【主日礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年3月24日

「十字架の下で」

 ヨハネによる福音書 第19章16−27節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 十字架上の主イエスの罪名は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」です。当時の万民が読めるようにと、ご丁寧にヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていました。このわかりにくい罪状書きこそ、イエスさまに相応しい称号となりました。この方は真にユダヤ人の王、いや世界の主なのですから。そしてこの十字架という最も残酷な処刑こそイエス・キリストによる救いを全世界に及ぼすためにお選びになった父なる神の御摂理でした。この十字架の下にある全ての者に主イエス・キリストの救いが及び、そして永遠の命の門が開かれたのです。

 十字架上の主イエスは、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と、そして弟子には、「見なさい。あなたの母です。」と言われます。この弟子は「その時からマリアを自分の家に引き取」りました。これが私たちに教えるものは何でしょうか。主イエスの死後、寄る辺ない一人の年輩の女性を引き取った美しい物語として読み過ごして良いのでしょうか。彼女には他に沢山の子どもがいました。彼女を引き取る息子がいなかったとは思えません。それでも主イエスが敢えて彼女を弟子に託されたのは何故でしょうか。これこそ教会のあるべき姿なのです。主イエスはこの弟子と母マリアの出会いを通して、「教会」を十字架の下にある霊的な家族として呼び集め、聖別し、深め、成長させて下さるのです。主イエスはかつて「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12:46−)と教えて下さったではないですか。

 今日人と人とのつながりが実に希薄です。仕事や勉強が忙しいという言葉に隠れて家族の顔が見えにくくなりました。職場は企業戦士の群れと化してお互いは仲間ではなく、ライバルです。道行く人は皆気ぜわしく行き交うばかりで、少しでも体が触れようものなら争いになる物騒な時代です。病院の医師はカルテやコンピューターに映る患部の状態に気を取られて患者の顔を見ようとしません。どこに行けば、人間は本当に人間らしく安心してお互いの顔を見、語り合い、労り合うことが出来るのでしょうか。主イエスは言われます。わたしの下に来なさいと。十字架の血潮を受けることなしに、人間性を回復する道はないのです。道行く人を、近隣を十字架の下に、教会にご案内しましょう。


【主日礼拝メッセ−ジ】                            2002年3月24日

「十字架の下で」

 ヨハネによる福音書 第19章16−27節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日はイースター1週間前の主日です。この日を何と呼ぶか、色々考えました。教会カレンダーで言えば今日は、イエスさまがろばの子にまたがってエルサレムに入城された「棕櫚の日曜日」(パーム・サンデー)と言われています。或いは今日からの1週間を「キリスト受難週」とも言います。このことについてはすでに1月20日の主日礼拝の中で学んだ通りです。しかし今朝私たちに与えられた聖書テキストはイエスさまが十字架に上げられた日の出来事ですから、「棕櫚の日曜日」というのも適当と思えません。それで、先週の週報「お知らせ」欄に今日の礼拝のことを「パッション・サンデー」と予告してみたわけです。因みに英語の辞書には間違いなくそのような熟語があることを裏付けてくれていますが、海外生活の豊富な経験を持つ人でさえ初めて聞く呼び名だと言われて、どうしようかなとまだ考え込んでいるところです。

 

 私たちの主イエス・キリストはユダヤ教指導者や異邦人の手で十字架に釘付けられています。十字架刑はフェニキヤ人が考案したと言われる死刑の方法の一つで、その目的は国民に対する見せしめですから、処刑は当然公開で執行されます。残酷きわまりない処刑です。公権力をもって一人の人間を殺すにはそれなりの、そして誰の目にも分かり易い判決理由と罪名を掲げなければなりません。しかしイエスさまのために用意された罪名は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」です。こんなに分かりにくい「罪状書き」はありません。しかも、当時の万民が読めるようにと、ご丁寧にヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと言います。しかしこのわかりにくい罪状書きこそ、イエスさまに相応しい称号となりました。イエスさまこそ真にユダヤ人の王、いや世界の主なのですから。そしてこの見せしめの十字架という最も残酷な処刑こそイエス・キリストによる救いを全世界に及ぼすためにお選びになった父なる神の大いなる御摂理であったのです。誰にも見せるための十字架刑であったからこそ、この十字架の下にある全ての者に主イエス・キリストの救いが及び、そして永遠の命の門が開かれたのです。では、この十字架のイエスさまの下にはどんな人が集められていたのでしょうか。

 

