【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2001年9月16日

交わりの主
マタイによる福音書18章15〜20節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 教会は信仰の交わりの場です。しかし時々その交わりにひびが入ることがあります。しかしそのひびも早い打ちに処置すれば元通りになります。建物のひび割れを直す一つにコーキングと言う方法があるそうです。では教会のひびを修復するコーキングは何でしょうか。

 

 クリスチャンが罪を犯すと教会の交わりにひびが生じます。その場合、他の教会員は行って二人だけの所で忠告して上げなければなりません。罪に堕ちた人を見て見ぬ振りしたり、人に告げ口をしたり、噂の種にしたり、或いは裁判官か原告人のように、いきなり大勢の人の前に引き出して糾弾すべきではありません。「二人だけの所で」という言葉に注意しましょう。誰もいない所で直接事の真偽を確かめることが重要です。もしその人が罪を認めて詫び、神の御前に悔い改めた時には、主もお赦し下さったと信じて共に祈ってあげましょう。再び「兄弟」を得たのですから。

 しかし二人だけだと、相手は罪を隠し、嘘を突き通すかも知れません。その時は更に一人か二人を証人として連れて行き、問題の解決の為にもう一度確認の作業をしましょう。証人を立てることには二つの目的があります。

@ 罪を犯した人に、「あなたの罪を知っているのは私だけではありません。この人たちも知っていて、共に心痛めているのですよ」と諭し、悔い改めを促すためです。

A もう一つの目的は、忠告しようとしている人が第三者の証言によって、実は見間違いであったり、勘違いであることが明らかにされることもあります。人は時として思いこみで無実の人を犯罪者に仕立ててしまうことがあるからです。

 罪に堕ちたクリスチャンがなお悔い改めようとしないなら教会に申し出ることになります。この場合教会とは先ず牧師の所に申し出、次に執事会(役員会)に出席させ、その上で総会という順序を指します。牧師の指導も執事会の助言も聞かないなら、総会にかけることになります。それでも悔い改めない場合どうすればよいでしょうか。以後は未信者として扱いながら、もう一度十字架の前に立つチャンスを与えなさいと主イエスは言われました。この世に生かされている間、主にあっては「もう駄目」と言うことはないのです。十字架の御前に立つ限り、いつでもどこからでもやり直しがきくのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                              2001年9月16日

交わりの主
マタイによる福音書18章15〜20節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 

 教会のご近所にKさんというお宅があります。なかなか教会に足を踏み入れてくれませんが、何かと教会のことを気にかけて下さっている有り難い隣人です。先月のある日、Kさんの二階にあるベランダへ私を連れて行ってくれました。そこからは牧師館の屋根の様子が一目で分かります。かなり傷んでいるから今の内に何とかしなさいと教えて下さいました。それで早速Hさんにお願いすることになった次第です。これは教会堂と牧師館の屋根に生じたひびの問題です。

 内なる教会は信仰の交わりの場です。この世にはない聖い交わりの場です。しかし時々その交わりにもひびが入ることがあります。内なる教会に罪が忍び寄ってきた時、信仰の交わりにひびが生じます。しかしそのひびも早い内に処置すれば元通りになるのです。屋根のひび割れを直す一つにコーキングと言う方法があるそうです。では内なる教会のひび割れを修復するコーキングは何でしょうか。

 

 未信者の方々にはショックなことかも知れませんが、クリスチャンも罪を犯すことがあります。 罪を犯していながらその自覚すらない人と、気付いていながらどうすることも出来ず、ただいたずらに時間だけが過ぎて行くという人がいます。そうした場合、他の教会員は行って二人だけの所で忠告して上げなければなりません。それは審くためではなく、「兄弟を得る」為に大切なことなのです。罪に堕ちた人を見て見ぬ振りしたり、他の人に告げ口をしたり、噂をまき散らしたり、まるで裁判官か原告人のように、いきなり大勢の人の前に引き出して攻撃してはなりません。「二人だけの所で」という言葉に注意しましょう。誰もいないところで直接事の真偽を確かめることが重要です。もしその人が罪を認めて詫び、神に悔い改めた時には、主もお赦し下さったと信じて共に祈ってあげましょう。再び「兄弟」を得たのですから。

しかし二人だけだと、相手は罪を隠し、嘘を突き通すかも知れません。その時は更に一人か二人を証人として連れて行き、問題の解決のためにもう一度確認の作業をしましょう。証人を連れて行くことには二つの目的があります。

@罪を犯した人に、「あなたの罪を知っているのは私だけではありません。この人たちも知っていて、私と共に心痛めているのですよ」と諭し、悔い改めを促すためです。

Aもう一つの目的は、実はこれも大事なのですが、 忠告しようとして

いる人が第三者の証言によって、実は見間違いであったり、勘違いであることが明らかにされることもあります。人は時として思いこみで無実の人を犯罪者に仕立ててしまうことがあるからです。

 

 ここまで丁寧な回り道をしてもなお罪を犯したクリスチャンが頑として聞き入れてくれないなら、教会の判断を仰ぐことにします。罪の誘惑は必ず来ると主イエスは言われました。15節以下はその誘惑に勝てなかった人への取り扱いについてです。誘惑に陥って罪を犯した場合、その罪を密かに隠したまま日々の生活を送ることが如何に危険なことかをその人に知らせるのは教会に与えられた使命です。教会が愛の教会であるためには一人の魂が罪の誘惑に負けないようにあらゆる方法でその人を守って上げなければなりません。礼拝や祈祷会は危険な道路にあって、車や歩行者を守るガードレールのようなものです。また教会が不幸にして罪に堕ちてしまった人に悔い改めを促すことはガードレールを突き破って瀕死の重傷を負った人を救うための救急医療のようなものです。

