【主日礼拝メッセージ】                           2001年10月21日

「天国の入り口で」

マタイによる福音書19章16-30節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 主イエスは「一切を捨ててわたしに従いなさい」という言葉を背にして金持ちの青年が悲しげに去って行く後ろ姿を見ながら「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。それを聞いた弟子ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言いました。ここには明らかにあの金持ちの青年に対する優越感のようなものを感じます。金持ちの青年の言動も気になりますが、この弟子の言動も気になります。ペトロの言葉には、自分たちは間違いなく天国に行ける。だから天国でご褒美を頂けるのは当然のことだという響きが伝わってきます。しかし主イエスは弟子であるから自動的に天国に入れるなどと一言も仰ってはいません。むしろ「わたしの名のために、あなたにとって最も大事なものさえも捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた主イエスの御言を忘れてはなりません。

 ペトロにとって主の弟子としての生活は自分のためという響きがします。いや私たちの信仰生活の本音はこれです。だから自分に得にならない奉仕はしたくないし、熱心にもなれないのです。礼拝、祈祷会に行くのも面倒なのです。皆自分のためだからです。しかし主イエスは言われます。「あなた自身のためではなく、わたしの名のためにそれをして欲しい。そうすれば、天国で十二の座の一つを約束してあげよう。そうでないと、先に救われたとか、クリスチャンになったとか言っている隙(すき)に、あなたの後(あと)から救われた人が先にその権利を受けて、あなたは失格するかも知れないから」と仰っています。

 私たちは今天国の入り口に立っています。誰にでもそこから先へ進む道が開かれています。また誰にでもそこから引き返す権利も残されています。あなたに主なる神の祝福がありますように。

 

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「天国の入り口で」

マタイによる福音書19章16-30節

 

 昔も今も実に多くの人が教会の門を一時的にくぐってはまた去って行きます。今年に入ってからでもこの教会の礼拝に初めて出席された未信者の数は少なくありません。しかし殆どが続きません。その理由は色々考えられます。受付の応対が悪かった。礼拝の後の報告が長すぎる。教会全体に何となく冷たい雰囲気を感じる。或いはもっと決定的な理由としては説教が詰まらなかったからかも知れません。もしそうなら教会として反省しなければなりません。しかし今日の聖書のような人の場合はその人自身の問題です。この物語は弟子たちの間によほど強烈な印象を与えたと見えて、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも紹介されています。三つとも大体同じように前半に一人の若者とイエスさまの出会い、後半に弟子たちの反応という順序で書かれています。前半部分はすでに今年の8月17日の礼拝で長谷川毬子姉がこの講壇からメッセ−ジを取り次いで下さっていますので、そのメッセ−ジの邪魔にならないように出来るだけ重複を避けて、特に後半部分に重点を置きながら、この物語全体をご一緒に考えたいと思います。マタイ、マルコ、ルカの三福音書を比較対照しながら読むと、それぞれ特徴があってなかなか面白いものです。同じイエスさまの教えを聴きながら、聴く側でアクセントの置き方が違います。同じようにこの礼拝で私が取り次ぐメッセ−ジを聴く皆さんも、この後ファミリー分級で語り合ってみると、それぞれの聞き方があることが分かるでしょう。

 さて、今日の聖書テキストに登場する人物のような人を求道者と言いますが、共通している点は大変なお金持ちで、しかも旧約聖書の教えを子どもの頃から忠実に実践してきた実に真面目な人であったと言うことです。第一の特徴はマタイに登場する求道者は沢山の財産を持っている青年です。マルコはお金持ちであることは分かりますが、年齢は分かりません。ルカによると確かに年齢は分かりませんが、大変な金持ちで、しかも議員さんであったと言うことです。

 第二の特徴はマタイでは求道者の方から「まだ何か欠けているでしょうか」と尋ね、それに対してイエスさまは「もし完全になりたいのなら」と応じていますが、マルコもルカも「あなたに欠けているものが一つある」と、イエスさまの方から指摘されています。

 第三の特徴は、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われたとき、マタイとマルコによると、彼は「悲しみながら立ち去った」そうですが、ルカでは非常に悲しみながらも「立ち去った」とは書いていません。あたかもまだそこに立ちつくしているかのようです。特にルカによる福音書を読んでいると、いつの間にか読者自身が「あなたはイエスさまに従うのか、従わないのか。どうするつもりだ」と問われているようです。

 さて、今日はその後半部分としてこの求道者を巡ってイエスさまの感想を文字通りに読むと、金持ちは天国に入り難いが、貧しい人は入り安いと言うことになります。現実は必ずしもそうとは言えません。私の知る限りでも大変裕福な人が一切を捨ててイエスさまに従い、牧師、伝道者になった人の例を幾人か見ます。例えば私がかつて牧会していた丸亀城東町キリスト教会の起源はマーサー宣教師が開拓を始めた頃、一軒のお宅が自分の家をそっくり集会場にと家毎献げたことから始まります。そしてその家の息子さんは後に牧師として献身しました。関東プレインズバプテスト教会から福生バプテスト伝道所を開拓した当初、そこで牧会しておられた高橋恒雄牧師がその人です。

