【主日礼拝メッセージ】                           2001年8月19日

永遠の命を得るには

マタイによる福音書19:16-22

ルカ福音書19:1-10

メッセージ:長谷川毬子執事

【要 旨】                                 

 金持ちの青年は、イエスさまになんとかして会いたいと思っていたのでしょう。イエスさまを見つけると「走り寄って、御前にひざまずいて尋ねた」とあります。非常に真剣な気持ちでイエスさまのもとにやって来たことが分かります。彼は希望に輝いていました。そしてどうしても永遠の命を得たいと願っていました。イエスさまが「掟をあなたは知っているはずだ。」と言われたときにもこの青年は「はい!その掟をわたしは小さいときから全部守ってきました。」と答えています。スゴイナーと思います。わたしがもし掟を守っているかと聞かれたら、全部守ってきたなどとはとても言えません。

 とにかくこの青年は、お金持ちで、まじめで、人々から尊敬を受けていました。どこから見ても理想的な人でした。また権力も持っており役人の身分についていたようです。しかし彼は、何か自分の生活で足りないものがあると思ったのでしょう。イエスさまに「永遠の命を受けるために、あと何をしたら良いのでしょうか」と尋ねました。これを聞いたイエスさまは大変に喜ばれて青年を優しくごらんになりました。しかし青年は思わぬ事からイエスさまの元を去って行くことになるのです。それはイエスさまが「持っている物を全部売りはらい、貧しい人々にほどこしなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言われたからです。たくさんの財産を持っていた青年は、この言葉を聞いて悲しみながら立ち去っていきました。

 ここを読むと、お金を持っていると天国には入れないのだろうかと思ってしまいます。

 富や名誉は信仰を持つのに障害になるのか?ということで考えてしまいます。

 この青年は、人にやさしく、頼まれ事があると引き受け、尊敬されていたと思うのです。しかし、たくさんのお金を持っており、権力もあるということで、何でも自分の力でできると思っていたのではないでしょうか。だからもしそれが無くなってしまったらどうしたらよいのか、どのように生きていったらよいかそめどがまったく立たなかった。彼は、イエスさまに従っていけないほと、財産に信頼を置いていたのです。

  「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
                        マルコ福音書10章27節

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

永遠の命を得るには

マタイによる福音書19:16-22

ルカ福音書19:1-10

メッセージ:長谷川毬子執事

           

 マタイ福音書、金持ちの青年のたとえ話を中心に私達の信仰を考えてみたいと思います。平行記事としてマルコ福音書では金持ちの男、ルカ福音書では金持ちの議員としてこの青年のことが書かれています。

 私はこの箇所は何回読んでも引っかかってしまいます。この話しを聞くたびに何か消化の悪いものを食べた時のような気分になってしまいます。何故かというとこの三つの福音書をよく読むと分かるように、ここに出てくるこの人がなかなかの好青年に思えるからです。

 彼はイエスさまになんとかして会いたいと思っていたのでしょう。イエスさまを見つけると「走り寄って、御前にひざまずいて尋ねた」とあります。非常に真剣な気持ちでイエスさまのもとにやって来たことが分かります。彼の顔は希望に輝いていました。そして自分はどうしても永遠の命を得たいと願っている。そのひたむきな姿がよく分かるのです。イエスさまが「掟をあなたは知っているはずだ」と言われたときにもこの青年は「はい!その掟をわたしは小さいときから全部守ってきました。」と答えています。スゴイナーと思います。わたしがもし掟を守っているかと聞かれたら、全部守ってきたなどとはとても言えません。一つでさえ胸を張っては言えないでしょう。また青年は権力も持っており役人の身分ついていたようです。

 とにかくこの青年はお金持ちで、まじめで、人々から尊敬を受けていました。どこから見ても理想的な人でした。しかし彼は何か自分の生活で足りない物があると思ったのでしょう。イエスさまに「永遠の命を受けるために、あと何をしたら良いのでしょうか」と尋ねました。これを聞いたイエスさまは大変に喜ばれて青年をごらんになりました。しかしこの青年は思わぬ事からイエスさまの元を去って行くことになるのです。それはイエスさまが「持っている物を全部売りはらい、貧しい人々にほどこしなさい。それから、わたしに従いなさい」と言われたからです。

