【主日礼拝メッセージ】                           2001年8月5日

イ エ ス の み

マタイによる福音書17:1-13

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 ここは高い山です。主イエスを真ん中に旧約聖書を代表するモーセとエリヤがいます。傍らには新約聖書を代表する弟子たちペトロとヤコブとヨハネがいます。弟子たちが見るイエスはいつもと様子が違います。御顔が太陽のように光り輝き、衣は光のような白さです。実はこの輝きこそ主の栄光であり、神性を証明しているのです。イエス・キリストは人としてこの世に生まれ、人として生活しておられますが、ご本質は神なのです。モーセとエリヤが栄光の主イエスと何やら語り合っています。彼らは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」(ルカ9:31)のです。

 ペトロとヤコブとヨハネたち3人はこの光景を、固唾を呑んで見ていました。夢なら冷めないで欲しい、この時間がいつまでも続いて欲しい。そう願って、ペトロはここに3つのテントを張りましょうかと申し出ました。しかしここに長く留まることは許されません。イエス・キリストは出来るだけ早くこの山を下りて十字架へと向かわなければならないのです。そのとき突然光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)という声が響き渡りました。弟子たちが顔を上げると、そこにはイエスの外誰もいませんでした。この8節は文語訳聖書によると、「彼ら目を挙げしに、イエス一人の他は誰も見えざりき」と記されています。更にもっと古い文語訳聖書には「その目を挙げしに惟(ただ)イエスの外一人をも見ざりき」と記されています。偉大なモーセもエリヤも主の御前には霞んでしまいます。かつてモーセはイスラエルの民に向かって、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」と言いました(申命記18:15)。この預言が今天からの御声と一致しました。彼らだけではありません。私たちが聴き従うべきお方は主イエス・キリストお一人でなければなりません。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

イ エ ス の み

マタイによる福音書17:1-13

 

 今朝私たちはとても厳かな出来事を学ぼうとしています。特に心に留めていただきたいのは8節の「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」という言葉です。

 

一、聖書はイエスのみを証している

 この箇所では凄いことが起こっています。ここは高い山です。主イエスを真ん中に旧約聖書を代表するモーセとエリヤがいます。傍らには新約聖書を代表する弟子たちペトロとヤコブとヨハネがいます。弟子たちが見るイエスはいつもと様子が違います。御顔が太陽のように光り輝き、衣は光のような白さです。この輝きこそ主の栄光であり、神性を証明しているのです。イエス・キリストは人としてこの世に生まれ、人として生活しておられますが、彼のご本質は神なのです。光り輝く衣は主の栄光の輝きそのものです。イエス・キリストは人としてこの世に生まれ、人として生活しておられますが、彼のご本質は神なのです。光り輝く衣は主の栄光の輝きそのものです。これを「イエス・キリストの変貌」と呼ぶ人もいますが、この物語に先立つフィリポ・カイサリアでペトロの信仰告白がありました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:18)と。この光り輝くイエスの姿はペトロの信仰告白を受けてのお姿です。イエスはまさしくメシアであり、生ける神の子です。これこそイエスの真のお姿であり、弟子たちが普段見ているお姿はご自身の本質を隠す変貌のイエスなのです。そのモーセとエリヤが主イエスと何やら語り合っています。何を語り合っていたのでしょうか。ルカ9:31によると、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」とあります。

 モーセと言えば思い出すことは何と言っても神の幕屋造りです。この幕屋は実に「イエス・キリストの型」であったと後に新約聖書の著者は証言しています。エリヤと言えばバアルという異教社会と戦った信仰の勇者です。彼については旧約聖書においても新約聖書においても救い主の露払いとしての使命を帯びた者と証言されています。そしてペトロはこの神聖なできごとを目撃した一人として次のように言っています。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは聖なる山にいたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は決して、人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったからです」(ペトロ1:16〜21)と。このように旧約聖書を代表するモーセとエリヤ、新約聖書を代表するペトロ、ヤコブ、ヨハネは等しく聖書を神の霊に導かれて書かれたものと言います。もし私たちが聖書を読んでなおイエス・キリストに出会うことが出来ないなら、私たちは本当に聖書を読んだとは言えないでしょう。

