【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年2月24日

隅の親石

マタイによる福音書 21章33-45節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                  

 真の神を認めない誤解は自分の人生の拠り所を持つことができません。熟練した建築師はその建物のどこに土台石を据えるべきかを認識できます。しかし未熟な建築師は建物の土台とすべき所に土台として据えるべき石を見極めることができません。飛んでもないところに飛んでもないものを土台として選び、据えると長い年月と共に建物は傾き、日ならずして大きな悲劇の元となります。イスラエルの指導者はその未熟な建築師であると主イエスは指摘しておられるのです。

 では私たちの人生はどうでしょうか。何を土台として生きて行けばよいのでしょうか。クリスチャンであっても、人生の土台石としてイエス・キリストを受け入れていないとどうなるでしょうか。すると私たちは主の日毎に神の独り子イエス・キリストに礼拝を捧げても、一歩外に出た瞬間イエス・キリストを忘れ、或いは信頼に値しないものとして捨ててしまうことでしょう。職場で働くのは私の知識や才能、そして技術によるのであって、イエス・キリストに頼っても仕方ないのです。重い病気になります。しかし、これは科学的に治療してくれる医者の領域であって、イエス・キリストに頼っても意味がないのです。生活上の重い課題を抱えたとします。この場合も何とか自力で乗り切っていかなければなりません。棚ぼた式に誰かが解決してくれるというものではありません。イエス・キリストは聖書の世界でだけ力があるのです。

 しかしそれで良いのでしょうか。あなたはあなたの人生に本当の土台が欲しいとは思いませんか。私たちの人生を支えてくれるのはイエス・キリストのみです。箴言3:5−6にはこのように記されています。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」

 常に主を覚えて歩く道、それはあなたの職場であり、また学校であり、そして家庭です。もしあなたが全ての道で主を認めるなら、全ての道であなたは勝利することでしょう。教会生活と社会生活が切り離されない秘訣はイエス・キリストをあなたの人生の隅々における親石、土台石としてこの方により頼むことです。


【主日礼拝メッセ−ジ】                             2002年2月24日

隅の親石

マタイによる福音書 21章33-45節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日の聖書には二つの教えが記されています。@イエス・キリストの譬え話は、この世界は神の作品であり、従って神こそがこの世の唯一の主権者であるという教えです。A旧約聖書を引用してこの世は創造主である神が遣わされた独り子イエス・キリストを捨てました。しかしこの方こそ全てを支える親石であると教えようとしておられるのです。

 

一、神は万物の創造主

 第一に世界は神によって造られた神のものであるという事実を人間は否定したがるのです。主イエスの譬え話はイザヤ書5:1−2の預言に由来しています。読んでみましょう。

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。 わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」

 

 イザヤの語ったぶどう園の譬え話と主イエスの語られた譬え話とは少し違います。イザヤの場合は植えられたぶどうの酸っぱい実をイスラエルの不信仰に譬えています。主イエスはぶどう園の所有権を巡って主人と管理人との緊張関係を問題にしています。しかし基本は同じです。

 イザヤの譬え話は神が手塩にかけて世話したぶどうの樹のように、神はイスラエルをどれほど愛し育んできたか、それなのにイスラエルの人々は神の期待に応えるような信仰の実を示すことができなかったのです。これに対して主イエスの譬え話はそのぶどう園ならぬイスラエルという国の管理を指導者に委ねたのに、指導者たちは何を勘違いしたか、これは自分のものだと主張し、持ち主である神を否定しようとしているのです。

 これは今なお続く人類の罪です。神はこの世を丹精込めてお造りになりました。しかし人類はこの世界を我が物顔にして傍若無人に振る舞っています。美しい自然は次々と破壊されています。生き物の生態系は人間によって覆され、絶滅の危機に晒されています。尊重すべき人命が軽く扱われています。権利意識の偏重によって人間社会の秩序も失われつつあります。妻が夫の暴力に脅え、女性は更に弱い我が子を虐待するという悪循環が繰り返されています。世界はわたしのもの、国家はわたしのもの、社会はわたしのもの、妻は夫のもの、子どもは親のものという誤った認識が今日様々な形で悲劇を生んでいるのです。それだけではありません。世界は真の神を求めるどころか、自分で自分の好きな神を造り、数多の宗教を生産しては神ならざるものを神として真理からますます逸れて行きつつあります。神が創造主であることを認めない誤解はこのように恐ろしい罪の積み重ねをしているのです。ぶどう園のオーナーが次から次へと僕を送ったが、農夫は彼らを侮辱し、なぶり殺しにしたり、処刑してしまいます。最後に自分の独り子を送ったのに、その独り子をさえ死なせてしまったというのは、イスラエルの長い歴史の中で神は幾世代にもわたって忍耐をもって預言者を送り、傲慢の罪を悔いて神に立ち帰るのを待っておられたのに、彼らはその預言者をなぶり殺しにしていまいました。最後の切り札として遣わされてきたイエス・キリストに対してさえ彼らは逆らい、きっと殺してしまうと言う予告です。

