【礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年3月10日

 「神のものを神に」

マタイによる福音書 22章15-22節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 人々は主イエスを陥れる目的で「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」と逃げ道のない二者択一を迫る質問をします。主イエスは彼らの悪知恵を見抜き、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。当時の貨幣には皇帝の肖像とその記号が刻まれていました。それによって一切の流通は皇帝の権威の下にあることを証明しようとしたのです。クリスチャンもこの世の支配に服する義務があります。教会は国家を否定するものではありません。国王のために、また時の政府のために祈る者でなければなりません。この世の法律に従い、国民としての様々な義務に服する者でなければなりません。納税の義務を負うことは当然です。しかし同時に私たちは基本的にイエス・キリストを王と頂く天国の国民であることを忘れてはなりません。紙幣や貨幣に時の支配者、或いは政府の名に基づく刻印があることで流通の一切が国家の名誉に帰するものであるなら、神は至高の権威を持っておられることを忘れてはなりません。世界とその中に住む者とは全て神の被造物だからです。

 神はこの世界を管理する者として人間をお造りになりました。神が人間を創造なさったとき、何を見本になさったかというと、造り主である神ご自身です。神は御自分の形に似せて御自分に象って人を創造なさったのです。紙幣や貨幣に支配者の肖像が刻まれていますが、私たち人間に神の刻印が押されて造られているという事実は意義深いことです。国家が私たちに要求してくるものに私たちは従う義務を負いますが、それは究極の支配者である神の御心に照らして相応しいときにのみ服するのです。これが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と主がお答えになった意味です。創造主である神こそ世界の主であるという基本を、私たちは第一に知らなければなりません。これさえ忘れなければ、イエス・キリストを信じる者はこの世の人が決して味わうことのできない自由を満喫できるのです。私たちは先ず「神のものを神に」お返しすることで、この世の人々の模範にならなければなりません。教会が神のものを盗んでおいて、どうして人々にイエス・キリストを伝えることができるでしょうか。

 


【主日礼拝メッセ−ジ】                              2002年3月10日

 「神のものを神に」

マタイによる福音書 22章15-22節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 21章後半から続く譬え話を聞いた指導者たちはそれを自分たちへの当て付けと受けとめて主イエスに対して殺意を抱きました。しかし民衆の支持が圧倒的であるイエスさまに直接手をかけるわけには行きません。かと言ってこのままおめおめ引き下がるのも悔しい。どうすればよいか、あれこれと相談の上名案が浮かびました。彼らの仲間内でも特に弁の立つ人を選んで主の下に送り、その言葉尻をとらえて恥をかかせること、できれば社会的に息の根を止めてしまおうというのです。ルカ20:20では「正しい人を装う回し者」と呼んでいます。この回し者の正体こそ、「ファリサイ派やヘロデ派」の中から遣わされた人々です。彼らは確かに正しい人を装って慇懃(いんぎん)に、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」と切り出します。しかし実はこれほど傲慢且つ無礼な言い回しはありません。神の道を教え、「人をはばかることなく、また分け隔てしないあなたなのだから、どのような質問にも逃げずに答えて欲しい」と言っているのです。そして「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」と逃げ道のない二者択一を迫る質問をします。もし主イエスが、「納めてはならない」と答えたら、ヘロデ派の人々は、「お恐れながら」とローマ当局に訴え出ることができます。けれども、「納めなさい」と答えたなら、今度はファリサイ派の人々が民衆を扇動してイエスを民衆の敵として宗教裁判にかけることができます。どの道イエスは苦境に立たされるのです。

 

 これはいつの代にも教会に突きつけられている問題です。「教会と国家」の関係の問題です。この世は教会に対して、「お前たちは神と国家のどちらに仕えるのか」と問いかけてきます。これは私たちの教会ばかりでなく、全ての教会が避けて通ることのできないジレンマです。例えばアメリカ合衆国は自由の国と言われています。流通硬貨に、「神にあって我らは真実」、「自由」、「多数からできた一つ」等と謳(うた)っています。多民族国家に相応しい刻印です。しかしそこに言う「一つ」とは何を意味するのでしょうか。ある教会にいたとき、アメリカ生活を何年も続けている人からあちらの教会の礼拝風景を撮った写真を見せて貰いました。ところがその礼拝風景の写真で一つだけ気になることがありました。講壇に星条旗があったことです。私たちの国でも、今公立の学校で教鞭をとるクリスチャン教師が君が代と日の丸の強要に苦しんでいます。そのようなときに、もし教会堂の中に日の丸の旗を持ち込んだらどうなることでしょうか。私は彼に「アメリカ合衆国ではどこの教会にも星条旗があるのですか?」と尋ねましたが、自分は他の教会は知らないと言う返事がかえってきました。それで連盟の宣教師に聞いてみました。返事は大抵の教会では普通のこととして掲げられていると言うことでした。と言っても連盟で働いている宣教師は南部出身者が殆どですから、彼らの言う普通は合衆国南部の教会と受けとめた方が良いのかも知れません。それにしても「多数の中の一つ」が神にあってと言うのではなく、アメリカにあってと言うことが前提であるなら、そして教会もそう言う受け止め方をしているとするなら、「皇帝に税を納めるべきか、否か」という問いかけに対して彼らはどのような応答をしているのでしょうか。特に最近のブッシュ大統領が明言した「悪の枢軸国」という発言と重ねるとき、「愛国心」の名の下に、かつて私たちの国が踏み迷ったいつか来た道を超大国のアメリカ合衆国も通ろうとしている危険を感じます。「教会と国家」の優先順位は私たちの日常生活に於いても厳しい選択を迫られる問題です。どちらを選び取っても私たちの日常生活に於いて息苦しいことは間違いありません。理想を言えば簡単です。クリスチャンには良く分かっているのです。しかし現実はそう簡単ではないのです。そこで主イエスのお知恵を頂かねばなりません。

