【主日礼拝メッセージ】                           2001年9月30日

「恵みの御業」

詩編103:1-22

メッセージ:吉野輝雄執事

【要 旨】                                 

 主の御業をこの目で見たとき、主の恵みの御業に与かることができた時、人はどうするだろうか?「主を畏れ、主の契約を心にとめながら生きる者を主は慈しみ、憐れまれる」と詩編103編の記者は、体験を証している。証は、単なる喜ばしい体験や、心躍る体験、成功談などを語ることではない。主が私に与えてくださった恵みの体験をそのまま語ることであると思う。

 私は、昨年7月から400日間、ドイツに滞在する機会が与えられ、様々な体験をすることができた。「数えてみよ主の恵み」と賛美歌にあるが、数え切れないほどの恵みの体験を思い起こすことができる。多くの人との出会いと交わり、公(ハンブルク大学での研究)と私の生活との区切りが明確な生活、日本にいた時以上に妻と長い時間を共有できたことなどだ。そして、何よりもこの間、自分を見失うことがほとんどなかったことがとても幸いであった。もう少し具体的に述べると、自分が一日一日、一週一週何をするのか、何をしたいのかがはっきりしていて大体その目標に向かって時間を使うことができたということだ。目標がいつも達成できたとは言い難いが、うまく行かなかったことも失敗も受け入れ次の日/週を始めることができた。正直に言えば自分の計画・課題にいつも関心を集中していたことは事実であるが、時差を超えた日本の友、教会の皆さんのことをいつも心に思う余裕が与えられていた。祈って頂いていることが感じられ、食前に教会のことを祈らせて頂いた。メールには必ず返事を書くように心がけ、ほぼ実行できた。その意味で、日本では心亡びるような毎日を送っていた自分とは別の自分を発見できたことも幸いであった。ドイツでの教会生活、訪問客との交わりなどの具体的な体験、その他恵みの体験をあげれていけば切りがない。

 今は、まず主に感謝し、なぜそのような恵みに与ることがゆるされたのかを信仰の目で振り返っている。1年間は「恵みの時」であったが「夢のような時」ではなかった。ドイツで現実に生きた日々の意味をとらえ直し、「我、何をもちて、これに応えん」(讃100番)と祈らされている。

 

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセージ・本文】     

「恵みの御業」

詩編103:1-22

1. まず感謝

 昨年7月から400日間、ドイツに滞在する機会が与えられ、様々な体験をすることができた。滞在中皆さんが祈って頂いていることが感じられ、私も食前には必ず教会のこと、皆さんのことを祈った。菊枝さんは、「研究が進展しますように、ドイツ語が上達しますように」と何10通もの手紙で具体的に祈っていると書いて来て下さったのでとても励まされ感謝だった。岡本姉も手書きの長い手紙で教会員一人一人のことを詳しく度々知らせて下さったので、私の方でも具体的に祈ることができた。メールでのお便りを頂いた時もとてもうれしかった。

 

2. 恵みの御業 

 「数えてみよ主の恵み」と賛美歌102番にあるが、数え切れないほどの恵みの体験を今思い起こすことができる。その具体については後半でお話したい。

 はじめに、主の恵みの御業に与かることができた時、人はどうするのかを聖書から学びたい。詩編103編の記者は、「主を畏れ、主の契約を心にとめながら生きる者を主は慈しみ、憐れまれる」と自分の体験を証している。証は、単なる喜ばしい体験や、心躍る体験、成功談などを語ることではない。主が私に与えてくださった恵みの体験をそのまま語ることであると思う。自分を語るのではなく主を語る、主の業について語ることが証だ。この信仰の基本を心に留めながら、私のドイツでの体験についてお話したい。

 