 背中に入れ墨を残しながら暴力団から救われてクリスチャン、また牧師、伝道者になった人々の映画が最近話題になっていますが、その昔「花と龍」という映画にもなり、全国の人にその名を知られた主人公吉田磯吉さんは北九州一体を席巻していた暴力団の大親分でした。その跡を継いだ子どもの吉田敬太郎さんは刑務所の中で聖書に出会い、イエス・キリストに救われてすっかり生まれ変わりました。後に市民から推されて若松市長に選ばれましたが、その後全てを捨てて献身し、天に召されるまで牧師として働きました。勿論貧しい中にありながら、その生活はあくまで清潔で、イエス・キリストの救いに与り、クリスチャンとして信仰を全うした人、牧師、伝道者として生涯を献げた人の数もまた枚挙にいとまがありません。

 主イエスが「金持ちが天国にはいるのは難しい」と言われた真意は、金持ちはなまじ頼る者が多くありすぎて、例え真面目な求道者であっても、信仰を二の次、三の次にしやすいから難しい」と言われたのです。確かに難しいでしょう。しかし不可能だと仰ったのではありません。もしここに大変なお金持ちがいらっしゃったら、これは私のことを言っていると腹を立てないで、イエスさまの御言の意味を良く考えて、今すぐにイエス・キリストの救いを受け入れて信仰生活を始てください。

 

 もう一つ大切なこととして、今日の聖書テキストに付いているタイトルに私は少々疑問を感じています。この段落の物語の中心は果たして金持ちの求道者にあるのかと言うことです。むしろイエスさまの教えを受けた弟子たちの反応にこそ注目しなければなりません。

 「すると、ペトロがイェスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』」

 このペトロの言葉を読んで皆さんはどう思われますか。ここには明らかにあの金持ちの青年議員に対する優越感のようなものを感じられてなりません。金持ちの優柔不断な言動も気になりますが、主イェスにとってこの弟子の言動はもっと気になったのではないでしょうか。

 私はこの教会に来て間もなく4年になりますが、バプテスマを施したのはまだ1人ですが、葬儀の司式は既に5人になります。教会員が3人、未信者が2人です。私は彼らの葬儀をしながら思いました。クリスチャンは勿論信仰を頂いているのですから、天国に導き入れられるでしょう。しかし、この世にあって求道しながら信仰の決心を言い表すに至らなかった人はどうなるのだろうかと言うことです。彼らは地獄に落ちたのでしょうか。天国に入れられたのでしょうか。神ならぬ身の私たちはそのようなことを軽々に決定してはなりません。それは全てをご承知の天の父なる神さまだけがお決めになることです。私たちには全ての人を丁重に葬ることだけが求められているのです。全ての主である神に全てを委ねて謙らなければなりません。

 ペトロの言葉には、自分たちは間違いなく天国に行ける。だから天国でご褒美を頂けるのは当然だという響きが伝わってきますが、主イエスは、弟子であるから自動的に天国を約束するなどと一言も仰ってはいません。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた主イエスの御言を忘れてはなりません。ペトロの言葉には信仰も献身も、伝道も教会奉仕も皆自分の為という響きがします。いや私たちの信仰生活、教会奉仕の本音はこれです。だから自分に得にならない奉仕は余りしたくないし、熱心にもなれないのです。礼拝も本当は休みたいし、祈祷会に行くのも面倒なのです。皆自分の為だからです。自分の為という前提で、例え持っている物を売り払って貧しい人々に施したとして、それさえも自己満足に陥る誘惑を払拭することは困難です。しかし主イエスは言われます。「あなた自身のためではなく、わたしの名のために捨てるべきものを捨てて欲しい、わたしの名のために信仰生活を継続して欲しい。教会やこの世での奉仕をして欲しい。そうすれば、天国で十二の座の一つを約束してあげよう。そうでないと、先に救われたとか、クリスチャンになったとか言っている隙(すき)に、あなたの後(あと)から救われた人が先にその権利を受けて、あなたは失格するかも知れないから」と仰っています。今、私たちは天国の入り口に立っています。誰にでもそこから先への道が開かれています。同時に誰にでもそこから引き返す権利が残されています。あなたに主なる神の祝福がありますように。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

今朝のみ言葉を感謝します。1人のお金持ちの青年求道者が天国の入り口に立っていました。そこから先どうしたのかと気になります。しかし主イェスは言われます。「彼は彼自身が決断しなければならない。今、わたしはあなたに問う。あなたはどうするのか」と。そうでした。決断を迫られているのは私たち自身でした。

また主イエスは言われます。「わたしの名のために教会生活をしているのか、自分の為なのか」と。勿論あなたのためですと言える言葉をお与え下さい。私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

 


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