【待降節第一礼拝メッセ−ジ要約】                             2001年12月2日

「命 の 言」

ヨハネによる福音書1章1−5節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 教会カレンダーで言うと、今日からクリスマス・アドベントに入ります。アドベントとは「待望」という意味です。何を待ち望むのか、誰を待ち望むのか、勿論イエス・キリストのお生まれを待ち望むことであり、イエス・キリストのお生まれをお祝いするクリスマスの日を待ち望むことなのです。私たちは今日からクリスマスの意味を噛みしめて1日1日をみ言葉に導かれながら過ごしたいものです。

 神は初めに人間を男と女とに造り、エデンの園に住まわせました。そこには「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えていました。彼らはそれを自由に食べて良いのです。「また園の中央には、命の木と善悪の知識の木」も生えていました。神は善悪を知識の木の実についてだけ「決して食べてはならない。これを食べると必ず死ぬ」と厳しくお命じになりました。つまり命の木については他の木と同じようにその実をとって食べて良かったのです。しかしアダムとエバは他の木ではなく、よりにもよって禁じられたたった1本の木の実に興味を持ち、その魅力に負けて手を伸ばし、食べてしまいました。「駄目だよ!」と言われたら、余計に見たくなる。触りたくなる、食べたくなると言う悪い性質はアダムとエバに由来していることが分かります。そこで神は彼らをエデンの園から追放し、命の木に至る道を塞いでしまわれました。

 それから後も人は命をすり減らすように、ひたすら知識を追い求めるようになってしまいました。人間の頭脳がもたらした最高の科学技術は、しかしながら時として多くの命を犠牲にしてしまうことがあります。命の木よりも善悪の木の実に飛びついた人間の、これが末裔です。しかし神はこの終わりの時に、聖書(神の御言)の中心であるイエス・キリストをこの罪深い世界に遣わし、善悪の知識の木ではなく、命の木とその実を与えるために来て下さいました。これがクリスマスの本当の意味です。命の木の実、命の言であるキリストを私たちの心の内にお迎えする備えをしましょう。

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【待降節第一礼拝メッセ−ジ・本文】      

「命 の 言」

ヨハネによる福音書1章1−5節

 

 私たち仙川キリスト教会がこの中原の地に伝道を始めたのは1962年12月1日のことです。今日で満39年です。イスラエルの民がエジプトを出て荒野を旅した40年とほぼ同じです。今やこの町に人が溢れています。内にあって、神がこの教会を40年守り続けて下さったことを心に留めて深く感謝したいと思います。しかし外に目を向けるとき、私たちの責任は極めて重いものを感じます。

 教会カレンダーで言うと、今日からクリスマス・アドベントに入ります。アドベントとは「待望」という意味です。何を待ち望むのか、誰を待ち望むのか、勿論イエス・キリストのお生まれを待ち望むことであり、イエス・キリストのお生まれをお祝いするクリスマスの日を待ち望むことなのです。私たちは今日からクリスマスの意味を噛みしめて1日1日をみ言葉に導かれながら過ごしたいものです。

 

 私はここに1枚のプリントを持っています。これはドイツ生まれでロンドン伝道協会の宣教師としてハワイ、バンコック、中国で伝道したカール・ギュッツラフ(Karl Friedrich August Gutzlaff;1803−1851年)と言う人が翻訳した最初の日本語聖書で、ヨハネによる福音書の一部です。今日の聖書の箇所をこれで読んでみましょう。手元の聖書を目で追いながら聞いていて下さい。

 

「約翰之福音傳」 ヨアン子スノ タヨリ ヨロコビ
一節
ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。
二節
ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。
三節
ヒトワコトゴトク ミナツクル、ヒトツモ シゴトワツクラヌ。ヒトワツクラヌナラバ。
四節
ヒトノナカニイノチアル、コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。
五節
コノヒカリワ クラサニカゝヤク、タゝシワ セカイノクライ ニンゲンワ カンベンシラナンダ。」

 

 ギュッツラフは漂流漁民であった3名の日本人を助けて送還し、できればこれを機会にかねて念願の日本伝道をしたいと、モリソン号で浦賀沖まで来ましたが、幕府は3名の帰国を許さず砲撃して追い返しました。やむなく一旦中国に引き揚げ、マカオで3名の世話をしながら、彼らから日本語を学び、聖書翻訳に努めました。こうして出来上がったのが「約翰之福音傳」と「約翰書翰」(上中下)の4巻です。彼はこれを1837(和暦 天保8)年、シンガポールで刊行しました。164年も昔のことです。お気付きのようにこの訳の聖書では父なる神を「ゴクラク」、言(ことば)を「カシコイモノ」、そして今日は読みませんでしたが、もう少し先には聖霊を「カミ」と呼んでいます。多神教の国に生まれ育った彼ら3名の日本人が初めて聞く「聖なる三位一体の神」をどのように理解したか分かりませんが、その表現には苦心の跡が窺えます。