 この度のドイツ滞在は、休暇だったわけではない。「サバティカル・リーブ=研究休暇」と呼ばれることがあるので誤解を招くことがあるが、正式には「特別研究期間」といって7年目の1年間、大学における一切の教育、会議出席、委員などの義務から解かれ研究に専念できる制度を利用してドイツへ行って来た次第。とても有り難い恵まれた制度だと思っているが、これは今日のテーマの主の恵みとは違う。場所を違えて仕事をしてきただけだ。実際、ハンブルク大学の有機化学研究所に月から金曜まで毎日通い、研究実験に明け暮れていた。ただ、ドイツ人の仕事時間にならい、朝9時から夕方6時まで仕事に集中し、6時には帰宅。日本での生活とは全く違った生活リズムであった。つまり、公(大学での研究)と私の生活との区切りが明確な生活であったので、精神的、肉体的に健康な生活が送れたことはとても幸いだったと思う。実際、病気らしい病気をせず400日送れたことを感謝している。帰宅後の時間と土、日の時間は自分の時間として自由に使うことができた。私だけでなく、周囲のドイツ人は皆そのような生活を送っている。そこにドイツ人の豊かさと余裕の秘密を見る思いがした。

 ご存知のように昨年11月に仕事を辞めた妻・純子と12月から今年の8月まで長期の海外生活を一緒に送った。それがどんな生活であったのかは、短い時間では話しきれないが、公の生活以外の時間をどう過ごすかを計画し、一緒に実行できたという意味で特別な期間であったといえる。具体的例として、2人の共通の趣味である花巡り/写真アルバム作り、週末割引チケットを利用した北海、バルト海沿岸を巡る日帰り旅行があげられる。

 私個人についていうと、上で述べたような生活リズムが健全に働いていたせいか、自分を見失うことがほとんどなかった。その意味をもう少し具体的に述べると、自分が一日一日、一週一週何をするのか、何をしたいのかがはっきりしていて大体その目標に向かって時間を使うことができたということだ。掲げた目標をいつも達成できたとは言えないが、うまく行かなかったことも失敗したこともそのまま受け入れ、心機一転してまた次の日/週を始めることができた。「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労はその日一日で十分である」(マタイ6:34)という御言の意味を実感しながら生活できた。

 私はドイツ滞在中、毎日パソコンで日記(研究、出来事、出会い、天気など)を書いていた。送受信したメールもそのそばにペーストし日記としていた。そして、頂いたメールには必ず返事を書くように心がけ、ほぼ実行できた。実行できたこと自体よりも、外国にいながらもいつも多くの人とメールを通じてつながりを持ち続けることができたことの方が重要だったと思う。その意味で、日本では心亡びるような毎日を送っていた時には出来なかったことで、そこに別の自分を発見できたことも幸いであった。

 

3. 出会いの恵み体験

 (1)ハンブルク日本人教会との出会い

正式名:Wedel Freie evangerische Gemeinde(ヴェーデル福音自由教会)に去年の9月半ばから通っていた。そのことをある日本の友人に知らせたところ、「吉野さんも一人で寂しかったのですか?」と言われた。「皆さんの中にもそう思われた方がありますか?」答えは、ノーです。私は、外国で日本人同士が固まって現地の人々の中に入って行かないことに対して批判的な意見を言ってきた。実際、過去アメリカ、ドイツに長期滞在した時には現地の教会に通っていた。

「それではなぜ?」;きっかけは、海蔵寺さんというICUの社会科学科の教員が私と同時期にキール大学に研究留学されていて、電車の中で偶然メッツガー宣教師夫妻と出会いハンブルク日本人教会を紹介されたことに始まる。9月17日に一緒に教会に出席、私もメッツガー先生に出会った。メッツガー先生は30年間岐阜で宣教師として働かれ、定年を迎えられてからドイツに帰られ、ベルリン、ハンブルク、ハノーハーに住む日本人への伝道を続けておられた。メッツガー先生は日本人以上に日本語が上手で、礼拝で語られるメッセージの聖書理解がとても鋭く、胸に深く残るものであった。メッツガー宣教師夫妻のお人柄にも惹かれ、その後も更にメッセージ聞きたいがためにその後も出席を続けた。

