【主日礼拝メッセージ】                           2001年7月29日

サタン、引き下がれ

マタイによる福音書16:21-28

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 人間は、話を最後まで冷静に聴くことの出来ない悲しい生き物です。ある部分だけが耳に響いて、それだけが強烈な印象として残り、他のことは何も耳に入りません。ペトロがそうでした。主が苦難の果てに死ぬと聞いたら、もうそれだけで頭に血が上ってしまい、その外の言葉は何も聞こえません。それでイエスさまを脇へ引き寄せて諫(いさ)め始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。とんでもないことって何でしょう。まさか復活のことを指しているとは思えません。如何にペトロが主の言葉を中途半端に聞いていたかということです。

 不思議なことに、人間には「復活する」という言葉より、「死ぬ」という言葉の方が強く響くのです。使徒パウロが言うように、死は人間にとって最後の強敵なのです。だからそれは滅ぼされなければなりません。実際パウロは主イエスの復活によってそれは滅ぼされたと証言しています(コリント15:26)。しかし復活信仰が本当にその人の内に根付いていない限り、どうしても死は話題の障壁となり、語ってはならないタブーとなるのです。

 主はペトロを叱って「サタン、引き下がれ」と言われます。主はペトロが嫌いになり、捨てようとなさったのでしょうか。そうではなく、「わたしの後ろに回れ」と言う意味です。私の前に立ちはだかるのではなく、私の背後に回って私のしようとすることを良く見て、私に従う者となりなさいと言われたのです。信仰とは主の御前に立ちはだかって、あれこれ自分の考えをぶつけることではなく、主の後ろに回って、黙って主に従うことなのです。

 主イエス・キリストは確かに私たち全ての罪という十字架を背負って、死ななければなりません。死の闇に呑み込まれるかに見えるイエスさまの目線の向こうには復活の朝が見えるのです。私たちの主は死にさえ打ち勝つ生ける真の神だからです。この勝利の朝を主と共に迎えたいと思う者は、主の御前に立ちはだかっていてはなりません。それは天のお父様の御旨を邪魔するサタンのすることだからです。

 

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

サタン、引き下がれ

マタイによる福音書16:21-28

 

 先日教会学校主催の「子どもお楽しみ会」が開かれました。主題は詩編119:105から「イエスさまはどこに」でした。イエスさまはどこに生まれて何をなさったか、どのように死んでその後どうなったか、とても興味引かれる良い主題でした。所で今日はその続きというような内容のお話になるかと思います。私たちのイエスさまはどんな方だろうかと言うことです。

 

一、イエスさまは苦難の僕

 主は今、「わたしは間もなく苦難の僕として、命懸けの仕事をしなければならない」と言われました。どんなことがイエスさまの身に降りかかるのでしょうか。

天の父によってエルサレムに導かれる事。

そこで長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けること。

そして殺されることです。

 私たちは前もって生まれる時と所を知りません。死ぬ時も同じです。突然死か、長い闘病の末か、若き日に召されるのか、百歳以上もの寿命なのか分かりません。畳の上で大往生できるのか、病院のベッドか、事故に遭遇して山の中、海の底、それとも道端で息を引き取るのか誰も分かりません。全ては神の定めた時の中にあるからです。

 所が主イエスは自分の死ぬ時期も場所も全て承知しておられます。彼の死に場所はエルサレム郊外の死刑場です。エルサレムには各界最高の指導者がいて、主を苦しめようと待ち受けています。彼らは鞭を加え、茨の冠を被せた上に、証拠をねつ造して、しかも異邦人の手を借りて極刑を下すのです。主は御自分の身に降りかかるこれらのことを全て御自分の口から予告されました。確かに彼を打つことは父なる神の御旨であり、十字架による死が「苦難の僕」の証であるとイザヤ書53章は歌っています。主が苦難の僕として御自分を十字架に委ねて下さったことによって、ユダヤの指導者は救われ、訳も分からず十字架の下でイエスを嘲る人の罪も赦されるのです(ルカ23:34)。

 昔アブラハムとサラという夫婦がいました。ある日、下働きをしていたハガルという女性を巡ってこの家に不祥事が持ち上がります。女主人のサラはハガルをいじめ抜き、その為ハガルは居たたまれなくなりました。郷里のエジプトを目指して逃亡中、オアシスに辿り着きました。一息ついていると、彼女はそこで神の取り扱いを受けて自分の罪に気付かされるのです。問題から逃げるだけでは解決も平安もないと知り、元の主人の所に帰って、罪の告白をしようと思い立ちました。その時彼女は神さまから大いなる祝福の約束を受けました。そしてこんな人気(ひとけ)のないところでも自分を顧みて下さる神さまがおられることを知りました(創世記16:13)。あのオアシスでハガルは飲んでまた渇く水ではなく、汲めども飲めども尽きない永遠の命の水という神の御言葉によって真の平安を得ることができたのです。

 マタイ16:21を見て下さい。「この時から」という書き出しで主イエスの十字架への予告が始まっています。あのハガルやエルサレムの指導者だけではありません。今ここにいる私たちも主イエス・キリストの十字架によって救われるのです。隠れた罪の重荷を背負い、砂漠のようなこの世の人生を彷徨(さまよ)う私たちの生活の中に、救いの時が飛び込んできた、そう言う意味の「この時から」なのです。

