【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年1月27日

ここは祈りの家

マタイによる福音書 21章12-17節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 主イエスは神殿で、「わたしの家は祈りの家であるべきだ」と言いながら、縄のムチで商売人を追放されました(ヨハネ2:15)。事もあろうに祈りの家である主の宮が商売人の意のままに操られていたからです。何故境内地に商売人が入ってくるようになったのでしょうか。それは礼拝者の便宜を図るという名目で始まった商売です。過越祭の時は神さまがお定めになった動物を各自の罪の身代わりとして神に献げる必要があります。商売人はそこに目を付けました。礼拝に来る人がその都度動物を引いてこなくても良いようにと、いけにえ用の動物を売ってくれます。お釣りの遣り取りをスムーズにできるように、また外国のお金を神殿に献げるわけにはいかないので、そのような人のために両替商も現れました。恐らく、その商売で得た儲けの何割かは上納金として宮に入ってくる仕掛けになっていたと思われます。だから主が縄の鞭をもって商売人を追い出したとき、商売人ではなく、祭司や律法学者が主イエスに食ってかかり、殺意をさえ抱いたのです(マルコ11:18、ヨハネ2:18)。商売人と神殿当局者は神の宮を往来しながら、いつの間にかお金の奴隷になってしまっています。一見礼拝者のためになるこのような商売は、しかし真剣に自分の罪を悔い、聖なる神の御前に畏れをもって向き合う礼拝から、「やれやれこれでお勤めを果たした」と、自己満足する形式的な礼拝へと傾斜を促して行きました。

 翻(ひるがえ)って私たちの教会はどうでしょうか。ここは祈りの家となっているでしょうか。私たちの心の中にはいつもお手軽な礼拝、便宜主義の礼拝へと誘惑が働きます。悪魔とその手下である悪霊どもの誘いに乗ってはなりません。使徒パウロも言うように、「信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼らは皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになる」(コリント14:24−25)と、そのような教会であり続けたいものです。


【主日礼拝メッセ−ジ】                           2002年1月27日

ここは祈りの家

マタイによる福音書 21章12-17節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 仙川キリスト教会は来年宣教開始40周年です。この時期に私たちは会堂建築という大きなプロジェクトを主から与えられています。更に教会規則を改定することと細則を検討中です。新会堂は新たな伝道の拠点として地域の人々に様々なサービスを提供できるでしょう。また教会規則と細則が与えられた暁には「宗教法人 仙川バプテスト教会」として、より一層地域に対して旗印を鮮明にできます。同時にそれはまた今まで以上に責任の重さを認識しなければならないのです。こうした一連のプロジェクトは私たちの教会がこれまで歩んできた40年を総括する節目となることでしょう。この歴史的な時期に今私たちは立たされているのです。これは誠に光栄なことではないでしょうか。

その意味で今日の御言葉は40年の節目とその大きなプロジェクトを前にして主は私たちにもう一度教会について学ぶ良い機会を与えて下さいました。13節を中心に学びましょう。

 

一、 教会は「主イエス・キリストの家」

  主イエスが12歳の頃、両親に連れられてエルサレムの宮に行きました。ナザレに帰る道すがら少年イエスの姿を見失いました。両親は元来た道を尋ね求めて神殿の境内で彼の姿を見つけました。叱る両親に対して、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と逆に問いかけたと言うことです。主イエスはこの時はっきりとエルサレムの神殿、主の宮を「わたしの父の家」と呼びました。

 それから20年後、主の宮で売り買いしている人々を追い出して、「ここはわたしの家」と言われましたが、この13節の二重かっこはイザヤ書56:7−の引用です。ご一緒に読んでみましょう。

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 これは重要な意味を持つ言葉です。主イエスはただ旧約時代の預言を引用なさっただけではなく、この預言は御自分のためにあることを明言なさったのです。今日主の宮とはキリストの教会のことです。キリスト者が自分の所属する教会を「私たちの教会」と呼びますが、それは「私たちの主イエス・キリストの教会」という理解に立って言葉にするとき正しいのです。信仰生活が長くなると、教会を私物化する危険があります。しかし「わたしの主イエス・キリストの教会」という意識を忘れない限り、その誘惑から守られます。

 

二、主イエス・キリストの家は祈りの家

 先程のイザヤ書56:7の引用で、イエスさまは一箇所だけ表現を変えておられます。それは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあるところを、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである」と強調しておられることです。

