【主日礼拝メッセージ】                                2001年6月17日

 「主よ、パンくずほどの恵みを」

 マタイによる福音書15章21-28節 

 

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

  主イエス・キリストはティルスとシドン地方へ行き、カナンの町に入って行かれました。この町に入って間もなく主イエスの許に嘆願してきた一人の女性がいました。彼女には一人の娘がいましたが、悪霊に取り憑かれてとても苦しんでいました。それで主の憐れみを求めてやってきたのです。「カナン」とはイスラエル民族がエジプトからこのパレスチナに帰ってくる前に既に住み着いていた先住民の子孫のことで、地中海沿岸の「ティルス」や「シドン」まで分布していました。彼女はその町に住む一人です。

 主イエスはイスラエルと異邦人の関係を人間と小犬にたとえて、神の子に用意された霊的なパンを小犬にやることは出来ないと言われました。もし彼女の心にいくらかでも高慢さが顔を覗かせたなら、イエス・キリストとの対話はここまでだったでしょう。「私たちカナン人を何だと思っているのよ」と踵(きびす)を返して帰って行ったことは間違いありません。人間謙ることは本当に難しいことです。しかし彼女はあくまで謙遜でした。彼女はあくまでイエスに対して「主よ」と呼びかけています。「お前たち母娘は犬の親子であって、イスラエルと同格の人間ではない」ときつい一言を投げかけられても、「ごもっともです」と受け入れました。受け入れながら「しかし」とそれでも挫けないでイエスに食いさがります。この方をおいて自分たち母娘はどこへ行けばよいのかという確たる信仰が見られます。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言います。素晴らしい知恵の言葉です。

 神の御前で自分の立場を十分に弁え、それでもほんの僅かな恵みのそのまたおこぼれでも良いから頂けませんでしょうか、と言うのです。世の中にこんな美しい言葉があったのかと感心します。これほど謙った信仰の告白があるでしょうか。イエスを「ダビデの子」と呼び、しかも「主なる神」と認め、その上で自分を「罪人」として告白したのです。さすがのイエスもこの言葉にはほとほと感心しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と大いなる祝福を与え、娘の癒しを約束して下さいました。実際娘はその時癒されたのです。主に栄光がありますように。

 

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

 「主よ、パンくずほどの恵みを」

 マタイによる福音書15章21-28節 

 

 その後主イエス・キリストはティルスとシドン地方へ行き、カナンの町に入って行かれました。ここは全くの異邦人の町です。「カナン」とはその昔、イスラエル民族がエジプトからこのパレスチナに帰ってくる前に既に住み着いていた先住民の子孫のことで、地中海沿岸の「ティルス」や「シドン」まで分布していました。ユダヤ人はこのような人々を使徒パウロの言葉を借りて言えば、「肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」(エフェソ2:11〜12節)民族だと言うのです。

 

 主イエスと弟子たちがこの町に入って間もなく一人の女性が近づいてきました。彼女の娘が悪霊に取り憑かれ、とても苦しんでいたからです。それで主の憐れみを求めてやってきたのです。しかし何としたことでしょう。主はこの母親の切なる叫びに対して何の反応もお示しになりません。また弟子たちも主に「この女を追い払ってください」と言うのです。それでも叫びながらついてくるこの母親に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とにべもなく断りました。それでもひるまず、彼女はその場にひれ伏して「主よ、どうかお助け下さい」と懇願し続けました。イエスはそれでも「子どもたちのパンを取って小犬に投げてやってはいけない」と冷たく決定的とも思える言葉で突き放します。

 イエスはイスラエルを神の「子」、異邦人を「犬」と呼びます。これ以上にきつい差別用語はないのではないでしょうか。しかしこれは私たち異邦人が肝に銘じておくべきみ言葉です。私たちは救われるべくして救われたと思い違いしてはなりません。ユダヤ人は生まれながらにして神の子として選ばれる可能性を秘めた者ですが、私たち異邦人は本来神の御前に人間と同等に扱っても貰えない存在であったのです。私たち異邦人は幸運であってもその家に飼われているペットに過ぎません。

 もっとも、最近のペットはその家のご主人よりも待遇が良い時代に生きています。何故ならご主人は病気をしても社会保険か国民保険を使えば治療費も薬代も安くて済みますが、ペットは保険が通用しませんから、病気をしないように、それはもう大切に守ってもらえます。しかし私たちの子どもの時代、犬や猫はせいぜいその日余った人間の残飯を食べさせ、病気をしても今のようにペットの病院などありませんから、大した治療もしてやれません。

