【主日礼拝―イースター―メッセ−ジ要約】                           2002年3月31日

最も大切なこと

 コリントの信徒への手紙一 第15章3−8節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエスさまの復活は、彼が神の独り子であることを明らかにしました。聖書の中にイエスさまが神の御子であることを証明する3つの記録があります。@処女降誕、A数々の奇蹟、B十字架の死と甦りがそれです。日本のクリスチャン人口は0.8%以下と言われていますが、元クリスチャンやキリストファンは沢山います。この人々は教会を捨てたかも知れませんが、聖書を捨ててはいません。イエスさまを心の底では今も憧れているのです。ではこの人々をもう一度教会に呼び戻すには何が必要でしょうか。明確な復活信仰に立ち戻ってもらうことです。どんな魅力あるイベントを試みて人を集めても、それは一時感動を与えるでしょうが、再び潮が引くように人々は去って行くでしょう。

 多くの人はクリスマスを歓迎します。主イエスの奇蹟に感動します。しかし十字架の手前で躓くのです。多くの人が教会を去って行くのは十字架のイエスさまについて行けなくなるからです。しかしそれを責めることは誰にもできません。主イエスが心込めて育てた12人の弟子たちでさえ、十字架の手前で1人はイエスさまに失望して彼を売り渡しました。外の弟子たちも結局イエスさまを見捨てて逃げ去って行きました。イエスさまが十字架に死なれたとき、弟子たちの信仰も死んでしまったのです。弟子のトマスは、「この手とこの目で確かめない限り信じない」と言いました。私たちの信仰もその程度のものなのです。口で信仰、信仰と言っていながら、ここぞと言うところに立たされたとき、見なければ信じられないし、納得しない内は応じられないのです。そのトマスがどうして立ち直れたのでしょうか。イエスは甦られたという弟子仲間の言葉を拒絶しながらもイエスさまを信じる群れの中に立ち続けたからです。すると、その群れの中に甦りの主が現れて下さいました。そしてトマスに御自分の傷を示し、「信じない者にならないで、信じる者となりなさい」と御声をかけて下さいました。トマスはその瞬間から、復活の証人として立ち上がりました。

 復活が信じられない人のためにはこのみ言葉で十分ではないですか。教会を離れている人を呼び戻すのに十分なみ言葉ではないですか。「見なければ、さわらなければ信じない」などと愚かな言葉を繰り返すことをやめましょう。トマスに示された主のご配慮はあなたのためであったと謙虚に受けとめて、感謝の内に信じて下さい。

 


【主日礼拝―イースター―メッセ−ジ】                            2002年3月31日

最も大切なこと

 コリントの信徒への手紙一 第15章3−8節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

これは「使徒信條」と言います(OHP教団讃美歌566番)。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖書によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命(いのち)を信ず。アーメン。」

 使徒信條は紀元2世紀後半にローマ教会がバプテスマ志願者に教えた基礎的な信仰告白として採用されたもので、以後ローマ・カトリックからプロテスタントへと教派を問わず継承されてきたものです。ここには父、御子、聖霊の三位一体の神と復活のイエス・キリストが昇天し、最後の審判主として再臨なさるという信仰、教会はこの約束を信じる聖なる交わりの群れであるという告白が表明されています。この使徒信條は誰かの創作ではありません。告白されている全ての言葉は聖書に基づいたものです。その土台となるものが今日開かれたコリントの信徒への手紙一と言うことが出来ます。使徒パウロはこの手紙の15章を通して、第一にイエス・キリストの復活の事実、第二にイエス・キリストの復活の意義について教えています。

 

一、キリスト復活の事実

 香川県の丸亀城東町キリスト教会にいた頃、裁判官の家族、現職検事や元検事、刑事の家族等、司直関係者幾人かと礼拝を共にしていました。一人の検事さんが「被疑者を取り調べる上で聖書、特にこの15章を座右の銘にしている。何故か、説得力のない証拠に優るもの、それは目撃証人だから」と語ってくれました。

 使徒パウロはイエスさまの復活が確かである証拠はそれを目撃した証人の数にあるというのです。新約聖書を見ますと、復活のイエスさまに接した人々はグループにして14組にも上ります。女性の弟子たちが最初の目撃者でした。次に12弟子ですが、彼らの中には2回以上イエスさまに出会った人もいます。更に500人以上の人に同時に現れたと言うことです。これだけ多くの人々が復活のイエスさまに出会ったというのです。彼らは幻を見たのでしょうか。1人や2人の言うことならそれもあり得るでしょう。しかしこれだけの数の弟子たちが嘘の証言をしているとは到底考えられません。パウロがこの手紙を書いたのは紀元50年代半ばと言われています。主の復活から20年そこそこの時代です。この目撃証人の多数はその頃なお生存していると言うことです。信じる根拠は山積みです。

 もう一つイエスさまの復活を確かな事実と信じる証拠があります。それはイエスさまを訴えて十字架につけた祭司集団やファリサイ派の人々の言動です。彼らはイエスさまが「わたしは、三日の後に甦る」と言われた言葉を思い出して主イエスに十字架刑を言い渡したピラトの所に行って墓の前に番兵を置いて欲しいと頼み、許されました。しかしその番兵の見ている前で主は甦られたのです。番兵たちは都に帰り、祭司長たちに見たまま聞いたままを報告しましたが、祭司長たちは兵士たちに金を与えて、「自分たちが眠っている間に弟子たちがイエスの遺体を盗み出したと言いなさい」と嘘の証言を頼みました(マタイ27:62−66,28:11−15)。番兵たちはその言葉に従って嘘の証言をして回ったと言うことです。しかしこのような偽証は却って番兵たちの命取りになるはずです。重要な任務を放棄して眠りこけたということがピラトの耳に達したらどう言うことになるでしょう。第一弟子たちにはイエスさまの遺体を盗み出すような勇気などありません。その頃イエスさまの巻き添えを恐れた彼らはある家の二階座敷に集まり、戸を固く閉じて身を潜めていたのですから(ヨハネ20:19)。偽りの証言は必ず新たな矛盾を産むものです。こうして祭司長たちも兵士たちもイエスさまの復活を否定するために努力すればするほど、反対にイエスさまの復活を確かな証拠と裏付けているのです。

