【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年2月3日

信じて疑わず

マタイによる福音書 21章18-22節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 主のみ言葉によって無花果の木が枯れたので、弟子たちは驚きました。しかし主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われました。

 主イエスの「はっきり言っておく」というこの言葉は原文通りには、「アーメン、わたしはあなたに言う」と読めます。「はっきり言う」とは、本当のことを言うという意味です。聖書は神さまのみ言葉ですから、私たちはこれを読むとき、また神に讃美を捧げ、祈る時、「私たちも本当のこと(アーメン)をあなたに申し上げます」と力強く唱和しましょう。

 このように真実な祈りは神の御心を求めて働く力となります。私たちは何事かが起こるように祈ることがあります。また反対に起こらないようにと祈る必要を感じることもあります。或いは何かをお与え下さいと祈ることがあります。また時にはそれを決して私に与えないで下さいと祈る勇気が必要な時もあります。病気を癒して下さいと熱心に祈りますが、祈りの通りにならなかったという経験をすることもあります。そのようなときあの祈りは正しかったのかと自分を責めることがあります。しかしこのことをしっかりと心の奥深くに留めておきましょう。祈りは、「神のなさることに間違いはないと受け入れる力を与えてくれる」と言うことを。神は決して間違ったことをなさらないと信じて祈る人の祈りは聴かれるのです。一見祈りが聴かれなかったと思うときでさえ、後になってみると、神さまは確かに私の祈りを聴いて下さったのだ。その上で御旨のままに私のために最も良いことをして下さったのだと確信を深めさせて頂けるときが必ず来るのです。事実その確信は決して裏切られることはありません。祈りを通して神のなさることを受け入れる力が与えられ、同時に高く分厚い現実の壁をさえ砕く力となるのです。それは私の力ではなく、祈りに耳を傾けて下さる神の力なのです。


【主日礼拝メッセ−ジ】                           2002年2月3日

信じて疑わず

マタイによる福音書 21章18-22節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「イエスは空腹を覚えられた」とマタイは書いています。主イエスもお腹を空かせることがあったのです。たまたま道端に生えている無花果の木が目に留まったので近づいて行かれたのですが、葉っぱばかりで一つの実もつけてはいません。そこで主はこの木をお叱りになったと言うことです。マタイでは、「いちじくの木はたちまち枯れてしまった」と言うことですが、マルコはこの出来事を2日がかりのこととして書き、また無花果の実がなる季節ではなかったと書き加えています。実のなる時期ではない木であることを知りながら、主イエスはどうしてこの木が二度と実を結ばないようにと叱ったのでしょうか。ここに一つの重要なメッセ−ジが隠されているのです。

 

一、 葉っぱだけの信仰生活への警告

 この物語が私たちに伝えているメッセ−ジは、実りのない葉っぱだけの信仰生活を送っている人に対する警告です。 12−17節で宮清めをなさった主イエスに噛みついてきた人たちのことを考えて下さい。彼らこそ葉っぱばかり茂らせて主イエスが求めておられる信仰の実を持たない人々だったのです。彼らには学識がありました。聖書の知識では誰もが一目置く人々でした。しかし、神さまの御前に何の役にも立っていなかったのです。宗教家であると言うこと、聖書の専門家であると言うことは無花果で言えば葉っぱです。人々は葉っぱではなく、その聖書をどのように実践しているか、その生活の実を求めているのです。しかし残念なことに彼らにはその実を認めることができません。

 最近沖縄の読谷村でペンションを営んでいる方からペンション発行の機関誌が送られてきました。その中に「日本全国だけでなく、色々な国の方がこのペンションを利用してヌチグスイを楽しんで下さいました」という件(くだり)を読んで、初めは人を楽しませる「塗り薬」などと言うものがあるのかしらと不思議でした。しかしその続きを読んで納得しました。「ヌチグスイ」とは塗り薬ではなく、「命の薬」という意味だそうです。利用客がこのペンションで命の洗濯ができたと喜んでくれましたと言うことです。私はそれを読みながら教会こそそのヌチグスイの場でなければならないなと思いました。しかし現状はどうでしょうか。ウィリアム・バークレーという人が、G・T・ベルハウスの書いた「ガンジー自叙伝」の一部を紹介して、「ガンジーは若い頃南アフリカのある町で信仰を求めて数週間キリスト教会の礼拝に通ったことがある。そこでの経験をガンジーはこのように書き記している。『私には、その教会の会衆が特別に宗教的だとは思われない。教会は敬虔な人たちの集まる所ではなく、世俗的な人たちが、単に習慣的に社交のために集まる場所のように思われる』と。そして彼はキリスト教会には自分が既に持っているもの以上のものは何もないと結論して教会から離れて行ったと言うことだ。このことはインドにとっても全世界にとっても、実に大きな損失であった」と結んでいます。振り返って私たちの教会はどうでしょうか。こんなに入り組んだ住宅街にある私たちの教会にも年間通して結構新来者が与えられています。この教会がガンジーを失望させた教会のように葉は繁っていても実のない無花果のような群れではなく、「ヌチグスイ」のような教会を目指す群れでありたいものです。その為に必要なことがあります。それは疑わず信じて祈る者となることなのです。

