【主日礼拝メッセージ】                            2001年11月25日

「目を開けてください」

マタイによる福音書20章29-34節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【主日礼拝メッセ−ジ要約】                  

「何をしてほしいのか」と主イエスは尋ねておられます。目を閉じて祈ると確かに何も見えません。かと言って目を開けて祈ると色々な物が目に飛び込んできて気が散ります。やはり目を閉じた方が祈りに集中できます。でももっと集中できる方法は、どうせ神は私の何もかもお見通しだから祈っても仕方ないと投げやりな気持ちになるのではなく、目を閉じて何も見えなくなったとき、今日の聖書の情景を思い浮かべて、私たちの頭上から「何をしてほしいのか」と優しく御声をかけて下さる主イエスを思い浮かべてみてはどうでしょう。そうすれば主イエスの問いかけは私たちを神との対話へと導いて下さる恵みの問いかけなのだと言うことが分かってきます。

 二人の盲人は主イエスの問いかけに対して率直に応じました。「主よ、目を開けていただきたいのです」と。すると、主は深く憐れんで下さいました。この「憐れみ」という言葉も深くて豊かな意味を持つ単語です。これを名詞として読むと「内臓」という意味です。ギリシャ人はこの内臓こそ、人間の感情の座と考えましたから、福音書記者は主の御心をこのようなギリシャ語の単語で書き記したのです。つまり主イエスの盲人に対する御心は御自身の腑(はらわた)が切り刻まれるほどの痛みとなったのです。これを別の言い方に置き換えるなら、それほどの「深い慈しみ」の籠もった反応を示されたと言うことです。

 片方は神以外に頼るべき何も持たない悲痛な叫びを挙げ、主イエスの方はと言うと、この盲人たちを深い痛みと共に、全身全霊を以て受けとめ、そして必要に応えて下さいました。

 あなたはこの盲人のような祈りを捧げたことがあるでしょうか。祈らなくても神はご存知だ等と言っている間はまだこの世的に余裕のある人です。なりふり構わず祈った経験のない人の言葉です。神が御自身の全身全霊を以て恵みを下してくださったという経験を持たない人の言葉です。そのような人は神の深い御業が見えていない人と言わざる得ません。祈りましょう。「主イエスよ、目を開けていただきたいのです」と。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「目を開けてください」

マタイによる福音書20章29-34節

 

 人生には八方塞がりの時があります。努力してもしても、浮かぶ瀬のない泥沼を経験することがあります。旧約聖書の中にもどん底から這い上がる力もなく、悲鳴を上げている人を見かけます。義人ヨブがその一人です。ヨブ記は「正しい人がどうして苦しむのか」という謎の解決に迫る物語です。詩編73編の作者もまた同じ経験をした一人です。みなさんがそこを読むと、「そうだそうだ、私にも覚えがある」と共感する部分がたくさんあることでしょう。しかしそこで終わってしまったのでは本当の解決にはなりません。

 今日の聖書に登場する盲人のように、「主よ、わたしたちを憐れんでください!」と叫ぶことが大事です。ここを原語のギリシャ語で読むと、「キュリエ、エレエーゾン ヘーマース」と言うのだそうです。これがラテン語になると、「kyrie eleison」となり、ローマ・カトリック教会や聖公会の祈祷文に採用され、唱和されています。またグレゴリア聖歌でもミサ曲として詠唱されています。何故この「主よ、憐れみ給え」という言葉がこのように愛されるようになったかと申しますと、それはギリシャ語の持つ意味の豊かさの故です。「主よ、憐れみ給え」とはこの世で最低の状況にある人のためにある言葉です。この地上で一切の望みを絶たれてしまった人が最後の最後に神にすがりつく必死の叫びだからです。この世にまだ一縷の望みを抱く余裕のある人の口からは決して聞こえてこない、はらわたから絞り出すような叫びの言葉なのです。

 少し話の筋に従って読んでみましょう。二人が道端に座っていたのは、彼らが盲人であるばかりでなく、物乞いをしなければならないホームレスであったからだと、ルカ18:35−は説明しています。二人は初め主イエスが彼らの住むエリコの町に入ってこられたことを知りませんでした。周りの物音にただならぬものを感じたものですから、通りがかりの人にこのざわめきは何かと聞きました。「ナザレのイエスのお通りだ」とその人は教えてくれました。すると、彼らは反射的に「憐れんでください」を連呼して叫び始めました。しかも、彼らの口から上ったイエスに対する呼びかけは「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」なのです。これはとても大事なことなのです。聖書によると、「ダビデの子」という場合、それは神の御子、救い主、キリストという意味です。彼らは世間の人々からは救いに遠い者と思われていましたが、彼らの内面は実にその信仰によって神に最も近い者とされていたと言うことなのです。だから彼らはほかの誰がうるさがろうが、行く手を塞がれようが、お構いなしに益々声を大にして叫び続けました。社会的にも経済的にも全く取り残されてどん底の二人が実に熱心に主を呼び求めました。声の限りに呼び求めました。すると主イエスはその叫びに応えて下さったのです。彼らに対して「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。イエスは神の子ではありませんか。福音書のところどころに主イエスは人の心の思いを見抜くことのできる方だと記録されています。なのにこの問いかけは何としたことでしょう。実はこの問いかけこそが、このお話のポイントの一つです。確かにイエス・キリストは神のお子ですから、この二人が何を求めているかを既にご存知であったことでしょう。しかし、それを先取りして行動に移されなかった主イエスの深い御心を私たちは私たちの心に留めなければなりません。

 クリスチャンの中にも「神は何でもご存知だから今更祈らなくても時が来れば必要を満たして下さるに違いない」と確信を持って祈らない人がいます。でも、それは間違いです。主イエスは敢えて私たちに「何をしてほしいのか」と問いかける方です。それは自分の口で何が必要かを祈り求めるようにと願っておられるからです。祈りとは神との対話なのです。私たちがどれほど助けを必要としているかを神に訴えるのを待っておられるのです。

