【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年1月13日

主がお入り用なのです

マタイによる福音書 21章1−5節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 主イエスは弟子たちに命じました。ろばの親子を引いてくる途中で、もし誰かがそれを咎めるなら、「主がお入り用なのです」と言いなさいと。このもし誰かがと言う誰かについてルカによる福音書ではろばの持ち主だと説明しています。持ち主なら自分の大切な財産、また過越祭に献げようとしていた子ろばを何の断りもなく持って行こうとする人を見れば、咎めるのは当然です。しかし主は弟子を通してその人に「主がお入り用なのです」と言わせています。するとその人はすぐに手放しました。それにはこういう意味があります。主イエスは今ろばの持ち主だけでなく、ろばの所に遣わした弟子たちに、そしてこの出来事を読む全ての人々に、イエス・キリストこそ万物の主であり、また聖なる献げ物を受ける神であることを明らかにしておきたかったのです。この世の中にあるものを誰が所有していようと、それら全ては神のものなのだと言うこと、また世にある全てのものを人はどのように用いなければならないかを教えようとしておられるのです。「主がお入り用なのです」という言葉には全ての人を沈黙させる力があります。先週東から来た博士たちが幼子イエスに黄金、乳香、没薬の献げ物をしたことを私たちは学びました。黄金の献げ物にはイエス・キリストこそ世界の王であることが証されていました。乳香の献げ物にはイエス・キリストこそ真の神であることが証されていました。没薬の献げ物にはイエス・キリストこそ王であり、神でありながら、しかし全人類の罪の贖い代として神に献げられ、罪に死に、そして甦って下さると言うことが証されていました。

 「主がお入り用なのです」というメッセ−ジを聴いた時、私たちの信仰が試されます。私たちは本当に彼を王なるキリスト、全能の神、私たちを罪と死と滅びの運命から解放して下さった救主と信じ従っているのか、それとも口先だけの信仰であったのか試されるのです。


【礼拝メッセ−ジ】                            2002年1月13日

主がお入り用なのです

マタイによる福音書 21章1−5節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 マタイ21章から主イエスの地上における生涯最後の段階に入ります。時は過越祭です。この祭りはユダヤ三大祭の一つで、とても大切な祭りです。ユダヤ教の指導者が定めた戒律によるとエルサレム周辺30Hに住む成人男子はこの祭りに参加するようにと定められていましたが、実際には諸外国に散らされていたユダヤ人もこの祭りのために巡礼してきていましたから、エルサレムとその周辺の町々村々は参拝者で溢れています。紀元60年頃ローマの総督が神殿で屠られた羊の数を調べたところ約25万頭であったという調査結果が記録されています。祭りのための定めでは10人1組で羊を献げる事になっていますから、統計通りであるとすれば、過越祭に詣でた人の数は250万人以上であったことになります。仮にこの数をそのまま主イエスの時代に当てはめると、普段のエルサレムはせいぜい人口10万の町でしたから、実に25倍もの人々がエルサレムに集まったことになります。しかも当時数えられるのはユダヤ人の成人男子のみですから、それに女性と子どもたちの数、また異邦人からの改宗者を加えると、膨大な参列者の数になります。イスラエルの人々は過越祭の度に共通する一つの祈りを捧げていました。「過去」に於いてエジプトの奴隷から解放して下さった感謝と、「現在」ローマの圧制から一日も早く解放してくれるメシアの到来と、そして「将来」ヤハウェを認めない異邦人に対する速やかな神の審判です。このように政治的にも宗教的にもユダヤ人の期待が非常に高められている時、主イエスは弟子たちに一つの命令を発せられました。

「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いてきなさい」と。これはイザヤ書62:11、ゼカリヤ書9:9からの引用です。折角ですから読んでみましょう。

「娘シオンに言え。
見よ、あなたの救いが進んで来る。」(イザヤ書62:11 p.1164)
 
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9 p.1489)

 