 罪に堕ちたクリスチャンを諭してもなお悔い改めようとしないなら兄弟姉妹はその人を教会に申し出ることになります。この場合の教会とは先ず牧師の所に申し出、次に執事会(役員会)に出席させ、その上で総会という順序を指します。牧師の指導も執事会の助言も聞かないなら、総会にかけることになります。それでも悔い改めないなら教会はその人を以後クリスチャンと呼ばないで、「異邦人」か「徴税人」同様に見なすことになります。この場合、何か教会から閉め出す決議をするように錯覚し勝ちですが、事実は違います。ここで異邦人と徴税人について少し説明しておきましょう。異邦人とは天地の造り主にして、唯一真の神を知らず、聖書も知らない外国人を言います。イエス時代の徴税人とはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしく生きることを自分から捨てた人、神の契約の民であることを自ら放棄してしまった人のことを指します。

 従って罪に堕ちたクリスチャンがどうしても悔い改めない場合、教会はその人を、信仰を持っていなかった以前の人として扱うことになる、そう言う意味です。ユダヤ教では民の一人が律法に従わないと判断したら、その人を共同体から破門してしまいます。しかし主イエスはそのようにせよと仰いません。 罪に堕ちてなお悔い改めない人であっても、その人を破門してしまうのではなく、未信者として扱いながら、もう一度十字架の前に立つチャンスを与えなさいと言われるのです。この世に生かされている間、主にあって「もう駄目」と言うことはないのです。教会は聖い交わりの場でなければなりませんから、一点の罪も汚れもなおざりにできませんが、十字架の御前に立つ限り、いつでもどこからでもやり直しがきくのです。

もし悔い改めてくれたなら、私たちは「兄弟を得た」わけです。その時はキリストにある愛と赦しの関係に共に立つことが出来るのです。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と主イエスは言われました。

 

 ある人が人間は社会的動物と言いましたが、群れをなして生きるのは何も人間に限ったことではありません。象も、キリンも、バッファローも猿もみな群れをなして生活しています。ここでのイエスのみ言葉はアダムの為に言われたみ言葉の解説として読むことが出来ます。神はひとりの人アダムを見て、「人は独りでいるのは良くない」と言ってエバを創造して下さいました。確かに社会の最小単位は二人ですから、ここから社会生活、共同生活が始められたというのは正しいことです。しかしその二人、または三人の中に神の臨在が必要だというのが、イエス・キリストのみ言葉の意味です。二人または三人がお互いを見つめ合って、仲良くしたり喧嘩したりと言う、人間が中心の社会ではなく、その真ん中にイエス・キリストも共におられるという自覚があってこそ、その交わりは清められるのです。二人または三人がこの方の名において祈り合うとき、神の愛が一人ひとりの心を結びつけ、神への畏れと悔い改めが起こされ、キリストにある赦しと救いが生まれ、平和が実現するのです。いや、二人の内の一人、三人の内の一人がこの交わりから落ちそうになっているときでさえ、残された二人が、教会が心を合わせて祈るとき、主もそこにいます故、その祈りは主の耳に届き、叶えられるのです。イエス・キリストこそ全てのクリスチャンにとって交わりの主だからです。

 日本時間の9月11日、アメリカ合衆国ニューヨーク州の世界貿易センタービル、ワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)、そしてペンシルベニア州の一地域が、何者かによって同時爆破させられ、アメリカ国民はもとより世界を震撼させました。神の御旨に反して、宗教の名を借りて体に爆薬を巻き付けて体当たりする特攻隊員、或いは爆薬を積み込んだ飛行機ごと対象物に体当たりする発想が今も生きているのかと思うとぞっとします。組織も名前もはっきりしない人々による暴力が多くの尊い人命を一瞬のもとに奪い去りました。更に多くの負傷者が生死の間にあります。第三次世界戦争勃発を予想する軍事専門家の不用意な発言にはなおさら心寒くなるものを感じます。愚かな行為に復讐しようと、世界が更に愚かな行為(戦争)を三度(みたび)繰り返すことのないように、今こそ教会は心を合わせて祈らなければなりません。私たちは今二人や三人ではありません。手紙で、電話で、インターネットを通し世界中の指導者に、特にアメリカ合衆国大統領に共に祈ろうと呼びかけなければなりません。テロを容認すべきではありませんが、同じような暴力を繰り返すだけでは解決にならないということを。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

あなたは罪に堕ちた人をさえ再び救おうと、愛と赦しの道を開いて下さいました。この教会の主にある交わりにひびが入ることのないようにと私たちは祈ります。しかし万一ひびが入ったとしても、私たちは絶望することなく祈りのコーキングを以てこの交わりを再び清めて下さるあなたの御許にひざまづきます。どうか交わりの主であるイエス・キリストがこの仙川キリスト教会を一つに結びつけて下さい。私たちは自分のことだけを祈ることは許されません。

先日のアメリカ合衆国における姿なきテロリスト集団による連続爆破事件を憂慮します。人間はどうしてこうも愚かで罪深い生き物なのでしょう。この一つしかない地球の中で人と人が飽きもせずに殺し合っています。今どうか十字架の主がこの世界を憐れんで下さい。平和が来ますようにと祈る群れを多く起こして下さい。

私たちの救主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをおささげします。アーメン。


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