【待降節第二礼拝メッセ−ジ要約】                             2001年12月9日

「全ての人を照らす光」

ヨハネによる福音書1章6-13節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 ユダヤは歴史的に大国に支配され続けてきました(アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ)。今はローマが彼らの主人として君臨しています。外国の支配を受けて平和でいられるはずがありません。自由もなく貧しい今こそ国民が一致団結相互扶助の精神で暮らして行くことが出来ればよいのですが、現実は理想通りに行きません。支配者ローマにすり寄って自分の立場を有利にしようと模索する領主ヘロデや貴族階級、商人、或いは徴税人が事実上この国を動かしています。逆に現政権を暴力で打倒しようと考える熱心党を初め過激な反政府組織、一方そのような人々の動きを監視しながら、絶えず警戒するローマ当局の厳しい取締で社会は一層混乱し、治安は悪くなるばかりです。では宗教界はどうかというと、貴族出身のサドカイ派は権力側にべったりです。一方庶民の支持は高いと言うものの、ファリサイ派は自己保身に躍起です。無力な人々は持っているものまで取り上げられ、社会の底辺で呻吟するばかりです。全くユダヤ社会全般を濃い暗闇が覆ってしまっています。これがクリスマス前夜のユダヤの状況でした。現代社会と大差ありません。

 その折りもおり、華々しく登場したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネの生活はあくまで清潔です。権力に媚びることもしません。力で国の矛盾を正そうともしません。彼はどこまでも聖書を通して不正を糺し、悪に立ち向かいます。聖書を通して語るメッセ−ジの舌鋒には妥協の余地など全く見られない鋭さと厳しさがあります。彼のメッセ−ジの中心はただ一つ、「悔い改めて神を信じ、救い主を待ち望め」であります。人々は次第に彼に従うようになり、このヨハネこそユダヤをローマの圧制、悪しき為政者ヘロデの軛から解放して明るい社会を取り戻してくれるのではないかと期待に胸を膨らませました。しかしヨハネははっきりと否定して「わたしはメシアではない」と言います。彼は光ではなく、光について証をする者として神に選ばれ、遣わされてきた人なのです。彼が証言する真の光とは何者なのでしょう。イエス・キリストその方です。イエス・キリストこそ全ての人を照らす真の光なのです。聖書が言う「全ての人を照らす光」とは人の魂の奥深くにまで届くイエス・キリストの光なのです。私たちの魂の奥深くまで照らしていただき、悔い改めの道、救いの道へと導いて頂きましょう。

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【待降節第二礼拝メッセ−ジ・本文】      

「全ての人を照らす光」

ヨハネによる福音書1章6-13節

 

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と福音書著者は言います。後半を「やみはこれに勝たなかった」と訳している聖書もあります。どんなに濃い暗闇でも光は一瞬にしてやみの世界を支配してしまいます。暗闇の世界は光にそれほどの力があることを理解していませんから、結局暗闇は光に勝つことができないのです。

 ユダヤは歴史的に大国に支配され続けてきました。最初にアッシリア、次にバビロン、そしてペルシャ、ギリシャ、今はローマが彼らの主人として君臨しています。外国の支配を受けて平和でいられるはずがありません。自由もなく貧しい今こそ国民が一致団結相互扶助の精神で暮らして行くことが出来ればよいのですが、現実は理想通りに行きません。支配者ローマにすり寄って国内での立場を有利にしようと模索する領主ヘロデや貴族階級、或いは徴税人が事実上この国を動かしています。逆にローマは勿論、国内現政権を暴力で打倒しようと考える熱心党を初め過激な反政府組織、一方そのような人々の動きを監視しながら、絶えず警戒するローマ当局の厳しい取締で社会は一層混乱し、治安は悪くなるばかりです。では宗教界はどうかというと、貴族出身のサドカイ派は権力側にべったりです。庶民の支持は高いと言うものの、ファリサイ派は自己保身に躍起です。無力な人々は持っているものまで取り上げられ、社会の底辺で呻吟するばかりです。全くユダヤ社会全般を濃い暗闇が覆ってしまっています。夜は更け日は近づいていました。これがクリスマス前夜のユダヤの状況でした。現代社会と大差ありません。

 しかし彼らユダヤ人には聖書があります。聖書はこの国にメシア(キリスト)、救い主を遣わすと言う約束が明記されています。彼らはひたすら救い主を待ち望んでいました。これが本当のクリスマス・アドベントです。その折りもおり、華々しく登場したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネの生活はあくまで清潔です。権力に媚びることもしません。かと言って力で国の矛盾を正そうともしません。彼はどこまでも聖書を通して不正を糺し、悪に立ち向かいます。聖書を通して語るメッセ−ジの舌鋒には妥協の余地など全く見られない鋭さと厳しさがあります。彼のメッセ−ジの中心はただ一つ、「悔い改めて神を信じ、救い主を待ち望め」であります。人々は次第に彼に従うようになり、このヨハネこそユダヤをローマの圧制、悪しき為政者ヘロデの軛から解放して明るい社会を取り戻してくれるのではないかと期待に胸を膨らませました。しかし1:19以下に長々とその経緯が書き記されているように、ヨハネははっきりと否定して「わたしはメシアではない」と言います。彼は光ではなく、光について証をする者として神に選ばれ、遣わされてきた人なのです。彼が証言する真の光とは何者なのでしょう。イエス・キリストその方です。イエス・キリストこそ全ての人を照らす真の光なのです。