 

 ギュッツラフ宣教師と3名の日本人漁民の出会いについて興味があるなら、そして4巻の日本語聖書の誕生について知りたいと思われるなら、多少フィクションも入っていますが、三浦綾子の作品「海嶺」上・下巻をお読みになるのが良いと思います。

 

 さて、ヨハネはこのように「言」について書き始め、いつの間にかそれはイエス・キリストであったと分かるような書き方をしています。「言」とはギリシャ語のロゴスから翻訳したものですが、これについての深い学びは別の時にしたいと思います。今は神学的な研究の時ではなく、神のメッセ−ジに聴く時です。旧約聖書の創世記に、初めに神は天と地とその中に住む全てを創造し、最後に神の像(かたち)に似せて人間を男と女とに造り、エデンの園に住まわせました。そこには「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えていました。彼らはそれを自由にとって食べて良いのです。「また園の中央には、命の木と善悪の知識の木」も生えていました。神はこの2本の内、善悪を知識の木の実だけは「決して食べてはならない。これを食べると必ず死ぬ」と厳しくお命じになりました。つまり命の木については他の木と同じようにその実をとって食べて良かったのです。しかしアダムとエバは他の木ではなく、よりにもよって禁じられたたった1本の木の実だけに興味を持ち、魅力に負けて手を伸ばし、食べてしまったのです。「駄目だよ!」と言われたら、余計に見たくなる。触りたくなる、食べたくなると言う悪い性質はアダムとエバに由来していたのです。その結果、神は彼らが命の木に手を伸ばして食べることができないように、エデンの園を追放して命の木に至る道を塞いでしまわれました。

 

 それ以来人は命をすり減らすようにして、ひたすら知識を追い求めるようになりました。神の賜物であり、平和の為に研究開発されるべき科学や化学は戦争や殺戮のために悪用され、その研究が急ピッチで進められるようになりました。最近ニューヨークを初めアメリカ合衆国のいくつかの地方に同時多発テロが起こり、5千人以上の命が失われました。痛ましいことです。二度とあってはならないことです。しかしこのような言い方は不謹慎とお叱りを覚悟で申し上げるなら、あの事件はアメリカ合衆国の広大な領土の限られた面積での出来事でした。しかし今アメリカ合衆国がアフガンで進めている軍事作戦はアフガン全土に及んでいます。ドイツのボンで戦後の政治を担う閣僚ポストの配分について話し合われていますが、アフガン全土に刻み込まれた深い傷跡が完全に癒えるまでにはアメリカ合衆国の大都市ニューヨークの復興に要する何倍もの時間を必要とすることでしょう。

 

 かつてはゆったりと牧草地で育てられていた牛が、今日では少しでも多くの子牛を産み、少しでも早く育てて、少しでも大量に需要できるようにと人工飼料を与える時代になりました。その結果何が起こったかは周知の通りです。この種の研究開発は人間の食生活に極めて危険なリスクを負わせるようになったと言うことです。それだけではありません。医学の進歩を目指し、不治の病をなくするためにと言う名目で、遂にクローン人間を造り出す甚だ倫理性に抵触する段階へと人類は突き進みつつあります。見失った命の木を人間の知識で造り出そうというのです。命の木よりも善悪の知識の木の実に飛びついた人間の、これが末裔です。

 アダムに始まって、人間はこれが幸福に至る道だと錯覚して、ひたすら知識の実を食べ続けていましたが、主イエス・キリストは言われます。「神を畏れ敬うことこそ知恵の初めである」と。キリストこそ命の木の実を与える命の言です。知識の木の実で育てられた私たちの発する言葉は多くの人を傷つけ、時には死に至らせてしまいます。今こそ命の木の実、命の言であるキリストを私たちの心の内にお迎えする備えをしましょう。これこそクリスマスを待ち望む私たちのあるべき姿です。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今日からクリスマス・アドベントに入りました。これはあなたから出たくすしいご計画の一つです。私たちはあなたによって造られた者である事実を忘れて、常にあなたに対して挑戦的な言動を吐いてきました。その結果人の命を羽根よりも軽いものと考えて、殺戮を繰り返しています。あなたはこのような世界を深く悲しみ、これまで多くの預言者を与え、彼らが告げる神さま、あなたのみ言葉の集大成である聖書を世に送り、何とかして幾人かを救うわんものと導いて下さいましたが、この終わりの世には、あなたはあなたの御子イエス・キリストをこの世に与え、十字架から始めて、救いの道、永遠の命に至る道を開いて下さいました。キリストの教会を建て上げて下さいました。この三鷹市中原の地にも39年の歴史を刻み込んでくださいました。あなたはこの教会を通してこの深い御心を教えて下さいます。

 今私たちは2001年のクリスマス・アドベントにあって、クリスマスを待ち望みつつ、あなたの御子を私たちの心の真ん中にお迎えしたいと願っています。主イエスよ、来たりませ。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


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