グッドフライデー特別礼拝メッセ−ジ                           2002年3月29日

神と和解せよ

 コロサイの信徒への手紙 第1章19−20節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ポーランドの作家でシェーンキェビッチが書いた不朽の名作、「主よ、何処に」を読まれた方が多いと思います。ローマの皇帝ネロによってキリスト教会は言語に絶する迫害を受けた歴史の一こまを小説風に著したものです。

 迫害の手はついに使徒ペテロにまで及んできました。ペテロは敢然とそれに立ち向かい、殉教も辞さない覚悟でした。しかし、地下教会のメンバーは彼の死を惜しみ、「自分たちが防波堤になるから、ここはひとまず逃げられるだけ逃げて欲しい、あなたにはまだ教会の為に働いていただかなければならないことが沢山ある」と逃亡を強く勧めます。ペテロは遂にその声に押し切られてローマから去る決意をしました。ローマを背にして歩く彼の足取りは重く、何か忘れ物をしたような感じです。と、その時、遙か前方から見覚えのある一人の男の姿が近づいて来ます。すれ違いざまに、それが愛する主イエスであることに気が付きました。ペテロは思わず、「クォーヴァディス、ドミネ。主よ、何処に」と呼びかけました。すると主は言われます。「お前がわたしの民を置いて去るならば、わたしは再び十字架にかけられるためにローマへ行くだろう」と。この、「再び」と言うところがこの小説のキー・ポイントだと思います。かつてペテロはエルサレムで主イエスが捕らえられたとき、「わたしはあの人を知らない」と三度まで主を裏切った前科があります。そして今、四度目もこのローマで主の教会を捨てて逃げ去ろうとしているのです。主の教会を捨てると言うことは主のからだである教会を捨てるのですから、それは主御自身を捨てるのと同じなのです。これが著者の読者に対するメッセ−ジなのです。ペテロはどうしたでしょうか。「もう一度十字架にかけられる」という言葉を聴いたとき、彼は踵を返してローマに戻り、遂に殉教するという作品です。勿論これは伝説を題材にした小説です。しかし、著者が私たちに伝えようとしているメッセ−ジは真理です。

 

 もう一つ今度は実話をお話ししましょう。沢村伍郎という神学校の校長を勤め上げた牧師がいました。彼が刑務所伝道をしていたときのことです。多くの受刑者にイエス・キリストの福音を伝えました。メッセ−ジを聴く中に一人の死刑囚がいましたが、彼は過去の一切の行状を悔い改め、回心してクリスチャンになりました。彼は若い頃からありとあらゆる罪を犯した末に、60代を少し過ぎた一人住まいの女性が代々受け継いできた不動産をだまし取った上、山林に連れて行って惨殺してしまいました。刑事さんや検事の方々の取り調べにも、また裁判の間も罪の意識のかけらも見せなかった彼ですが、沢村先生の語るイエス・キリストのメッセ−ジによって、自分の犯した数々の罪を否定し切れなくなりました。こんなに罪深い者のためにもイエス・キリストは十字架に死んで下さったと、本当に信じても良いのかと何度もひつこいくらい彼は沢村先生に尋ねたそうです。信じて良い、イエスさまはあなたのためにこそ十字架に死んであなたの罪を完全にぬぐい去ってくださったのだと師は懇々と語り聴かせました。彼は生まれて初めて男泣きに号泣しました。そして罪の一切を悔い改めて告白し、刑務所長さんの特別の計らいで用意された風呂場でバプテスマを受けることが出来ました。それからしばらくして処刑されることになりましたが、処刑の前に彼は長い長い手紙を沢村先生宛に遺し、刑務所長以下関係者、そして沢村先生の見守る中、天に召されて行きました。

 その手紙は後に公開されて日本ミッションという団体がテープに吹き込んで伝道に用いるようにもなりました。わたしもそのテープを聴かせていただきました。そこには神に敵対していた時代の生々しい体験談がありました。イエス・キリストにとって救い得ない罪はないと言う確信を強くさせられました。死と隣り合わせに生きる極限状態にある人の言葉であるだけに余計に説得力を感じました。

 シェーキェビッチが取り次ぐイエス・キリストのメッセ−ジは、「わたしはあなたのために十字架にかかる」と言う恵みの言葉でした。あの死刑囚は、いかなる罪人であっても救われない罪はない。この世に生かされている間、イエス・キリストを信じるのに遅すぎるというとはないと言うメッセ−ジを私たちに伝えてくれました。

 

 「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」

 

 今日、3月29日はイエス・キリストが十字架にかけられたことを記念する日です。私たちはこの日、不当な裁きの下に十字架刑を言い渡され、重い十字架を担い悲しみの道を歩まれたイエスさま、ゴルゴダの丘でその十字架に釘付けられたイエスさまをただおいたわしいと悲しみの内に思い起こすだけで良いのでしょうか。イエスさまの十字架を偲んでその苦しみを自分の体で体現するだけで良いのでしょうか。神はそのようなことを喜ばれないでしょう。そうではなく、この日が何のため、誰のためであったのかを良く考えて、感謝の内に神を讃美することこそ、この日に相応しいのです。私たちは生まれ落ちたときから、無意識の内に神に敵対して罪に罪を重ねてきた者です。しかし、神の方から仲良くしようよ、と言いながら手を差し伸べて下さっています。それが十字架のイエス・キリストです。どうぞ今、神が差し伸べて下さった和解の御手にすがる者となって下さい。今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じ受け入れて下さい。 祈りましょう。

 

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今日の佳き日を心から感謝します。あなたの御子イエス・キリストが十字架に上げられたのはこの世の時間では2千年も昔のことでした。しかし十字架による救いの効力は時間を超え、空間を超えてこの場にいる私たちのためにいささかも失われてはいません。私たちは今わかりました。私たちが心の向きを180度あなたの方に向きを変えるとき、あなたには私たちを受け入れる用意がすでに整っていることを、十字架に於いてお示し下さっていることを私たちは知ることが出来るのです。私たちは、私たちの方からあなたに対して赦しを乞うべきですのに、あなたの方からこのような恵みをお与え下さいました。あなたの伸べて下さった和解の御手にただ驚くばかりです。今、私たちは自分の内に積もりに積もった罪の事実を認めます。悔い改めます。そしてあなたを救い主と信じます。どうか私たちをの罪を赦し、私たちを受け入れて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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