 ところが、メッツガー先生は10月末にドイツでの宣教活動からも退かれることが決まっていた。そのためか、10月の毎主日に語られるメッセージは静かな中にも心に迫るものがあった。イエスさまが十字架に掛かる前に弟子達に語られたヨハネ福音書15章以下のメッセージを毎週取り上げ、残していく者に福音の本質を順々と語られているように感じられた。遂に後任の河村昭夫・紀子宣教師にバトンタッチする特別礼拝と送別会が10月29日にベルリンの日本人教会で開かれることになり、私もメッツガー先生に感謝を表したいという気持ちで参加した。すべてのプログラムが終わり、お別れの挨拶をした時に「これからも続けてWedel日本人教会に出席します」と言ってしまった。その場の流れでそう言ったのはなく、実は10月半ばからその後の教会生活をどうするか自問しながら祈っていた答えであった;自分の心の中で、ドイツの教会に行きたいという思いと、メッツガー宣教師が去った後日本人教会はどうなるのかという心配が葛藤していた。心配だから残るというのは高慢不遜だという思いもあってベルリンに行くまで答えが出せなかったのだ。メッツガー先生に約束した言葉を反すうし、また、ハンブルクまで帰る列車の中で日本人教会の兄姉とじっくり話す中で私の心は一つに焦点を結んでいった。「私の願いや価値判断から教会を選ぶのではなく、主は私をWedel日本人教会に遣わされたのだ。私は一信徒としてできるだけのことをしよう」と。この点がはっきりした時、私の中の傲慢な思いは砕かれ平安な心に満たされた。 

 その後10ヶ月間、特別な予定がない限り、電車で1時間かけてWedel日本人教会の礼拝に通うという生活の基本リズムが出来上がった。主は、その間日本人教会の兄姉との豊かな交わりを経験させて下さった。

a. 11月第1週には私の信仰生活の証を皆の前で行った。

b. ドイツ人と結婚して20年以上ハンブルクで生活している2人の婦人とそのご家族との交わりが与えられた。その一人は長年日本人教会を支えて来られた方で、何とICU72年卒という奇遇であった。もう一人は画家であるドイツ人の夫を支えながら通訳をしている方で、大晦日の夜お宅に招いて下さりドイツ人がどのように年越しをするのかを見せて下さった。私ども夫婦がご主人の絵を気に入って購入したことからさらに親しくさせて頂き、コンピュータのお世話をしたことから帰国前にもう一枚のオリジナルの絵をプレゼントして頂いた。思い出深い我が家の宝となっている。

c. カンタータを歌うことを目標に定め音楽を勉強中の女子青年、音楽学校で声楽を教えている女性との出会いも幸いであった。

d. 求道中であった一人の女性が2001年5月6日にバプテスマを受けた。信仰告白文の書き方について相談され、自分の入信時の証をすることができた。バプテスマの当日は、皆で祝福し喜びを分かち合った。ちょうどその日に服部百合子姉と黒岩富子さんがハンブルクを訪ねて来られており、バプテスマ式に共に出席できたことは何とも幸いなことであった。まさにハレルヤの時であった。

e. 私は、仙川教会での経験を生かして日本人教会の名簿作りをお手伝いした。顔写真付きにしたところとても喜ばれたが、私は、それが教会の皆さんの絆を深めることに役立てたことがうれしかった。

f. 外国にある“日本人教会”の意味/役割について多少なりとも考える機会となった。母国を離れて信仰を貫いている人たちはやはり社会的に自立している人たちであるというのが第一印象であった。しかし、異国での生活で言い知れぬストレスや苦労を抱えている人がいることも知った。そのような人の慰め、力となれる教会であるためには、母国語で聖書のメッセージを聞くことができ牧会が受けられるコミュニティが必要であると感じた。それは未信者にも向けられるべきものだ。すなわち外に開かれた集まりとして伝道/宣教の働きを担っている限り教会は存在意義をもつ。小さな教会であっても伝道の使命について祈り、合意形成していくことも必要だと思うのだが、今は個々人の行動に依存しているだけで組織的な働きはなされていない。それは今後の課題のように思えた。1年間の限られた滞在しかゆるされていない私は、その点について積極的な提案ができなかった(すべきだったのかも知れない・・・)。

g. 上に述べたように、私は10ヶ月後には帰国する一時客のような者であったが、自分では“お客さん”のような関わりはして来なかったつもりだ。この姿勢は教会の方も分かって下さり、最後まで主にある交わりの中で喜びを分かち合うことができた。帰国2日前に私どものためにお別れ会をして下さり、2人の方が、見送りを遠慮したのにハンブルク空港まで見送りに来て下さった。その時、改めて主にある交わりの素晴らしさを感謝した。

