葉を与え、行くべき道を示して下さっています。あなたは今もこの仙川キリスト教会を愛して、この地域の福音の証人として立ち上がる私たち一人一人を祝福の内に用いて下さっていますことを心から感謝します。主よ、どうか愛するこのメンバーを支えて下さい。世の様々な困難に耐え、且つ勝利させて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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