 

二、神は御子イエスのみを証しておられる

 ペトロとヤコブとヨハネたち3人はこの光景を、固唾を呑んで見ていました。やがてペトロは「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。「お望み」なのはペトロの方です。夢なら冷めないで欲しい、この時間がいつまでも続いて欲しい。そう願って、ここに3つのテントを張りましょうかと申し出たのです。しかしここに長く留まることは許されません。イエス・キリストは出来るだけ早くこの山を下りて十字架へと向かわなければならないのです。そのとき突然光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)という声が響き渡りました。これに聞けとは誰のことでしょう。誰の言葉に聞くべきでしょうか。主の弟子たちが顔を上げると、そこにはイエスの外誰もいませんでした。この8節は文語訳聖書によると、「彼ら目を挙げしに、イエス一人の他は誰も見えざりき」と記されています。更にもっと古い文語訳聖書には「その目を挙げしに惟(ただ)イエスの外一人をも見ざりき」と記されています。偉大なモーセもエリヤも主の御前には霞んでしまいます。かつてモーセはイスラエルの民に向かって、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」と言いました(申命記18:15)。この預言が今天からの御声と一致しました。彼らだけではありません。私たちが聴き従うべきお方は主イエス・キリストお一人でなければなりません。

 

 今年も8月15日が近づいてきます。しかし今年ほど重苦しい気持ちでこの日を迎えることになるとは、小泉内閣が誕生するまで予想もしてませんでした。私たち日本バプテスト連盟の機関の一つである「靖国神社問題特別委員会」から連日のようにこの事でメールが届いています。教科書問題、憲法問題と絡めて、時には一日に何通ものメールが届いています。その全てを紹介することは出来ませんが、いくつかを掲示しておきました。どうして小泉首相はこんなにまで靖国参拝に拘るのか、理解に苦しみます。国のために命を捧げた人は戦場に散った者だけではありません。戦場に散った人の霊が尊いのであれば、焼夷弾で、原爆で命を奪われた人々の霊も等しく尊ばれなければなりません。武器もなく戦場で軍事工場に働かされながらどこからの支援もなく敵艦砲射撃で死んでいった人も数え切れないほどですが、このような人は所謂英霊ではないと言うことで靖国神社から除外されています。人の命にどうして優劣がつくのでしょうか。とりわけ沖縄全島が戦場と化したために、市民はその大半が本土を守る生贄とされ、軍から手渡された物は米でも味噌でもなく、毒薬でした。生きて虜囚の恥辱を被るなかれと言うのです。しかし市民に死ねと命じた高級将校は捕虜となって生き延び、死んだ後には英霊として靖国に祀られているのです。そのような人の祀られている靖国に小泉さんはどうしても参拝すると言って聞きません。

 教会はこのように何かに取り憑かれたように拘る人々のために彼らの目を開かせて下さいと祈らねばなりません。大正デモクラシーがあっと言う間に崩壊し、軍部の力に押し切られながら大政翼賛していった1930年から40年代のように、今も平和憲法がなし崩しにされて行く非常に危険な日本になって行きつつあることを憂慮します。日本中が次第に保守化傾向を辿る今日、教会だけは、頑固に「イエスのみ」を証言し続けなければなりません。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

2000年前地中海世界が、そして聖書の国ユダヤまでがローマの力に呑み込まれて「ハイル、カイザル」の大合唱の時代の最中に、更にヘレニズム文化の咲き誇るフィリポ・カイサリアの地で、それでも「あなたはメシア、生ける神の子です」と大胆に信仰を表明したペトロに倣って、今日非常に危ない時代に生きる私たちもまた、このような時代だからこそ「イエスのみ」を高らかに証しする者であり続ける者とならせて下さい。どうかこの国の為政者たちの目を開かせ、彼らの心にあなたを恐れる思いを抱かせてください。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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