 この預言が今成就しようとしているのです。主がこの預言に基づいて行動を起こすに当たって必要としておられるのは「まだだれも乗ったことのない子ろば」の方で、親ろばは要らないのですが、例え一時でも親子のろばを引き離すことはしたくないと言う主のご配慮がうかがえます。でもどうして親ろばではなく、まだ人を乗せたことのない子ろばが必要なのでしょうか。それは律法に定められているからです。これも一緒に読んでみたいと思います。

「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れてこさせなさい。」(民数記19:2 p.245)。

労役に使われたことのない雌牛、すなわち軛を負わされたことのない若い雌牛を選び」(申命記21:3 p.313)

 

 このように聖なる目的に用いるための動物は、「まだ一度も軛を負ったことのないもの」でなければなりません。しかし不思議なことに主が今用いられるのは牛ではなくろばの子です。これでは清めの業はできないのではないのでしょうか。主イエスはエルサレムに入城した後、子ろばをまた元の持ち主の手に返されます。ゼカリヤの預言が成就されるために用いるだけでよいからです。ではこの過越祭のために献げるられるべき犠牲の動物はどこにあるのでしょうか。この事については福音書のもう少し後の所で学ぶことになります。

 それにしても主イエスはエルサレムへ入城しようとするときどうして人が大切にして育てている子ろばを取り上げるようなことをなさったのでしょうか。彼は弟子たちに命じました。ろばの親子を引いてくる途中で、もし誰かがそれを咎めるなら、「主がお入り用なのです」と言いなさいと。この「もし誰かが」と言う誰かについてルカははっきりとろばの持ち主だと説明しています。持ち主なら自分の大切な財産、また過越祭に献げようとしていた子ろばを何の断りもなく持って行こうとする人を見れば、咎めるのは当然です。しかし主イエスは弟子を通してその人に「主がお入り用なのです」と言わせると、その人は分かりましたと応じて子ろばを主に献げました。それにはこういう意味があります。主イエスは今ろばの持ち主だけでなく、ろばのもとに遣わした弟子たちに、そしてこの出来事を読む全ての人々に、御自身こそが万物の主であり、また聖なる献げ物を受ける神であることを明らかにしておきたかったのです。この世の中にあるものを誰が所有していようと、それら全ては神のものなのだと言うことを主イエスはここで明言なさったと理解しなければなりません。

 「主がお入り用なのです」という言葉には全ての人を沈黙させる力があります。先週東から来た博士たちが幼子イエスに黄金、乳香、没薬の献げ物をしたことを私たちは学びました。黄金の献げ物にはイエス・キリストこそ世界の王であることが証されていました。乳香の献げ物にはイエス・キリストこそ真の神であることが証されていました。没薬の献げ物にはイエス・キリストこそ王であり、神でありながら、しかし全人類の罪の贖い代として神に献げられ、罪に死に、そして甦って下さると言うことが証されていました。

 私たちの手にしている物が何であれ、もしそれを「主がお入り用である」ことを示されたなら、私たちは直ちにそれを主のご用に用いて頂かなければなりません。確かに私たちは「主がお入り用なのです」というメッセ−ジを聴いた時、私たちの信仰が試されます。その時私たちは本当に彼を王なるキリスト、全能の神、私たちを罪と死と滅びの運命から解放して下さった救主と信じ従っているのか、それとも口先だけの信仰であったのか試されるのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、私たちは主イエスがいよいよ地上で過ごされた最後の一週間についてその足跡を辿ろうとしています。その第一日目である今日平和の都という意味を持つエルサレムに入城するために子ろばを用いられました。その時子ろばはまだこの世のために、またあなたのために何の働きもしていませんでしたが、主イエスはその子ろばを御自身の計画のために用いて下さいました。飼い主もまたそれを主のものとして献げました。

この事を通して私たちは今日私たちもまた私たち自身のものではなく、あなたのものであると言うことを。そして私たちの人生も私たちの為に浪費してはならないこと、先ず「主の用なり」と言うところに立ち帰って、あなたに献げます。御旨のままに私たちを用いて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む