【主日礼拝メッセ−ジ要約】                           2002年4月7日

望みを主に

 イザヤ書40章31節

「主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。
      走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 人は誰でも幸福の青い鳥という「希望」を探し求めています。この世の希望はそれに頼る人を一時(ひととき)楽しませてくれますが、やがて萎(しお)れて、むしろ失望となるのです。しかし決して萎れることのない、真の希望を与えて下さる方がおられます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)と言われているとおりです。

 ではその希望を実現させるために、私たちは何を為すべきでしょうか。聖書は「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る」と言います。鷲は翼を一杯張り広げることによって上昇気流に乗ることが出来ます。そうしながら、地上にうごめく生き物の動きを見逃しません。神を待ち望む人生もまた悠然と翼を張って空高く上る鷲のようなものだと言います。神を待ち望むということは神を信頼すると言うことです。地上のこと、目の前の出来事に心が奪われて一喜一憂している間はどうしても後ろ向きの考え方になります。新約聖書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1)と言う1節があります。私たちが本当に神に対して希望を抱いているというのなら、ただ一筋に信仰という翼をいっぱいに張って、御霊なる神に身を任せることです。目に見えるところ、何の展望も確認できない今こそ、「主に望みをおく」のです。神があなたに抱いておられるご計画を信じることです。

 イザヤ書40章の時代、預言者は多くの同胞と共に異国の地で捕囚の身でした。捕囚の地から解放されるという何の保証もありません。しかし彼はその厳しい現実の中で、聖書を通して静かな細い神の御声を聴き取りました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(1節)言う生ける神のみ言葉として聴き取ったのです。あなたの人生もまた厳しい日々でしょう。しかし神を信じて下さい。さまざまな雑音が鳴り響く巷(ちまた)にではなく、主の宮であなたに語りかける静かな細きみ言葉に耳を傾けて下さい。信仰という翼を一杯に張り広げて下さい。そうすれば、絶望の淵をさまよっていたあなたの生活は御霊の上昇気流に乗って恵みの空高く駆け上ることができます。見えるところによらず、見えないものにこそ目を注ごうではありませんか。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                               2002年4月7日

望みを主に

 イザヤ書40章31節

「主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。
      走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「希望」、何という響きの良い言葉ではないでしょうか。皆さんはこの年度、どのような希望を見いだされたでしょうか。それはどこに根拠を持つ希望でしょうか。その希望を実現させるために、私たちは何をすべきでしょうか。この希望を持つことによって私たちの生き方はどのように変えられるのでしょうか。今朝はこの「希望」について聖書に聴いてみたいと思います。

 

1. 希望の拠り所

 「希望と言う名の あなたを訪ねて」という歌があります。確かシャンソン歌手の岸洋子という人が歌っていたと思います。多くの人は幸福な人生を保証してくれる「希望」を探し求めています。この世には見せかけの希望があれこれと並べられています。しかし、この世の希望はそれに頼る人を一時(ひととき)楽しませてくれますが、やがて萎れてしまい、むしろ失望となるのです。聖書は言います。あなたが抱くべき希望の拠り所、それは主なるイエス・キリストの父なる神にあるということを。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)と言われているとおりです。あなたにとって必要なことは、「希望の神」との出会いです。受け売りを許していただきたいのですが、「望みをおく」というヘブル語聖書の動詞は「コーヤー」と言い、ギリシャ語では「エルピゼイン」と言うそうです。この言葉は旧約・新約を問わず、聖書の中に随分たくさん見られます。通常「待ち望む」という意味で用いられています。聖書が私たちに示してくれる希望はこの世に求めるのではなく、神に求めるべきです。「希望」と「欲望」を混同させてはなりません。神に対して顔向けできない希望は希望ではなく、罪にまみれた欲望であることを忘れてはなりません。

 聖書は「主に望みを置きなさい」と言っています。原語では「主を待ち望む」となっています。私たちが本当に抱くべき希望はイエス・キリストの父なる神と顔と顔を合わせて見(まみ)えることでなければなりません。使徒パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(气Rリント13:12−13)と言っています。希望の源である主なる神御自身を求めてこそ、私たちの人生は新しい力を得て祝福されるのです。

 