 わたしはここを読むたびにやっぱり割り切れない思いがします。何も全財産を売り払わなくとも、たとえば半分だっていいんじゃないかなって考えます。それだってわたしは大変なことだと思います。

 それにこの青年は真面目でキット人に頼まれごとをされるとイヤだと言えない気のいい人だと思うのです。貧しい人々のためにも多くの施しをしていたと思うのです。でも彼はイエスさまのそばから去っていきました。

 

 ここまで読むとお金を持っていると天国には入れないのだろうかと思ってしまいます。

富や名誉は信仰を持つのに障害になるのか? ということで私にとってこの箇所はむずかしい、理解しにくいところの一つです。

 しかし聖書にはいろんな金持ちがでてきます。有名な人物でかなり富をなした人にザアカイという人がいます。このザアカイと金持ちの青年を比べることで何か問題が解ってくるような気がします。

 ザアカイは徴税人で、ユダヤを支配しているローマ帝国のために税金を取り立てる仕事をしていました。そして自分はその上前をはねていました。ですから人々から非常に憎まれていました。ザアカイはまた大変背がちいさい人でした。イエスさまが町を通りかかったとき一目見ようとしましたがもう人垣が出来ていていくら背伸びをしても見えませんでした。そこで彼は少し先のイチジク桑の木に登り隠れて見ていました。葉っぱと葉っぱの間からそっとイエスさまが通られるのを見ていました。ザアカイは「どうせ俺みたいな嫌われ者はイエスという先生だって相手にしてやくれないサ! 」と思っていたのではないでしょうか。ところがイエスさまは、ザアカイのいるイチジク桑の木の下に来たとき突然「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたのです。このイエスさまの言葉は、ザアカイに大きな変化をもたらしました。 嫌われ者で、徴税人の自分の名前など知っているはずがないと思っていたイエスさまから直接名前を呼ばれて、ザアカイはビックリしてしまいました。木から落ちそうになったことでしょう。嬉しくって、嬉しくて急いで降りてきて、そしてイエスさまを家に迎え入れました。それを見ていた人々は「あんな悪人のザアカイの家に泊まるとはなんということだ、俺達の税金で贅沢しているのに」と怒ったのですが、ザアカイはそういう人々の前に立ち上がり、イエスさまに向かって「私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します。」と言ったのです。

 イエスさまの招きに感動というか感激してザアカイの心が変えられたのです。

驚いてしまいます。お金!お金!お金!ザアカイはお金が恋人のような人でしたから。でもイエスさまはそんなザアカイを見て「今日この家に救いが訪れた。」とおっしゃいました。

 

 この話と先ほどの金持ちの青年の話を比べると私はやはり考えてしまいます。

ザアカイは欲張りで、お金をもうけることが生き甲斐みたいな人でした。大勢の人たちからお金をだまし取っていました。それに比べて青年は、ひたすら掟を守ってきた模範的な人だったわけです。それなのにどうしてザアカイのような人が救われて、この金持ちの青年がイエスさまのもとを立ち去らねばならなかったのでしょうか?

 それは、この青年は人にやさしく、頼まれ事があると引き受け、人に尊敬されていたと思うのです。しかし彼はたくさんのお金を持っており、権力もあるということでどんなことでも自分の力でできると思っていた。何でも自分の持っているお金や力、才能、自分の知恵、そういうものによって全て問題を解決しようとしてきたのではないでしょうか。だからこの青年は、もしそれが無くなってしまったら自分がどうしたらよいか、どんな風に生活できるのか分からなかった。そのめどがまったく立たず、立ち去って行ったのだと思うのです。