 私は毎週のメッセ−ジ原稿を全文パソコンに打ち込みます。無機質な画面に向かってメッセ−ジ原稿をタイプすることは正直疲れます。しかし、この画面の向こうに皆さんの顔を思い浮かべるとき、その疲れは吹っ飛ぶのです。昔関西で幾人かの牧師と協力してラジオ伝道をしたことがあります。諸教会から寄せられる献金が放送局に支払う電波料に追いつかなくなったので、中断せざるをえませんでしたが、それはともかく月に一度放送局に行き、女性アナウンサーの協力を得ながらマイクに向かって聖書の話をするわけですが、最初の内なかなか教会でメッセ−ジを取り次ぐようなわけには行きません。ところがアナウンサーはさすがにプロです。淀みなく聖書を読み、私の話に巧みな応答をしてくれます。私は彼女に尋ねました。「どうしたらあなたのようにスムースに話せるようになるのですか」と。彼女は「先生、私はこのマイクロフォンをただの器械とは思っていません。このマイクロフォンに開けられている無数の孔こそラジオを聴いていらっしゃる無数の人々と思って色々なお顔を想像して話しかけているのですよ。雨の日は『よく降るなあ』と呟くおじいちゃまのお顔が一つの孔に浮かんできます。寒い冬には毛布にくるまって寒さと戦いながら勉強している受験生のお顔が浮かびます。するとその人たちに向かって何か語りかけたくなるんですのよ」と教えてくれました。私は成る程と感心しました。そして今それを実践しています。パソコンに向かってメッセ−ジ原稿を書くのではなく、そのパソコンの向こうにおられるあなたがたのお顔が浮かんできます。

 祈りもそうではないでしょうか。目を閉じて祈ると確かに何も見えません。かと言って目を開けて祈ると色々な物が目に飛び込んできて気が散ります。やはり目を閉じた方が祈りに集中できます。でももっと集中できる方法は、どうせ神は私の何もかもお見通しだから祈っても仕方ないと投げやりな気持ちになるのではなく、目を閉じて何も見えなくなったとき、今日の聖書の情景を思い浮かべて、私たちの頭上から「何をして欲しいのか」と優しく御声をかけて下さる主イエスを思い浮かべてみてはどうでしょう。そうすると、どん底から這い上がる力もなく、「主よ、憐れみ給え」と祈る神の人の、あの顔、この顔が浮かんでこないでしょうか。そうすれば主イエスの問いかけは意地悪い質問ではなく、私たちを神との対話へと導いて下さる恵みの問いかけなのだと言うことが分かってきます。

 二人の盲人は主イエスの問いかけに対して率直に応じました。「主よ、目を開けていただきたいのです」と。すると、主は深く憐れんで下さいました。この「憐れみ」という言葉も深くて豊かな意味を持つ単語です。これを名詞として読むと心臓、肺臓、肝臓、腎臓、腸などを表す、所謂「内臓」という意味です。ギリシャ人はこの内臓こそ、人間の感情の座と考えましたから、福音書記者は主の御心をこのようなギリシャ語の単語で書き記したのです。つまり主イエスの盲人に対する御心は御自身の腑(はらわた)が切り刻まれるほどの痛みとなったのです。これを別の言い方に置き換えるなら、それほどの「深い慈しみ」の籠もった反応を示されたと言うことです。

 片方は神以外に頼るべき何も持たない悲痛な叫びを挙げ、主イエスの方はと言うと、この盲人たちを深い痛みと共に、全身全霊を以て受けとめ、そして必要に応えて下さいました。

 あなたはこの盲人のような祈りを捧げたことがあるでしょうか。祈らなくても神はご存知だ等と言っている間はまだこの世的に余裕のある人です。なりふり構わず祈った経験のない人の言葉です。主イエスが御自身の全身全霊を以て恵みを下してくださったという経験を持たない人の言葉です。そのような人は神の深い御業が見えていない人と言わざる得ません。祈りましょう。「主よ、目を開けていただきたいのです」と。

 

 最後にもう一つ興味深い福音書相互の特長を学ぶことで、私たちは更に新鮮な驚きを経験することができます。マルコとルカには、盲人は一人しかいないことになっていますが、マタイは二人いたと証言しています。もう一つ興味深いのは、マルコだけがその内の一人の名前を知っています。ティマイの子バルティマイと言うのだそうです。マルコによる福音書の最初の読者たちはこの名の人を良く知っていたと言うことができるでしょう。しかし残念ながらもう一人の名前はさっぱり分かりません。そこで私はこう考えます。この無名のもう一人こそ私たち自身に置き換えてみてはどうかと言うことです。私たちは今こそ「ダビデの子イエスよ、わたしたちを憐れんでください」と、なりふり構わず祈るべきではないでしょうか。主は純粋に、そして熱心に祈る者に恵みを施して下さることを信じましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝の礼拝を感謝します。私たちは確かに見るべき者が見えていませんでした。しかしあなたはこんな私たちですが、この礼拝へと呼び集めて、「何をしてほしいのか」と御声をかけて下さいます。私たちは率直にあなたに申し上げなければなりません。あなたこそダビデの子イエスであられることを。あなたこそ全能の聖き神の御子、救い主であられます。

主よ、今こそバルティマイと共にいたもう一人の人としてあなたに従って参ります。そしてあなたにして欲しいことを求めさせて下さい。先ず私たちの罪を清め、あなたの十字架の恵みによって赦して下さい。この世に縋るのではなく、あなたにこそすがりつつ、あなたの道をひたすら歩く者とならせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


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