【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年1月20日

ダビデの子にホサナ

マタイによる福音書 21章6-11節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 弟子たちは引いてきた子ろばの背中に自分の上着を掛け、イエスさまはその上にお乗りになりました。群衆も自分たちの上着を道に敷いてお迎えしました。上着をろばや道に敷く行為は王に対する服従の意思を表すしるしです。次に木の枝を取ってきて道に敷きました。なつめやしの枝を手にして歓迎したと書いている福音書もあります。これはやがて天上のエルサレムで世の人々の為に罪の贖いの業を全うして父なる神の右に座る諸々の王の王、主の主として即位されるキリストの徴です。

 人々はこのイエスさまを見て「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と神を讃美しました。ダビデは今から3千年ほど昔、イスラエルを支配した王です。ダビデ王はその生涯を通して生ける真の神の御前に謙り、自分を神の僕と告白しました。だから神は彼を祝福し、彼の子孫を通してキリストを世に贈ると約束して下さいました。人々はその約束が成就される日を待ち望んでいました。だから今ろばの子にまたがってエルサレムに入城してこられたイエスさまを見て、この方こそダビデの子であると信じたのです。そして神を讃美しました。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで祭りのいけにえを綱でひいて行け。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ。あなたをあがめる」(詩編118:26−27)と。人々はこの詩編を引用しながら、「ホサナ」を付け加えています。これは彼らの祈りでもあるからです。「ホサナ」とは「主よ憐れんで下さい」とか、「わたしたちをお救い下さい」という意味です。彼らは地上の王や支配者に失望していました。今彼らが本当に必要としているのは神の憐れみです。救いです。イエスさまにこそこの国を、いや世界を神にある平和に導く力があるからです。


【礼拝メッセ−ジ】                           2002年1月20日

ダビデの子にホサナ

マタイによる福音書 21章6-11節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

ヨハネによる福音書によると、主イエス・キリストは週の初めの日、今で言う日曜日に復活されました。それは十字架に死んで三日目の出来事です。またイエスさまが十字架に死なれた日の日没から過越祭が始まったと言うことですから、その年の過越祭は安息日と重なる金曜日の日没から始まっています。このように主イエスの復活の出来事から曜日を遡ると、今日開かれた聖書のエルサレム入城は過越祭の5日前、つまり日曜日であったと言うことが分かります(12:12)。

群衆はろばの子に乗って入城してこられたイエスさまを見て自分たちの服を道に敷き、「なつめやしの枝」(13節、φοινιξ)とも、「しゅろの枝」(口語訳聖書)とも訳されている木の枝を切って道に敷いてイエスさまを歓迎しました。このことからこの日を「棕櫚の日曜日(パーム サンデー)」と呼ばれるようになりました。そしてこの日から始まる5日間をキリスト教会は「キリスト受難週」として大切に過ごしています。先週私たちはろばの子に乗ってエルサレムの城門をくぐってこられたイエス・キリストを「万物の主、真の神」であると学びました。今日はこの王なるイエス・キリストを人々がどのようにお迎えしたかを学びたいと思います。

 

一、 服従の意志を示した弟子と群衆

 二人の弟子がろばの子を引いてきたとき、弟子たちは自分の上着をそのろばの上に掛け、主はその上にまたがられました。また群衆も自分たちの上着を道に敷いて主をお迎えしました。その昔、北イスラエルの将軍イエフが神によって王に任命されたとき、人々は急いで階段の上に自分たちの上着を敷きました。イエフはその上に立ち、王としての任命を受諾し、即位しました(列王記下9:12−13)。このように上着をろばや道に敷く行為は王に対する服従の意思を表すしるしです。

 次に木の枝を取ってきて主の通られる道に敷きました。マタイはただ木の枝と書いていますが、マルコは「葉のついた枝」(11:8)、ヨハネはなつめやしの枝を手にして歓迎したと書いています。このようなことは凱旋した王を迎えるやり方です。それだけではありません。ヨハネの黙示録7:9−10(p.460)をご覧下さい。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座の前に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」とある通り、これはやがて天上のエルサレムで世の人々のために罪の贖いの業を全うして父なる神の右に座る諸々の王の王、主の主として即位されるキリストを讃美する預言です。

 人々はこの方、イエスさまをどこまで知っていたか分かりませんが、その迎え方は確かに、戦いに勝利して凱旋した王に対する畏敬の念が込められていました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と神を讃美しました。人々はイエスさまを「ダビデの子」と言います。ダビデはこの時代を遡る千年以上も昔、神に油注がれてイスラエルを支配した王です。しかし彼は王であってもその生涯を通して生ける真の神の御前に謙り、自分を神の僕と告白し続けました。だから神は彼を祝福し、彼の子孫を通してキリストが生まれると約束して下さったのです。人々はこの預言を信じてその約束が成就される日を待ち望んでいましたから、今彼らの目の前にイエスさまがろばの子にまたがってエルサレムに入城してこられたのを見て、この方こそダビデの子であると信じたのは間違いではありません。そして声を挙げて神を讃美しました。これは群衆の中の誰かが作った即興の讃美歌ではありません。それは詩編118:26−27(p.958)の一節を引用したものです。