 

二、人生の土台を見失うと言う誤解

42節は詩編118:22からの引用ですが、せっかくですから25節までお読みしたいと思います。

家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」

 真の神を認めない人は人生の拠り所を持つことができません。熟練した建築師はその建物のどこに土台石を据えるべきかを認識できます。しかし未熟な建築師は建物の土台とすべき所に土台として据えるべき石を見極めることができません。とんでもないところにとんでもないものを土台として据えると長い年月と共に建物は傾き、日ならずして大きな悲劇の元となります。イスラエルの指導者はその未熟な建築師であると主イエスは指摘しておられるのです。

 クリスチャンであっても、人生の土台石としてイエス・キリストを信じ受け入れていないとどうなるでしょうか。主の日毎に神の独り子イエス・キリストに礼拝を捧げても、一歩外に出た瞬間イエス・キリストを忘れ、或いは信頼に値しないものとして捨ててしまうことでしょう。職場で働くのは私の知識や才能、そして技術によるのであって、イエス・キリストに頼っても仕方ないのです。重い病気になります。しかし、これは科学的に治療してくれる医者の領域であって、イエス・キリストに頼っても意味がないのです。生活上の重い課題を抱えたとします。この場合も何とか自力で乗り切っていかなければなりません。棚ぼた式に誰かが解決してくれるというものではありません。イエス・キリストは聖書の中でだけ力があるのです。これでは聖書は福音ではなく、神話の域を出ないことになります。

それで良いのでしょうか。あなたはあなたの人生に本当の土台が欲しいとは思いませんか。私たちの人生を支えてくれるのはイエス・キリストのみです。箴言3:5−6にはこのように記されています。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」

常に主を覚えて歩く道、それはあなたの職場であり、また学校であり、そして家庭です。もしあなたが全ての道で主を認めるなら、全ての道であなたは勝利することでしょう。教会生活と社会生活が切り離されない秘訣はイエス・キリストをあなたの人生の隅々における頭石、土台石としてこの方により頼むことです。

 

三、神は恐れるに足りずとする誤解

第三に神がこの世界をお造りになった事実を否定する故に人生を自力で渡ろうとする人は結局神を恐れる心を持ちません。このような人が宗教家になると世の中は真っ暗です。祭司長たちやファリサイ派の人々は主イエスの譬え話を聞いて腹を立てました。逮捕しようと思いました。それはこの教えが自分たちに当てつけたものと逆恨みをしたからです。彼らは宗教の名を借りて、本当は神を恐れる思いを捨ててしまっていたのです。主のみ教えが自分たちに与えられたものと悟ったなら、これを神の恵みのチャンスとして悔い改めるべきでした。しかし彼らはそう言う思いになれません。イエスは大衆の前で自分たちに恥をかかせた。プライドを傷つけられたと腹を立てたのです。本当は直ちに逮捕したかったのです。しかしイエスを預言者と信じている群衆が怖かったので思い留まり、またのチャンスを待つことにしました。何という悲しい誤解でしょうか。彼らは神を恐れないで人間を恐れたのですから。

 クリスチャンであっても同じ罪を犯すことがあります。礼拝メッセ−ジを祭司長たちやファリサイ派の人々と同じ思いで聞いてしまうことがあります。その日のメッセ−ジがまるで自分に当てつけられているように決めつけて腹を立ててしまうと言うことがあります。私たちはこのような初歩的な誤解から守られていなければなりません。礼拝は聖い神と向き合うときです。礼拝は批評家のようにベンチに座るのではなく、その日メッセ−ジを通して語られる神のみ言葉の前に謙り、そして従順が求められるときなのです。その日のメッセ−ジの中からイエス・キリストに出会い、悔い改めへと導かれなければなりません。このイエス・キリストによって今日から始まる新しい一週間、新しい人生の旅路を支える土台石となって下さいと祈り求める者とならなければなりません。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 主イエス・キリストのみ言葉は時に私たちには厳しい剣となって迫ってきます。しかしそれは私たちを窮地に陥れて滅ぼすためではなく、私たちを悔い改めに至らせ、十字架の主イエス・キリストの他に救いの道のないこと、この方に頼ること以外にどこにも私たちの人生を勝利させてくれる者はないと言うことを教え諭すためのお言葉であることを悟ることができました。しかし心頑なな人々はあなたを受け入れず十字架に釘付けてしまいましたが、振り返ってみると、私たちもあなたを十字架につけた者の一人でした。しかし今はあなたの御前にその罪を悔い改めます。あなたこそ真に万物の造り主であり、一切の支配者であられることを信じます。あなたを救い主、人生の隅々を支えてくださる親石であると心から信じます。どうか今日から私たちをあなたの僕として受け入れて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


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