2. 希望を得るために

 ではその希望を実現させるために、私たちは何を為すべきでしょうか。預言者は「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と言います。鷲は翼を一杯張り広げることによって上昇気流に乗ることが出来ます。そうしながら、地上にうごめく生き物の動きを見逃しません。預言者は神を待ち望む人生もまた悠然と翼を張って空高く上る鷲のようなものだと言います。鷲が翼を張って空を舞いかける姿を想像してみましょう。神を待ち望むということは神を信頼すると言うことです。地上のこと、目の前の出来事に心が奪われて一喜一憂している間はどうしても後ろ向きの考え方になります。新約聖書にこういう1節があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1)と。私たちが本当に神に対して希望を抱いているというのなら、人間的な努力に頼ることをやめなければなりません。ただ一筋に信仰という翼をいっぱいに張って、御霊の風に身を任せることです。私たちの教会は今まさにこの信仰が求められています。「主に望みをおく」ことです。信じて神がこの教会に抱いておられるご計画に従いましょう。

 今日の聖書、この預言者の時代、現実にはいまだ異国の地で多くの同胞と共に捕囚の身でした。現実は厳しいままでした。見たところ捕囚の地から解放されるという何の保証もありません。しかし彼はその厳しい現実の中で、聖書を通して静かな細い神の御声を聴き取りました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(1節)言うみ言葉を聴いたのです。儚い幻想としてではなく、生ける神のみ言葉として聴き取ったのです。個人としてのあなたの人生もまた厳しい日々でしょう。しかし神を信じて下さい。さまざまな雑音が鳴り響く巷にではなく、主の宮においてあなたに語りかける静かな細きみ言葉に耳を傾けて下さい。このみ言葉に心底頼り、信仰という翼を一杯にはり広げて下さい。そうすれば、絶望の淵をさまよっていたあなたの生活は御霊の上昇気流に乗って恵みの空高く駆け上ることができます。この教会に於いても私たちは同じ希望を与えられています。見えるところによらず、見えないものにこそ目を注ごうではありませんか。

 

3. 希望がもたらすもの

 神から来る希望は私たちに新しい生き方を教えてくれます。私たちはこれまで自分の頭脳や経験や若さにものを言わせて一生懸命生き抜いてきました。しかし人間の知力、体力、精神力には自ずと限界があります。弱ってきます。疲れます。悔しいことですが、昨日できたことを今日やろうと思っても出来ない自分に気が付くとき、私たちは愕然とさせられます。最近まであんなに夢中になれたのに、今はどうにも気が乗らないと言うことがあります。これを称して老化現象というのでしょうか。

 「病得て、靴はく我の頭上より、様々の注意、落ち葉の如し」という短歌があります。この歌の作者は脳溢血で倒れました。しかし幸いなことに癒されて、後遺症も軽度で済みました。しかしそんな彼が外出しようとすると、靴は脱いだり履いたりし易いズックにしろ、杖を忘れるな、道で倒れたときのために名札は持ったか、診察券は、ハンカチは、洋服のボタンを掛け違っていないかとか、実に庭木が風に吹かれて大量に舞い落ちる枯れ葉のように家族全員の注意が集中するのです。親切は有り難いが、度が過ぎるとうるさい、しかしこれが現実であれば悔しいが、受け入れるしかないと言う心境を歌ったものです。

 この預言者も世的には短歌の作者に近い経験の持ち主かも知れません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」と言います。いつまでも若いと思っていたが、生活の所々で限界を感じ始めているのです。しかし、と彼は言います。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と。使徒パウロも、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリント4:16)と言います。そうなのです。信仰の世界は外なる人の元気さに任せて人間的な努力をするのではなく、御霊なるキリストが宿って下さる『内なる人』によって日々新たにされるのです。疲労回復などと言う段階ではありません。預言者も、そして使徒パウロも「年を重ねても疲れを覚えることのない」人生の秘訣を教えています。それは繰り返しますが、イエス・キリストを内に宿す人生です。「わたしが」、「わたしが」という自我に頼る生き方ではなく、希望の主、イエス・キリストの父なる神に望みをおいてこの方を頼りに生きることです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 新しい年度を迎えました。学校でも職場でも新入生で溢れています。彼らは希望に胸ふくらませて新しい一歩を踏み出しました。しかしその希望があなたから出たものかどうか、彼らは知る由もありません。真の希望に満ちた人生の道を知らしめることが出きる者、それは私たちを置いて外にありません。主よ、どうか先ず私たちをあなたに生きる者として下さい。この教会を御霊の力で満たしてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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