【主日礼拝メッセージ】                           2001年11月11日

「子どもたちを妨げるな」

マタイによる福音書19章13-15

メッセージ:高橋淑郎牧師

【主日礼拝子どもメッセ−ジ】                                 

 イエスさまが一番お喜びになる人はどう言う人かというと、子どものような心で神さまを信じることの出来る人だそうです。所で子どもたちに聞きたいことがあります。あなたがたは夢を見ることがありますか。それは楽しい夢でしたか。

 ある人が夢を見ました。天使に連れられて天の神さまの御国に行くことの出来た夢です。そこには大理石のように真っ白なものが置かれていました。その人は何だろうと思いました。墓石のようにも見えます。でも、天の御国にお墓など要りません。そう言えば、それには何にも書いてありません。「この石は何ですか?」とその人は聞きました。すると天使は「今に分かります。もう少ししたらこの石に何かが映って見えてきます。よく見ていなさい」というのです。

 暫くすると下の方から何か声が聞こえてきます。それは地上の教会で、お家で、公園で、会社で、刑務所で、病院で、老人ホームで、学校で、保育園で、幼稚園で色々なところから聞こえてくるお祈りの声です。とても美しい言葉で祈っている声が聞こえてきます。大きな声で祈っている声も聞こえてきます。中には机を叩き、涙を流しながら祈っている人たちの声も聞こえてきます。その人は石をじっと見ていましたが、何も変わったことはありません。相変わらず真っ白なままです。所が色々な声に混じって、それこそ小さな小さな声が聞こえてきました。天から覗いてみると、それはまだ小学生くらいの子どもの声です。するとどうでしょう。今まで何の変化も見られなかったその石に祈っている子どもの言葉が映し出されて来るではありませんか。それは神さまを心から愛する言葉、神さまだけを頼りにしている心を表している言葉です。

天使は静かに言いました。「地上では色々な人々が色々なお祈りを捧げているけれども、どれもこれも心からのものではないので、天には届かないのです。でも、あの小さな子どものお祈りはとても素直に、真心から祈っているので、すぐに天に届いたのですよ」と、そこまで聞いたところで、その人は夢から覚めました。

 

【主日礼拝メッセ−ジ要約】                  

今日は「子ども祝福礼拝」の日であります。主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と言われました。この「子どもたち」という「たち」はもちろん数の上での「たち」ですが、もう一つは色々な年齢の子どもがいたと言うことを想像させる複数形です。それでは子どもとは何歳までを指すのでしょうか。カトリックの学者ダニエル・ロブスが書いた「イエス時代の日常生活」の中には「子ども」とか、「幼子」と呼ばれる上限は12歳です。つまりイスラエルでは13歳をもって成人式を祝うのです。母親に連れられてイエスの下に来た子どもたちというのはそれぐらい幅のある年頃であったと想像できます。だからマルコによる福音書では「イエスは子どもたちを抱き上げた」とありますが(マルコ10:16)、マタイではそのように書いていません。イスラエルでは10歳を越えると、抱き上げると言うことは通常しないからです。ある子どもたちは抱き上げて手を置き、ある子どもたちはそのままに手をおいて祝福されたのでしょう。

子どもというものは色々な点で未熟です。でも学ぶところも沢山あります。子どもたちの一番の特徴は親の中に全世界を見ること。また飾らず、建前に拘らず、あるがままの自分を出し切ることが出来るという点です。そのような心で私たちも私たちの造り主である神を通して全世界を見、み言葉に学び、キリストに倣うなら、私たちは天の国に入れるのです。そのようなことは私たちの力や頑張りでは出来ないでしょう。しかし神は全能です。全能である神なら私たちの心を清めることが出来るのです。私たちもあるがままの自分を飾らず、建前に拘らず主イエスの下に近づいて行きましょう。そしてだれはばかることなく、主御自身の御手から祝福を頂けるよう願いましょう。全てはそこから始まるのです。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「子どもたちを妨げるな」

マタイによる福音書19章13-15

 

 今日は「子ども祝福礼拝」の日であります。昨年の今頃にも申し上げたことですが、これは世間で祝われている七五三に張り合っての行事では決してありません。勿論旧約聖書には子どもを祝福する礼拝を見ることは出来ません。せいぜい生後八日目の男児に施す割礼とイスラエル人が代々受け継いでいる成人式くらいのものです。この成人式も旧約聖書にその裏付けを見ることは出来ません。後の世の聖書学者、つまりラビが考え出した行事です。では子ども祝福礼拝はいつから始まったかといますと、イエス・キリストに由来します。この子ども祝福礼拝が季節の上でいつ頃であったか分かりません。ですからもし今日の教会がこの時期に祝福礼拝を捧げることが七五三と紛らわしいと言うのであれば、神社から教会へと子どもたちを奪い返そうとしていると誤解されることを恐れるのであれば、季節をずらしても良いのです。でもただそれだけの理由であるとすれば、どうしてわざわざずらす必要があるのかと思います。私たちは主イエス・キリストの模範に倣うのに11月の今頃を選んだのであれば、誤解を恐れず、確信を持って継続して行けばよいのです。