 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで祭りのいけにえを綱でひいて行け。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ。あなたをあがめる。」

 お気付きのようにこの詩編からは「ホサナ」という言葉は聞こえてきません。しかし群衆はこの詩編を引用しながら、「ホサナ」を付け加えています。これは彼らの祈りでもあるからです。「ホサナ」とは「主よ憐れんで下さい」とか、「わたしたちをお救い下さい」という意味です。彼らは地上の王や支配者に失望していました。この世の政治家も司法界も教育界も、いや宗教界の人々でさえ信じられないのです。彼らはみな正直に生きようとする者、貧しい者を食い物にして今日の地位まで上り詰めた人々なのですから。今彼らが本当に必要としているのは神に立てられた真実な王です。その方による神の憐れみです。救いです。それでこの方こそと言う祈りの発露として、イエスさまに「ホサナ」と叫びました。イエスさまにこそこの国を支配していただかなければならないのです。

 

二、敵対する者

 人々は素朴な心のままに主イエス・キリストを讃美と祈りの内に歓迎しましたが、この光景を冷ややかな目で眺めていた都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎました。この都中の者という表現に著者の皮肉を感じます。前半の群衆は主に遠い外国から来た巡礼のユダヤ人を指し、またガリラヤから来た主イェスの弟子集団を指します。それとは対照的にこの都に住む人々は明らかにイエスを招かれざる客と見なしています。と言うのはこの10節を直訳すると、「これは誰だ?」、いやこれでも少し丁寧すぎる訳です。本当はもっと乱暴な言葉遣いをしています。「こいつは一体どこのどいつだ」と言う方が素直な訳になるかも知れません。イエスというスーパースターに夢中になっている追っかけに冷水を浴びせるような言葉であることは確かです。都に住む人々はたとい表面上であっても何事もなくこの祭りの期間が過ぎてくれることを願っています。もしこの機に乗じて反政府運動が起こり、町が暴徒と化してしまうと、ローマ軍が介入してそれこそ自治権そのものさえ奪われかねません。この都に安住している人々が5日後にイエスさまを十字架につけた理由の一つはそこにあります。

 この問いかけこそ弟子たちにとって主イエス・キリストを証しする絶好のチャンスです。しかし弟子たちが口を開くより先に群衆が負けじとこれに応答しました。「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。このようにイエスを巡って質疑応答することは大切です。このような方法は後にキリスト教会の間では信仰問答のかたちで採用されました。あらゆる問いかけに対して正しい応答が求められるのですが、群衆の答えは残念ながら不十分でした。イエスさまは預言者以上のお方です。イエスさまこそ真の王であり、キリストであり、救い主です。このことは5日後、十字架の出来事以後にはっきりするのですが、今はまだ彼らの目に覆われています。

 

 私たちは今日ろばの子に乗ってエルサレムに入城されるイエスさまを迎えた人々の反応を学びました。今の時代も、「イエス?一体、これはどこの誰だ」とあなたに問いかけてくる人々がいます。その問いにあなたはどのような答えができるでしょうか。

 イエスさまのエルサレム入城は凱旋ではなく、これから新しい戦いに出て行こうとしておられる姿です。戦場は十字架です。真に平和の王としてその地位を確固たるものにするために、今その戦いの火蓋が切られようとしています。この方に従う者もまた日々十字架を負う戦いの連続です。神との平和はこの世の罪との戦いを避けることができないのです。この世は「いったい、これはどういう人だ」と問いかけます。私たちは答えましょう。「この方こそ生ける真の神、ダビデの子キリストである」と。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちも今朝、あなたに讃美を歌うと共にホサナと祈ります。7年前の1月17日午前5時46分からほんの1分間の間に大阪西部から兵庫県一帯にかけて実に6千人以上もの尊い命が失われました。生きながらえることの許された人たちも今なお心に大きな傷を引きずって、なかなか立ち直ることができないでいます。生き残ったことを感謝するよりも、生き残っていること自体に後ろめたさを感じているからです。きっと三宅島に家を残して今も本州に足止めされている人々、また昨年9月11日に被災したニューヨーク市民も同じ思いではないかと想像します。

 一方昨年は多くの人が職を奪われました。今年不況の波は更に多くの人々を呑み込むかも知れません。ゆとりの教育を目指したはずの小中学校の教育改革も蓋を開けてみると子どもたちのことは何も考えられていない気がします。かつてはこのような不安定な社会情勢になると、多くの人々は宗教を求めました。しかしオーム真理教の残した負の遺産は人々の心に還って宗教アレルギーをもたらしています。

 主よ、このような時代だからこそ私たちはあなたに依り頼みます。ホサナと叫びます。主よ、この国を憐れんで下さい。この社会に生きる人々のたましいをお救い下さい。この仙川キリスト教会の一人びとりがあなたに従い、あなたに服従する者として、この世に仕える道を教えて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む