 「わたしの家は祈りの家であれば良いなあ」とか、「祈りの家が理想だ」という曖昧さを残してはいません。「祈りの家であるべきだ」と、より積極的な言葉になっています。キリストの教会は「祈りの家」であります。祈りとは神との対話ですから、教会とはなにかと問われるなら、「教会とはいつも神の臨在を感じるキリスト者の群れである」と答えることができます。教会に足を踏み入れた人は「神の臨在」という言葉になれて下さい。ここにも彼処にも神は生きて働いておられるのです。そのことを常に意識する人は、隠し事が出来ません。こちらで良いことを言い、別の処で偽りを言う等ということはできません。居住まいを正して目を閉じ、手を膝の上に組んで祈るのも祈りですが、歩きながら、仕事をしながら、人と会話しながら、神がそこにおられると感じることが祈りなのです。このように祈る人はどの社会にあっても神を知らない人々の間で、自然に指導的な立場に置かれることでしょう。新約聖書の使徒言行録という書物の中に、使徒パウロの冒険物語を見ることができます。彼は囚人として舟でローマに護送されることになりました。ある島に停泊中、パウロは護送船の責任者に今船出することは危険だから、もう少し時期を見た方が良いと進言しました。しかし指導者はパウロの言葉よりも船主や航海士の言葉を信頼して出港しました。しかし間もなく天候は急変し、やがて猛烈な勢いで風が吹き荒れました。舟は操縦不可能になり、木の葉のように翻弄されました。使徒パウロは「だから言わないことではない」と叱りながら、次々と助言を連発します。初めの内素人が何を言うかと相手にしなかった指導者も次第にパウロの言葉に耳を傾けるようになり、気が付くと、舟の乗組員全員がパウロの指導に従うようになりました。おかげで舟は難破しながらも一命の死者も出さずにイタリア半島の南端に漂着したと言うことです。実はパウロはこれまで30年以上もの間、3度に渡って地中海沿岸の国々を伝道旅行してきた旅行の専門家です。その間延べにして約6000Hもの道程をある時は陸上を歩いたり、動物の背に揺られて旅をし、ある時は海上を大小さまざまな舟の旅を繰り返してきたのです。半端な船乗りよりもよほど知識と経験を持っていました。空模様を見分けることぐらい彼にとっては朝飯前でした。

 真の神を知らない人は差し迫った問題に直面しても祈りを小馬鹿にして、この世の知識や経験、或いは技術に頼って努力します。しかし全能の神に頼ることを知っている人は主の導きのままに知識や経験、技術を生かすことができるのです。私たちは祈りの家で十分にこの訓練を受けて世の人々を天の港に安全に導いてあげなければなりません。

 

三、主の家を泥棒の家にしてはならない

 主イエスがあえて「わたしの家は祈りの家であるべきだ」と言わなければならなかったのは、祈りの家が「強盗の巣」になり果てようとしていたからです。主の家が主の家でなくなってしまう危機的な状況にありました。事もあろうに主の宮の境内で礼拝が金儲けにうつつを抜かす人々の意のままに操られていたのです。ヨハネ福音書によると、その時主イエスは縄でムチを作って境内で商売している人々を追い出したと言うことです。

 何故境内地に商売人が入ってくるようになったのでしょうか。それは礼拝者の便宜を図るという名目で始まった商売です。過越祭の時は神さまがお定めになった動物を各自の罪の身代わりとして神に献げる必要があります。商売人はそこに目を付けました。礼拝に来る人が一々動物を引いてこなくても良いように、いけにえ用の動物を売ってくれます。お釣りの遣り取りをスムーズにできるように、また外国のお金を神殿に献げるわけにはいかないので、そのような人の為に両替商も現れました。また恐らく、その商売で得た儲けの何割かは宮に上納金として入ってくる仕掛けになっていたと思われます。だから主が縄の鞭をもって商売人を追い出したとき、商売人ではなく、祭司や律法学者が主イエスに食ってかかり、殺意をさえ抱いたのです(マルコ11:18、ヨハネ2:18)。商売人と神殿当局者は神の宮を往来しながら、いつの間にかお金の奴隷になってしまっていたのです。

 それだけではありません。彼らの行為はいつの間にか礼拝者の魂までをも奪い取ると言う二重の罪を犯していたのです。今や主の宮は彼らのために強盗の巣になってしまっていました。

 主が危機感を持たれたのはまさにこのことです。一見礼拝者のためになるこのような商売は、真剣に自分の罪を悔い、聖なる神の御前に畏れをもって向き合う礼拝から、やれやれこれでお勤めを果たしたと、自己満足する形式的な礼拝へと傾斜を促していったのです。

 

 翻って私たちの教会はどうでしょうか。ここが確かに主の家、祈りの家となっているでしょうか。この仙川キリスト教会がこれからも使徒パウロの言葉を借りて言うなら、「信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼らは皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになる」(コリント14:24−25)と言わしめる教会であり続けたいものです。

 私たちの中にはいつもお手軽な礼拝、便宜主義の礼拝への誘惑が働きます。私たちはそのような誘惑に乗ってはなりません。むしろ、主が神殿の清めをなさった後、主を必要としている人々に愛の御業をなさったように、私たちもこの方に学びましょう。使徒パウロは言いました。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1−2)と。祈りましょう。

 

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

主イエス・キリストは礼拝者の魂を食い物にする商売人を主の宮から追放されました。サタンは最も聖い場所にも姿を現して天国の入り口にある者を自分のために定められた地獄への道連れにしようとします。これは実に恐ろしいことですが、私たちは今日の聖書からその危険な罠と、しかしその罠から逃れる道も備えて下さっている主の恵みを学ぶことができました。ここは主の家であり、ここは全ての人に開かれている祈りの家だからです。神さま、どうか今ここに集められている私たちがサタンの誘惑に乗ることのないように常に守り導いてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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