 さて、主イエスが幼子を祝福して下さったこの記事を見ると、幼子を大切にすることの大切さを学ぶことが出来ます。実際世の中はイエス・キリストが教えたようには子どもを本当に愛していると言えるでしょうか。もちろん多くの場合子どもは家の宝であり、家を引き継ぐ貴重な人材です。しかし、時に子どもは社会の犠牲にされていました。極端な例としては紀元前9世紀、北イスラエルのサマリヤがアラム軍に包囲され、兵糧攻めにあったとき、二人の母親が1人の子どもを食べるというおぞましい事件が列王記下6:28−に書き記されています。あるいはイザヤ書49:15に「たとえ、女たちが(子どもを)忘れようとも」という箇所の「忘れる」は「捨てる」という意味があると言うことです。実際に捨て子の事例がなければこのような例え方をしなかったのです。いつの時代も子どもは大人社会の犠牲にされることが多いと言うことです。主イエスが子どもを祝福されたのにはそのような大人社会への警鐘でもあるのです。子どもは大人社会の都合の良い道具ではないのです。今日でもこの警告は生きています。子どもが神に祝福されるのを妨げる権利は誰にもないのです。

 主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と言われました。この「子どもたち」という「たち」は勿論数の上での「たち」ですが、もう一つは色々な年齢の子どもがいたと言うことを想像させる複数形です。それでは子どもとは何歳までを指すのでしょうか。カトリックの学者ダニエル・ロブスが書いた「イエス時代の日常生活」の中には「子ども」とか、「幼子」と呼ばれる上限は12歳です。つまりイスラエルでは13歳をもって成人式を祝うのです。母親に連れられてイエスの下に来た子どもたちというのはそれぐらい幅のある年頃であったと想像できます。だからマルコによる福音書では「イエスは子どもたちを抱き上げた」とありますが(マルコ10:16)、マタイではそのように書いていません。イスラエルでは10歳を越えると、抱き上げると言うことは通常しないからです。ある子どもたちは抱き上げて手を置き、ある子どもたちはそのままに手をおいて祝福されたのではないでしょうか。

 

 今一つ学ぶことがあります。弟子たちの中には人の親もいます。我が子の頭に手を置いて祝福して欲しいと願う親の気持ちを理解できないほど鈍感な人たちとは思えません。外の時なら彼らもニコニコ笑いながら祝福が祝福される様子を眺めていたに違いありません。19:1−12までの記事を思い出して下さい。夫婦の離縁が許されるのか、許されるとしたらどう言ったケースかと大変緊張したやりとりが主イエスと律法学者の間でなされていた最中に、その緊張を破るように親子が割り込んできたからです。礼拝の最中に子どもが牧師のメッセ−ジに割り込んで突拍子もない質問をしてくるような感じでしょうか。大抵の大人はそう言う子どもたちに「し−っ!」と叱ることと思います。でも、叱らないでください。その突拍子もないと思われる質問が意外とその礼拝のポイントを付いていることもあるのですから。状況を把握できる弟子たちと、まるっきり理解できていない親子の間に新たな緊張した関係が生まれようとしたとき、主イエスは親子の側に身を置いて、その要求に応えて下さいました。いや、この親子の登場こそ律法学者の夫婦関係についての的はずれな理解に一石を投じることになったのです。離婚の権利が男だけに認められていた時代の真っ直中に、離婚の口実を探している男たちにいたいけな子どもたちの姿を見せることによって、どうすれば離婚できるかと考える同じ頭で、どうすればもう一度夫婦関係を回復できるかと考えさせることになったとは言えないでしょうか。

 子どもというものは色々な点で未熟です。でも学ぶところも沢山あります。子どもたちの一番の特徴は親の中に全世界を見ること。また飾らず、建前に拘らず、あるがままの自分を出し切ることが出来るという点です。そのような心で私たちも私たちの造り主である神を通して全世界を見、み言葉に学び、キリストに倣うなら、私たちは天の国に入れるのです。そのようなことは私たちの力や頑張りでは出来ないでしょう。しかし神は全能です。全能である神なら私たちの心を清めることが出来るのです。私たちもあるがままの自分を飾らず、建前に拘らず主イエスの下に近づいて行きましょう。そしてだれはばかることなく、主御自身の御手から祝福を頂けるよう願いましょう。全てはそこから始まるのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

「子どもたちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」とあなたは言われました。あなたに近づく道はただ一つ、幼子のように素直にあるがままの自分を差し出すことであることを今私たちは知りました。自分の弱さも、罪深さも、駄目さも何もかもあなたが一番よく知っておられることを知りました。その駄目な私たちを受け入れて下さるのもあなたであることを今知りました。私たちも今この幼子に倣ってあるがままの自分をあなたに差し出します。どうか私たちの罪を赦し、私たちを清めてあなたの御国に引き上げて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。

アーメン。


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