 

二、勝利の主

 第二にイエス・キリストこそこの世に勝利した唯一人のお方です。主は御自分が受けることになっている十字架の苦難と死を明らかにしただけではありません。彼は確かに死にますが、3日目に甦るべきこともまたはっきりと証なさったのです。

 しかし悲しいかな、人は隣人の話を最後まで冷静に聴くことの出来ない生き物です。ある部分だけが耳に響き、それだけが強烈な印象として残り、他のことは何も耳に入りません。ペトロがそうでした。主が苦難の果てに死ぬと聞いたら、もうそれだけで頭に血が上ってしまい、外の言葉は何も聞こえません。それでイエスさまを脇へ引き寄せて諫(いさ)め始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。とんでもないことって何でしょう。まさか復活のことを指しているとは思えません。如何にペトロが主の言葉を中途半端に聞いていたかということです。彼は「復活する」という言葉より、「死ぬ」という言葉の方が強く響きました。

 使徒パウロが言うように、死は人間にとって最後の強敵なのです。だからそれは滅ぼされなければなりません。実際パウロは主イエスは復活によって滅ぼしたと証言しています(コリント15:26)。しかし復活信仰が本当にその人の内に根付いていない限り、どうしても死は話題の障壁となり、語ってはならないタブーとなるのです。神のことを思わず、人のことを思うとはこう言うことです。

 主はペトロを叱って「サタン、引き下がれ」と言われます。私たちはこの言葉もまた誤解してしまいます。主はペトロが嫌いになり、捨てようとなさったのだと。ここは他訳の聖書を見ると、「わたしの後ろに回れ」となっています。この訳の方が原意に忠実です。主イエスはペトロが邪魔になって、どこか遠くへ行ってしまえと言ったのではありません。私の前に立ちはだかるのではなく、私の背後に回って私のしようとすることを良く見て、私に従う者となりなさいと言われたのです。信仰とは主の御前に立ちはだかって、あれこれ自分の考えをぶつけることではなく、主の後ろに回って、黙って主に従うことなのです。

 主イエス・キリストは確かに私たち全ての罪という十字架を背負って、死ななければなりません。しかしイエスさまは既に世に勝っておられるのです。死の闇に呑み込まれるかに見えるイエスさまの目線の向こうには復活の朝が見えるのです。私たちの主は死にさえ打ち勝つ生ける真の神だからです。この勝利の朝を主と共に迎えたいと思う者は、主の御前に立ちはだかっていてはなりません。それは天のお父様の御旨を邪魔するサタンのすることだからです。

 

三、審判主

 第三に私たちの主イエス・キリストは終わりの日に全ての造られた者を永遠の命の喜びに満ちた天の御国と、終わりなき苦しみが続く底知れぬ滅びの世界へと振り分ける審き主です。

 この世にあって全世界を儲けるために人生の全てをかけることもあなたの自由、わたしに従って十字架を背負うような苦難に満ちた人生を送るもあなたの自由です。しかし人は必ず死にます。この世は永遠ではありません。天と地とその中に生きる全ての造り主である主イエス・キリストの父なる神の計画によると、天地は過ぎ去るのです。終わりの日を迎えなければならないのです。その日、その時イエス・キリストは再び天から降ってきて、その時まで生き残っている者は勿論、既に死んで墓に葬られている者を全て甦らせて、麦と籾殻をよりわけるように羊と山羊を選り分けるように、信仰者と不信仰者を右と左に審き、それぞれ行くべき所に引き上げ、或いは落とされます。

 ある教会でのことです。まだ30代半ばの壮年が病を得てついに天に召されました。彼は別の教会のメンバーでしたが、弟さんが私たちの教会のメンバーと言うこともあり、二教会合同の葬式をしました。一年後記念会を催したとき、弟さんが私にそっとこんな事を言いました。「先生、私の兄のためには真にちっぽけな墓しか造ってやることが出来ませんでした。周りには立派な墓がいくつもあり、なおさら惨めに見えました。何かかわいそうにも思えました。でも先生感謝ですね。墓は小さくても兄は新しい復活のからだを与えられて天のお父様の御許にあるのですから。」

 そうです。「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言われた主の御言葉を思い出して下さい。私たちの罪のために十字架をも忍んで下さった苦難の主、けれども甦って死の力を克服して下さった勝利の主、私たちを永遠の御国へ引き上げて下さる正しい審き主の導きのままに信じ従うことです。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 私たちは今朝、ペトロと共に「サタンよ、引き下がれ」と言われた主のみ言葉を聞きました。あなたを信じていると言いながら、時としてあなたの前に立ちはだかり、この世の常識を振り回してはあなたの行く手を邪魔する者でした。けれどもまた、あなたは今朝、私たちがあなたの御子イエスさまに十字架に死んでもらわなければならないほど罪深い者であったことを示して、全世界を儲けるよりも偉大な人生のあることを教えて下さいました。感謝します。

 今私たちは知りました。あなたの前に立ちはだかることは、あなたの僕ではなく、あなたの邪魔をするサタン的な態度であることを。今からはあなたの後ろに引き下がり、あなたに従う者とならせて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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