 更に復活の事実を物語るものは、安息日を土曜日から日曜日に呼び変えたことです。これまでは金曜日の日没から土曜日の日没までを「聖なる安息日」として、その日に礼拝を献げていましたが、復活の主は「週の初めの日」の朝に甦られました。そしてその日の夕方にも、また次の週の初めの日にも弟子たちの前にご自身を現しておられます。それで弟子たちもこれに倣って、これまでの安息日礼拝から週の初めの日の日曜礼拝へと次第に変更して行くようになりました(使徒言行録20:7,气Rリント16:2)。紀元1世紀末ともなると、使徒ヨハネが黙示録1:10の中で、「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、…」と言うように、「週の初めの日」のことを「主の日」と呼んでいます。これは旧約時代の預言者たちが終わりの日、最後の審判の日をさして、「主の日」と呼んでいたことと一致します。初代の教会は、イエスさまが甦られた日を「主の日」と呼ぶことで、この日を望みなき終わり、罪人を滅亡へと突き落とす最後の審判の日ではなく、罪人であってもイエス・キリストを信じる者は、復活の主によって救われるという希望に裏打ちされた「終末論的主の日」としての、初代教会の信仰告白そのものなのです。そしてまた、イエス・キリストの復活によって世界の歴史はイエスさまを中心に回転していることが明らかになりました。キリスト以前を紀元前、キリスト以後を紀元後と呼ぶびますが、通常クリスマスと絡めて考えられているようですが、厳密にはキリストの復活あってこそクリスマスの意味がより豊かにされることを忘れてはなりません。日曜日を聖日と呼ぶ人がいます。間違いではありません。しかし多くのキリスト教会では土曜日の安息日礼拝を重視するユダヤ教や、キリスト教会であっても土曜日に礼拝を献げるセブンスデー・アドベンティストと明確に区別するために、敢えて「主の日の礼拝」とか、「主日礼拝」とか呼ぶようにしています。

 

二、キリスト復活の意義

 では、イエスさまの復活にはどのような意義があるのでしょうか。またそれは私たちにどのような影響を与えるのでしょうか。

 イエスさまの復活は、イエスさまが神の独り子であることを明らかにしました。聖書の中にイエスさまが神の御子であることを証明する3つの記録があります。@処女降誕、A数々の奇蹟、B十字架の死と甦りがそれです。今日日本のクリスチャン人口は0.8%以下だと言われていますが、元クリスチャンやキリストファンは外にも沢山います。この人々は教会を捨てたかも知れませんが、聖書を捨ててはいません。イエスさまを心の底では今も憧れているのです。ではこの人々をもう一度教会に呼び戻すには何が必要でしょうか。それは明確な復活信仰に立ち戻ってもらうと言うことが必要なのです。どんな魅力あるイベントを試みて人を集めても、それは一時感動を与えるでしょうが、再び潮が引くように人々は去って行くでしょう。多くの人はクリスマスを歓迎します。主イエス・キリストの奇蹟に感動します。しかし、十字架の手前で躓くのです。多くの人が教会を去って行くのは十字架のイエスさまについて行けなくなるからです。しかしそれを責めることは誰にもできません。主イエスが心込めて育てた12人の弟子たちでさえ、十字架の手前で1人は政治的野心を持たないイエスさまに失望してイエスさまを売り渡しました。外の弟子たちも結局イエスさまを見捨てて逃げ去って行きました。イエスさまが十字架に死なれたとき、弟子たちの信仰も死んでしまったのです。

 しかしその弟子たちが聖書を僅か数頁めくっただけで、全く人が変わったように、大胆にイエス・キリストの救いを宣べ伝える者に変えられているのは何故でしょうか。主イエス・キリストの甦りと共に彼らの信仰も甦ったのです。弟子の一人トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました(ヨハネ20:25)。私たちの信仰もその程度のものなのです。口で信仰、信仰と言っていながら、ここぞと言うところに立たされたとき、見なければ信じられないし、納得しない内は応じられないのです。そのトマスがどうして立ち直れたのでしょうか。それはイエスは甦られたという弟子仲間の言葉を拒絶しながらもイエスさまを信じる群れの中に立ち続けたからです。すると、その群れの中に甦りの主がご自身を現して下さいました。そしてトマスに御自分の傷をお示しになって、「信じない者にならないで、信じる者となりなさい」と御声をかけて下さいました。トマスはその瞬間から、復活の証人として立ち上がりました。

 今もなお復活が信じられないと言う人のためにはこのみ言葉で十分ではないですか。教会を離れている人がいるとして、その人を呼び戻すのに十分なみ言葉ではないですか。「どうか、わたしにもあなたの十字架の傷を、また槍の傷をお見せ下さい」などと愚かな言葉を繰り返すことをやめましょう。トマスに示して下さった主のご配慮はあなたのためであったと謙虚に受けとめて、感謝の内に信じて下さい。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

あなたの御子イエス・キリストのお甦りを心から讃美し、また感謝します。主が十字架に死なれたとき、私たちの信仰も一時は死にました。しかし主は疑う弟子たちに、御自身をお示し下さったことによって、彼らの信仰も甦りました。聖書は実に復活の証人による証言集であります。今から私たちを復活の証人として生活の場へと新たにお遣わし下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


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