 

(2)日本からの訪問客との出会い

 8/6-9  中西明子さん(ICU理学科3年生)
 8/16-19 まき子と職場の友人(柳沼 薫さん)
 3/4-31   杵島美砂さん
 5/9-13  服部百合子さんと黒岩富子さん
 5/28-6/1 矢内 俊くん(ICU理学科4年生)
 8/4-9   半田こずえさん母子、狩野さん一家、青松利明くん
 8/10-13 まき子と職場の友人(柳沼 薫さん)

 

a. 杵島美砂さんとの出会い

 20年ほど前浦和教会で交わりのあった杵島良介さん・由美子さんの次女・美砂さんがドイツ語研修のためにハンブルクにやって来るということを知らされたのは、3月3日美砂さん出発の前日であった。少々あわてたが、それから1ケ月間は思いがけない楽しい出会いの時となった。ホームステイ先に着いた日に電話をして我が家に招いた。互いに初めて会うのと同然でありながら、古くから知っているような不思議な対面であった。というのは、父親の良介さんとは20年ほど前浦和教会で交わりがあり、プロの手話通訳者としてろうあ者のために骨身を削る生き方をされていたことを目の当たりに見て心から尊敬していた。しかし、ある日突然脳腫瘍と診断され、2年4ケ月の闘病生活の末37才で召天された。若すぎる何とも悔しい別れであった。その時美砂さんはまだ4才であった。入院されてからはご家族で教会に来ることができなかったので、私は全く顔を思い出せなかった。あれから17年が過ぎ、大学1年生になった美砂さんをどうしても良介さん、母親の由美子さんと重ねて見てしまう。話は尽きない。その後の生活などたくさん聞きたいことがあったが、今の美砂さん自身に関心を向けるように努めた。

 美砂さんは、高校時代にadidas cupサッカー日本選抜チームの一人としてアメリカに行ったことがあるスポーツ・ウーマンであった。大学のユニバーシアード代表選考会を蹴ってまでドイツに来たということを聞いて、ドイツ好きの私はすっかり美砂さんが好きになった。週末にシュベリーンとリューベックに日帰り旅行をしたり、バッハの「ブランデンブルク交響曲1-6番」のコンサートに行ったり、ブレーメンの町を歩いた後に、ブレーメン大学に移ったばかりの私の友人宅を訪問したりと、もう一人娘ができたようにうれしく、電車内でのおしゃべりも楽しかった。

 由美子さんにデジカメで撮った写真を添えたメールを書いてドイツでの様子を知らせたところ、良介さんが発病した時のショックとその後のことを知らせて下さった。「次女は翌日から毎晩杵島の倒れた時間になると 『こわいよー』と言って夜泣きした。夢であってほしい。夢なら醒めてと、どんなに思ったことか。」、「2か月たったころだろうか… 泣いてばかりいるわたしに、娘達が泣いていった。『おかあさん、お願いだから泣かないで、お願いだから笑って』と。悲しいのは私だけではない。父親を失ったこの子たちもかなしいんだ。その日から、子どもの前で泣くのはやめようと、心に決めた。」「杵島の死をとうして、人の優しさ暖かさを、たくさん知った。真実も見えた。杵島が残してくれた『友』という何にもかえがたい財産に守られて、ここまで生きてこられた。これからも、生きていける。」と。

 エピソードを一つ:美砂さんはマッサージのセミプロで、サッカーの練習の後その腕でサッカーによる出費を賄うためにアルバイトをされていた。私は今年の2,3月頃ひどい肩こりと目の疲れに苦しんでいたので、美砂さんにマッサージを頼んだところすっかり凝りがとれて楽になった。その後会う度にお願いする始末であった。しかし、あの時はほんとうに楽になり頭も爽快になった。その時の爽快さは今でも忘れない、どうもありがとう。