 

二、信じて祈れ

 主のみ言葉によって無花果の木が枯れたので、弟子たちは驚きました。しかし主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われました。ここをマルコ11:22−25はもっと丁寧に書いています。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」と。

 

 私たちは讃美し、また祈る時「アーメン」と唱和します。これからアーメンと言うとき、今日の主イエスのお言葉を思い出しましょう。と言うのはマタイにもマルコにも書かれていましたが、「はっきり言っておく」というこの言葉こそ原文通りに読むと、「αμην λεγω υμιν,アーメン、わたしはあなたに言う」と読めるのです。古い訳の聖書ですと、「真に、我汝らに告ぐ」と訳されています。「はっきり言う」とは、本当のことを言うという意味です。聖書は神さまのみ言葉ですから、私たちはこれを読むとき、また神に讃美を捧げるとき、祈る時、「私たちも本当のことをあなたに申し上げます」と告白する意味で、「アーメン」と力強く唱和しましょう。

 アーメン、真実な祈りは神の御心を求めて働く力となります。私たちは何事かが起こるように祈ることがあります。また反対に起こらないようにと祈ることもあります。或いは何かをお与え下さいと祈ることがあります。しかしまた時にはそれを決して私に与えないで下さいと祈る勇気が必要な時もあります。病気を癒して下さいと熱心に祈りますが、祈りの通りにならなかったという経験をすることもあります。そのようなときあの祈りは正しかったのかと自分を責めることがあります。しかしこのことをしっかりと心に留めておきましょう。祈りは神のなさることに間違いはないと受け入れる力を与えてくれると言うことを。神は決して間違ったことをなさらないと信じて祈る人の祈りは聴かれるのです。一見祈りが聴かれなかったと思うときでさえ、後になってみると、神さまは確かに私の祈りを聴いて下さったのだ。その上で私のために最も良いことをして下さったのだと確信を深めさせて頂けるときが必ず来るのです。祈りを通して神のなさることを受け入れる力が与えられ、同時に高く分厚い現実の壁をさえ砕く力となるのです。それは私の力ではなく、祈りに耳を傾けて下さる神の力なのです。

使徒パウロの言葉を紹介してメッセ−ジの結びとしたいと思います。

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(コリント4:7−11)

 このみ言葉で分かるように、神を信じ、神に忠実な信徒であっても「四方から苦しめられる」のです。複雑に絡み合った問題のどこから手をつけて良いやら分からず、「途方に暮れる」のです。言われなき迫害に遭遇して「虐げられる」のです。「打ち倒される」事もしばしばです。クリスチャンだから何の問題にも遭遇しないと言う人は稀でしょう。クリスチャンといえども、いやクリスチャンだからこそ様々な試練を受けるし、そこを避けて通ることはできないのです。しかしパウロのそれに続く言葉に注目してください。でも、行き詰まらないし、失望しないのです。見捨てられてはいないし、滅びることはないのです。私たちの主も十字架に死ぬほど苦悩と孤独の道を歩まれました。しかし復活されたのです。祈りとは絶えず十字架と復活のイエス・キリストに出会うことなのです。疑いの入り込む余地を造らない信仰の祈りこそ実り豊かな無花果として主イエスを喜ばせるキリスト者の姿なのです。祈りましょう。

 

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

主イエスは今日仙川キリスト教会に、そして私たち一人びとりに、「あなたがたはヌチグスイの群れとなっているか」と問いかけておられます。このような主の問いかけを前にして、私は私の祈りが果たして信仰の祈りとなっているのかと逡巡せざる得ません。主よ、どうかわたしたちの祈りを清めて下さい。確信へと引き上げてください。上手な祈りをと言う誘惑から私たちを守り、心から「アーメン」と捧げうる祈りとなるよう、清めてください。そして愛において、信仰において、希望において実り豊かな教会へと成長させて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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