 つまり青年は良い行いをすることによって永遠の命が受けられると思っていた。それとイエスさまに従っていけないほと、財産に信頼を置いていたのです。

 それに対してこのザーカイは、みんなからみつぎとりと言われ、嫌われ、つまはじきにされていました。だれもザアカイを相手にする人などいませんでした。だから、イエスさまから声をかけられたとき、本当に嬉しくて高いところからピョーンと飛び降りてしまったのです。イエス様がわたしの家を訪ねて来てくださった、わたしを一人の人間として扱ってくださったという喜びでいっぱいになったのです。そして、イエスさまと出会ってその招きというか「イエスさまの愛に答えようという一心で、心も財産も全部投げ出してしまったのが、このザアカイなのではないでしょうか。

 

 ところで私たちはどうでしょうか、金持ちの青年型でしょうか、それともザアカイ型でしょうか。あなたがもしイエスさまに「全財産を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われたらどうするでしょうか。

 わたしはと言いますと、バプテスマを受けるまではまったく金持ちの青年の心を持っていたと思うのです。私が金持ちだったというのではありません。心があの青年と同じだったということです。わたしは、教会へ行き始めてバプテスマを受けるまでに13年かかっています。勿論教会に行ってすぐに大きな大きな神様の存在を知りました。

 でもわたしはわたしの心を神様に明け渡すことが出来ませんでした。お金や権力やこの世の楽しみに引きずられ、何か事が起こっても自分の力で切り抜けることが出来ると思っていました。頑張りさえすればどんなことでも出来るはずだ。そう思っていました。

その反面、神様を知っていましたから何か事件が起こると、片方の心では神様を信じなきゃと思い、もう一方ではやはり自分の力で何とかなるさと、いつも心がフラフラ。自分にとって都合のよい楽しい道、楽な道をを歩いていました。わがままで人が右と言っても左に行きたいと思えば何が何でも左へ行く、そんな風でした。今でもあんまり良い奥さんではありませんがそのころのわたしは好き勝手のしほうだいで、仕事も一生懸命しましたが好きな事もたくさんしました。我慢というのがありませんでした。

 そんなわたしでしたが、33才の時に大事件が起きたのです。どんな事が起こっても自分の力で何とか切り抜けることが出来る、そう思っていたわたしでしたが、大病をしてしまいました。自分の力ではどうすることも出来ない死の淵に立たされ、意識がもどって最初に思ったことは、一番大切な親や兄弟のこと、主人のことではなく、「神様に罪の赦しを未だ受けていない。」ということでした。これは大変だと思いました。このまま死ぬわけにはいかない、そう思いました。神様の存在を知りながら、神様に自分を明け渡していない、心を向けていなかった自分の罪をハッキリと知らされました。「神様、あなたに従っていない私の罪をお許し下さい。」「教会へいって、あなたにごめんなさいを言うチャンスを下さい。」ととっさに心の中で叫んでいました。

 それまで、何人もの人がわたしの救いのために祈り続けて下さっていたことをわたしは知っていました。何かがある度に、神様の迫りと言うかそんなものを感じてきました。でも頑固なまでの私は、生きるか死ぬかといった心の大手術をしなければ、神様の愛の中に飛び込んでいくことが出来なかったのです。とにかく私はこの時、金持ちの青年の心から、高いところからピョーンと飛び降りた、神様に従っていこうとするザアカイの心に変えられたのです。

 バプテスマを受けて20年が経ちます。病気で身体が思うようにいかなかったとき、神様に10年生かしてくださいと祈りました。「神様あなたのために何かがしたいと。」今、20年経って私は何をしてきたのかと考えさせられています。

 

 お金は大切です。いろんな才能も素晴らしいと思います。

でもそれもこれもみんな神様からいただいた物です。お金を第一にした青年のようにではなく、イエスさまのところにピョーンと飛び降りたザアカイのように、嬉しいときも悲しいときも、人を許せないときも、どうしてよいか分からないときも全てをイエスさまにおまかせして従っていきたいと思います。神様はいつも私達の心を見ておられます。

 

 金持ちの青年はイエスさまのそばを離れていきましたがこの先のことは聖書にはどこにも書かれていません。分かりません。でも私はこの青年はキット救われたのではないかと思います。イエスさまが、何であんな事を言ったのか、後になって分かったと思うのです。

  「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
                        マルコ福音書10章27節


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