1.4人のローマの兵士たち

 先ずローマの兵士達がいます。彼らはイエス・キリストから引き剥がした上着を四つに分け、下着をくじ引きにしたという記事から主イエス・キリストを十字架につけた兵士の数は4人であったことが分かります。彼らはこのようにして知らずに、詩編22:19の、「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」という預言の言葉を成就させていたのです。このようにして彼らは知らずに、全世界の人々を救うために御自身徹底的に貧しくなって下さった主イエス・キリストを証する器として用いられたのです。願わくは彼らが後に主の御前に悔い改めて救いを得、積極的な意味でも主イエス・キリストの証人とされていますように。

 

2.4人の女性の弟子たち

 ヨハネ福音書が語る十字架の光景は不思議なほど静かです。そこではローマ兵がイエスさまの着物を分け合うためにくじに興じる声以外には、他の福音書のように十字架上のイエス・キリストを詰ったり、嘲ったりする声は全く聞こえてきません。勿論実際にはそこは修羅場と化し、様々な罵声が十字架上の主イエスに浴びせられたことでしょう。しかしヨハネ福音書はその声を全く無視するかのように、十字架の下で静かにむせび泣く4人の女性を見落としません。彼らはみな遠くガリラヤの地から主イエスに従ってきた弟子たちです。12弟子の殆どが巻き添えを畏れて遠巻きに主イエスを見つめるか、どこかに雲隠れしてしまっているのに、彼らは恐れることもなく、主イエスの御声を何一つ聞き逃すまいと言うように十字架の下にうずくまっているのです。もしかしたら主イエスが苦しい息の下から語られた十字架上の七つのお言葉を、彼らこそその耳で聞くことができたから、そして後に機会ある毎に証して回ったから、四福音書の著者は彼女たちのその証によってそれを福音書の中に書き留めることができたと言っても過言ではないでしょう。愛の神は彼女たちの大胆な信仰を祝福して、彼らを十字架の真下という最も大いなる恵みの席に招待し、その上で世界最初の伝道者としてお用いになられました。礼拝の最前列が恵みの席という意味がここにあることを私たちは理解できるのです。

 

3.母と子

 他の三福音書に見られない大きな特長がここにあります。十字架上の主イエスは母マリアと一人の弟子を見て、彼らに言われました。母マリアには「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と、そして弟子には、「みなさい。あなたの母です。」と。実際この弟子は「その時からマリアを自分の家に引き取った」と言うことです。この出来事は何を私たちに教えているのでしょうか。主イエスが天に引き上げられた後、寄る辺ない一人の年輩の女性を引き取った美しい物語として読み過ごすだけで良いのでしょうか。マリアは本当に寄る辺ない女性なのでしょうか。血縁関係で言えば、彼女には他に沢山の子どもがいました。彼女を引き取る息子がいなかったとは思えません。それでも主イエスが敢えて彼女を弟子に託されたのはどう言うことでしょうか。十字架の下にある者は、血縁関係や人間の同情心を越えて、キリストにある交わりへと導かれるのです。これこそ教会のあるべき姿なのです。主イエスはこの弟子と母マリアとの結びつきを通して、教会の交わりというものを、天の父なる神の下にある霊的な家族へと聖別し、深め、且つ拡大させて下さるのです。

 私たちはかつてマタイ12:46以下を通してそのことを学んだはずです。主イエスは御自分の肉の家族が訪ねてきたとき、しかし弟子たちに、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と教えて下さったではないですか。今日人と人とのつながりが見えにくくなっています。仕事が忙しい、勉強が忙しいという言葉に隠れて家族の顔が見えなくなっている時代です。職場は企業戦士の群れと化して、お互いは仲間ではなく、うっかりするとけ落とされるかも知れないライバルとしか見えなくなっています。町を歩くと、人は気ぜわしく行き交うばかりで、少しでも体が触れようものなら争いになるかも知れない物騒な時代です。病院に行ってもお医者さまはカルテやパソコンに気を取られて患者の顔を見ようとしません。どこに行けば、人間は本当に人間らしく安心してお互いの顔を見、語り合い、労り合うことが出来るのでしょうか。主イエスは言われます。わたしの下に来なさい、と。十字架の血潮を受けることなしに、人間性を回復する道はないのです。家族が崩壊しそうな関係にある家庭があれば、是非にも教会にお連れして欲しいと思います。イエス・キリストの十字架の下に導いて上げてほしいと思います。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 先主日、あなたは「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語って下さいました。このみ言葉は今も私たちの心の奥深くに響いてきます。御子イエスの血潮が私たちの罪を全く贖いとり、清めて下さいました。この恵みを十字架の下に導かれて初めて現実のものとなりました。あなたは十字架のキリストにおいて、確かに今も生きて働いて下さっているからです。感謝します。私たちは今あなたの御許に全ての罪を悔い改め、それを告白致します。どうかまず私たちを清めて下さい。そしてあなたのみ救いの証人としてここからお遣わし下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む