 ましてや2千年も昔の犬や猫の扱いはどんなものだったか想像がつきます。イエスはイスラエルと異邦人の関係を人間と小犬にたとえて明確にします。神の子に用意された霊的なパンを小犬にやることは出来ないと言う意味です。もし彼女の心にいくらかでも高慢さが顔を覗かせたなら、イエス・キリストとの対話はここまでだったでしょう。「私たちカナン人を何だと思っているのでしょう」と踵(きびす)を返して帰って行ったことは間違いありません。人間謙ることは本当に難しいことです。「僕聴く。主よ、語り給え」と聴従の姿勢を貫くことはなお難しいことです。

 彼女は主イエスの御前にあくまで謙遜です。自分の立場を良く理解していました。「主よ、ごもっともです」と応じました。ここで注意したいのは彼女の口から上るイエス・キリストに対する呼びかけの言葉です。彼女は常にイエスに対して「主よ」と呼びかけています。「お前たち母娘は犬の親子であって、イスラエルと同格の人間ではない」ときつい一言を投げかけられても、「ごもっともです」と受け入れました。受け入れながら「しかし」とそれでも挫けず、イエスに食いさがります。この方をおいて自分たち母娘はどこへ行けばよいのかという確たる信仰が見られます。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言います。素晴らしい知恵の言葉です。神の御前における自分の立場を十分に弁えながら、それでもほんの僅かな恵みのそのまたおこぼれでも良いから頂けませんでしょうか、と言うのです。

 世の中にこんな美しい言葉があったのかと感心します。これほど謙った信仰の告白があるでしょうか。イエスを「ダビデの子」と呼び、しかも「主なる神」と認め、その上で自分を「罪人」として告白したのです。さすがのイエスもこの言葉にはほとほと感心しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と大いなる祝福を与え、娘の癒しを約束して下さいました。実際娘はその時癒されたのです。

 

 最後に主イエスとカナンの女性との大変緊張したやり取りの中から「イスラエル」とは何かという問いかけを感じます。ユダヤ人がイスラエルと聞けば直ちに「それはアブラハムの子孫である我が民族のことだ」と答えるでしょう。しかしバプテスマのヨハネはユダヤ人に伝えた宣教でイエス・キリストの到来を告げると共に、「悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3:8)と教えています。ヨハネの言うとおり、こと信仰の世界では「血は水よりも濃い」と言う諺は通用しないのです。逆に言えば、全くの異邦人の地に足を踏み入れたイエスの視線の向こうには、この異邦人の地にあって血肉ではない真の失われたイスラエルの家の羊があり、イエスはその羊を捜し求めてこの地に来られたのだと言うことが出来ます。

 イスラエルとは「神に選ばれた者」という意味があるからです。そうなのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、神の選びに国境も民族の違いもありません。一見連れないイエスの沈黙は、彼女の中に失われた羊の手応えを感じた故の沈黙と言えないでしょうか。怪しげな魔術師やインチキ憑依(ひょうい;霊などがのりうつる)祈祷師が横行していた時代です。イエスの連れない言葉は或いは彼女もイエスをその類の一人とみなしているのではと言う懸念があったからかも知れません。しかし彼女は真剣でした。八百万の神々に祈る祈りとは全く違います。彼女は「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけ、今再び「主よ、どうかわたしをお助けください」と懇願します。

 イエスは決して偏狭な民族主義者ではありません。血肉によらない「真のイスラエルはどこに」と捜し回る全国行脚を重ねておられたのです。ヨハネの黙示録1〜3章を思い起こして下さい。そこに記されている七つの教会は全世界のキリスト教会のことです。今も主イエス・キリストは霊によるイスラエルを捜し求めて教会を行き巡っておられます。この方に出会い、この方に選ばれる道は、あくまで謙虚な者でなければなりません。この方を「主よ」と呼び、自分を「小犬」と認める者でなければなりません。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今日の御言葉を感謝します。主イエス・キリストは異邦人の町に入り、真のイスラエル、神に選ばれた信仰の人を捜し求めました。そしてカナン人の中に発見なさいました。あくまで謙虚に、そして主イエスを全能の神、唯一の救主と信じ、自らをパン屑で生き延びる小犬と認めました。御救いは謙る者に及びました。

 主は今も全世界にいる異邦人の国々を行き巡って真のイスラエルを捜し求めておられます。あなたにとっては民族の壁はありません。ただあなたを熱心に求める者をあなたは異邦人と呼び、あなたに逆らう者をあなたは終わりの日に退けることでしょう。どうぞ私たちを憐れんで下さい。私たちが、また地上の教会が悪霊に支配されることがありませんよう、お助け下さい。私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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