 

 聖書が言う「全ての人を照らす光」とは人の魂の奥深くにまで届く光なのです。この福音書を読み進みますと、一人の不倫の現場を押さえられた人妻の話(ヨハネ8:1−11)があります。主イエスが野外で神の国について教えておられた時のことです。そこへ突如割り込んできた一団がありました。その一団とは律法学者やファリサイ派と呼ばれる宗教家たちです。彼らは集会を邪魔した無礼を詫びるどころか、傲慢にも主イエスに言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。彼らがこのような不躾な質問をしたのはイエスを試して、訴える口実を得るためであったと言うことですが、勿論主はそのような卑劣なテストに乗せられる方ではありません。地面に何か落書きをしながら沈黙しておられました。余りしつこく問い続けるので、主は身を起こして一言、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えて再び地面に何か書き続けました。周りを取り囲む民衆は、どの先生からこの女に石を投げるだろうかと固唾を呑んで見守っていたことでしょう。誰もいません。それどころか、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、残されたのは民衆とイエスとその女性だけです。主イエスは彼女に、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と問いかけます。彼女は言いました。「主よ、だれも」と。主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言って彼女を解き放って下さいました。

 この物語を聴いてあなたはどのような感想をお持ちになりましたか。あの宗教家たちは「あなたたちの中で罪のない者が」と言われたとき、手にしていた石を地面に戻してその場を去って行きました。正直な人々です。彼らは自分の中にある罪を隠さなかったからです。この物語はこの世に罪のない者など一人もいないと言うことを教えています。ではイエスも御自身罪があると認めたから彼女を罪に定めなかったのでしょうか。そうではありません。本当のところ、イエスだけには彼女を罰する資格があるのです。彼は神の独り子だからです。しかし彼女を罰しませんでした。何故でしょう。神は心から罪を悔い、神の前に謙っている者を赦すお方だからです。この物語のすぐ後でイエスは人々に「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と宣言されました。1:9に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあります。この光は私たちの隠された罪の心を照らす光です。そして悔いし砕けた魂をしかと照らし出して下さる恵みと真に満ちた光なのです。

 もう一つ実例をお話ししたいと思います。「親分はイエス様」という映画の中で聞いたお話です。一人の人が暴力団の世界から足を洗ってイエス様という新しい親分の杯を貰ってイエス様の子分になりました。彼はこれまで犯した罪の清算をしたいと、余り木で作った大きな十字架を背負って全国行脚を始めました。ある町に入り、自分が過去にどのような人間であったか、どのようにしてイエス・キリストに出会って救われたかと証をしました。道行く人は誰も聴いてくれません。冷ややかな目で通り過ぎるだけです。彼はしかしめげることなく、その晩民宿に泊まることにしました。民宿の主人も変わり者で、何となく彼に引かれるものを感じたか、翌日彼のお供をしたいと申し出ます。使徒パウロにもこのようにして仲間ができていったのかも知れないなと感銘深くそのシーンを見ていました。幾日かして、更に仲間が増えました。交代で路傍の証が始まりました。その時初めてあの民宿の主人が証の中で過去の罪を告白しました。彼は沖縄の人ですが、第二次大戦の終わり頃、米軍が沖縄に上陸して猛攻を加えました。幼い彼の目の前で両親だったか、片親だったかが敵弾によって死んでしまいました。それ以来彼はアメリカ合衆国そのものを激しく憎むようになり、戦後進駐してきた米兵の一人を闇討ちにして殺してしまいました。当時は親の敵を討てたと密かに喜びを感じていましたが、しかし10年、20年と時の経つ内にそれは次第に罪意識となりました。そのことを彼は町の真ん中で告白しました。相変わらず道行く人は誰も足を止めて聴こうとしません。しかし、十字架を背負う仲間の誰も彼もがいかつい顔に似合わず滂沱の涙を流してこの証に耳を傾けているのです。30年以上も経過し、今更警察に自訴しても罪を問われません。だからこそ彼はずっと苦しんでいたのです。しかし今イエス・キリストに出会って十字架を背負う旅に加えられて初めて主イエスはわたしの罪のために十字架に死んで下さったのであると心から信じて悔い改め、救われたのです。彼の心に積もり積もった罪責の念に恵みと真の光である主イエスが輝いて下さったとき、彼の霊までも解放されました。

 愛する兄弟姉妹、今あなたの心の奥深くに隠された罪、この世の法律で裁かれても軽くなり得ないと思われるような暗闇の部分がないでしょうか。もしあるなら、今その罪を言い表して軽くして貰いましょう。あなたのその暗闇の中にも光の主イエスが輝いて下さいます。悔い改める者には惜しみなく救いと永遠の命を与えて下さいます。

 祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

私たちには暗闇の部分があります。それは誰も気付かないようなもの、ごまかせばごまかし通せるようなものと思っていましたが、今日あなたのみ言葉を聴く内に、この闇の部分をそのままにしておいてはならないことを強く示されました。このような罪意識こそがあなたの恵みの灯であること、救いに至る光であると信じます。主よ、今こそ私たちは古いあなたの罪、この罪を正直に告白します。そして悔い改めます。どうかあなたの十字架の血潮で清めて下さい。新しい命を頂いて新しい第一歩をここから始めさせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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