  

b. 8/4-9 半田こずえさん親子、狩野さん一家、青松利明くんとの出会い

 8月4日から9日まで6人の訪問者を迎え、ハンブルクで一緒に過ごした;半田こずえさんとゆりちゃん(10才)、狩野文雄さん家族(奥様とこころちゃん(10才))、そして、青松利明さんという青年。この中で半田こずえさんと青松利明さんは私の本務校であるICUの卒業生で2人とも全盲だ。

 ハンブルクに来られる前からイエニッシュ公園内のE.バーラッハハウス(美術館)を案内することを約束し訪問を楽しみにしていた。バーラッハはヴェーデル生まれの彫刻家で、盲人は作品を手で触って鑑賞することが許されていたからだ(実際には手袋着用が必要)。5日の午前中聖ミカエル教会の礼拝に出席後、バーラッハハウスに行った。バーラッハのシンプルでありながら魂の叫びが伝わってくる木彫作品に触れることができ、2人はとても感激し、今度のハンブルク訪問を非常に喜んくれた。半田さんは、以前アメリカで学芸員の資格を得るための勉強をされていたことがあり、「イエスとトマスの再会」という木彫作品が特に気に入った様子であった。

 実は、そこに日本人教会のFさん夫妻も来られた。私から送ったメールの中で6人の訪問者のことを書いたところ、夫人のM姉がぜひ会いたいと言われ、バーラッハの作品を一緒に鑑賞した後、半田さん、青松さんと話す機会を持った。M姉がぜひ会いたいと言われた理由は、お父様が現在視覚を失いつつあることに関係している。数年前から視力が段々と衰え、今はほとんど見えくなっていて、そのため駅の階段から落ちたこともあるという。最近また駅の階段から落ち、鎖骨を折って入院されているので、お世話のために翌日6日に日本に一時帰国されるという慌ただしいはずであった午後にバーラッハハウスに来られたのだ。どんなにお父様のことが心配であったかが伺えた。

 M姉のお父様の目の病気は網膜色素変性症(RP)という病名で、実は、私の母も同じ病気で40代から視力が衰え今は全く見えない。また、半田こずえさんの夫の治さんが数年前同じ病気であることが判明。精密検査を受け治療法を訊ねるためにアメリカの病院まで訪ねたが、現在の医学では決定的な治療法がないということで、視力の減退を前提とした仕事と生活に切り替えつつある。治さんは、こずえさんとはICUの同期生で、在学中は化学を専修した私の教え子でもる。2人の結婚式の時には、その人生の決断に敬意を覚え、その後も親しくお付き合いをしていたが、こんな運命が待っているとは当時全く予想もしなかった。このような背景をもった者がハンブルクのバーラッハハウスで出会うことになった事は私には偶然とは思えない。主がそのような場を備えられたと、私は受け止めている。

 今度の出会いでそれぞれが勇気を与えられた。主に心から感謝したい。

 

まとめ

 なぜそのこのような恵みに与ることがゆるされたのかを今信仰の目で振り返っている。

 今は、まずすべてを主に感謝したい。私どもの1年間は主から与えられた「恵みの時」であったと信じるからだ。私がこの1年間で分かったことは、私どもは常に主の大きな恵みの御手に捉えられているという“信仰の事実”だ。主の前に出て静かに自分に立ち返る時、その事実が分かる。私の場合、日常と異なる環境に置かれ、やっとそれが分かった(何と心の鈍い者よ、不信仰な者よと言われても仕方ない)。ドイツに行く前の私は、忙しい日常/仕事をこなすことに懸命で、心を澄まして主の前で自分を見る余裕がなかったと反省している。この1年間は心の鈍い私のための主の特別な計らいであったのではないかと思っている。礼拝、祈りの中で主と共に歩んでおられる皆さんには、外国まで行かなくとも主の大きな恵みに与っているという信仰の事実を再確認して頂きたい。

 

 今朝私がお話したかったことは、ドイツでの楽しかった体験(「夢のような時」)ではなく、そこでも主が恵みの御手に捉え、実際の生活、体験を通して主が生きていること、守っていて下さったという「主の恵みの御業」の証です。主に栄光。

私は、与えられた恵みに対して「我、何をもちて、これに応えん」(讃100番)と今祈らされている。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む