 

 さて主イエスは彼らの悪知恵を見抜き、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。当時の貨幣には皇帝の肖像とその記号が刻まれていました。それによって一切の流通は皇帝の権威の下にあることを証明しようとしたのです。クリスチャンであってもこの世のものはこの世の支配に服する義務があります。教会は国家を否定するものではありません。国王のために、また時の政府のために祈る者でなければなりません。この世の法律に従い、国民としての様々な義務に服する者でなければなりません。納税の義務を負うことは当然です。しかし同時に私たちは基本的にイエス・キリストを王と頂く天国の国民であることを忘れてはなりません。紙幣や貨幣に時の支配者、或いは政府の名に基づく刻印があることで流通の一切が国家の名誉に帰するものであるなら、神は至高の権威を持っておられることを忘れてはなりません。何故なら世界とその中に住む者とは全て神の被造物だからです。神はこの世界を管理する者として人間をお造りになりました。神が人間を創造なさったとき、何を見本になさったかというと、造り主である神ご自身です。神は御自分の形に似せて御自分に象って人を創造なさったのです。私たち人間が神の刻印を押されて造られているという事実は意義深いことです。国家が私たちに要求してくるものに私たちは従う義務を負いますが、それは究極の支配者である神の御心に照らして相応しいときにのみ服するのです。これが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と主がお答えになった意味です。創造主である神こそ世界の主であるという基本を、私たちは第一に知らなければなりません。これさえ忘れなければ、私たちは「教会と国家」を二律背反的に窮屈な解釈をしなくて済みます。イエス・キリストを信じる者はこの世の人が決して味わうことのできない自由を満z喫できるのです。

 

 私たちは信仰の自由をもってこの世の権威に従い、また法律に従い、義務をさえ受け身にではなく、能動的に担うことが出きる者とされるのです。使徒パウロは言います。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1,5,7)と。またより豊かな信仰生活、教会生活を送る秘訣もここにあります。私たちの一週間の内一日を主の日として礼拝する。収入の十分の一を主にささげることはそれほど困難なことではなくなります。発想の転換をしましょう。神は本来全世界の主であられるのですから、一週間の内六日間を主に仕え、残りの一日だけこの世で働くようにと私たちに命じる権利を持っていらっしゃるのです。また収入の十分の九を主に献げて残りの十分の一で生活するようにと私たちに命じる権利を持っていらっしゃるのです。でも、神はこの世で最も謙虚なお方です。私たちは一週間の内六日間をこの世のために、また私たち自身のために用いて良いと言って下さいます。収入の中から十分の一だけを主の宮に携えて来て、十分の九をこの世のために、また私たち自身のために用いて良いと言って下さいます。私たちは教会生活を通して、先ず七日分の一日、十分の一という「神のものを神に」お返しすることで、この世の人々の模範にならなければなりません。神のものを盗んでおいて、どうして人々にイエス・キリストを伝えることができるでしょうか。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

私たちは今まで教会と国家の関係をこの世の視点で考え、或いは解決しようとしていましたから、どうにも窮屈な感じがしていました。しかしイエスさまは今日、私たちの目を開かせて下さいました。私たちは本来あなたのものでした。私たちの帰るべき所はあなたの御国でした。私たちはこの世の一員である以上に天国の国民であった事実を忘れかけていました。あなたの僕であると言うことは束縛された立場ではなく、この世の人が持たない自由を得ているはずでした。今、私たちは私たちの生活の全てをもう一度あなたに委ねます。あなたのものをあなたにお返しいたします。どうか私たちをあなたの御旨のままに用いて下さい。私たちの生活の全てがあなたの栄光を顕すものとならせて下さい。聖霊の干渉を煩わしいものと誤解して自分勝手に生活することのないように、私たちをお守り下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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