【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2002年4月14日

「神への愛、人への愛」

マタイによる福音書22章34−46節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 人々は「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と主イエスに尋ねました。主はこの質問の意図がどこにあろうとも誠実に答えて下さいます。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい。」(前半;申命記6:5、後半;レビ記19:18からの引用)と。

 一言でいえば全身全霊で神と隣人を愛しなさいと言うことです。私たちの神は天と地の創造主、私たちを十字架に於いて罪と死と滅びの縄目から自由にし、永遠の生命を賜った唯一真の救い主なる神です。私たちを丸ごと愛して下さったこの方を私たちも全身全霊で愛することを忘れてはならないのです。感謝と喜び、そして緊張と畏れを以てこの方の前に跪くことなくして私たちはこの主なる神を愛しているとは言えないのです。しかし、私たちはこのような愛し方を神に対して、人に対して考えたことがあるでしょうか。現実は丸っきり反対です。いつでもどこでもまず自分です。私たちは自分が一番大切で可愛いのです。

 だが意外なことに、聖書を注意深く読むとそこの所を考えさせられます。「自分のように」という前提を軽く考えてはいけないのです。私たちは先ず自分自身を愛して良いのです。自分を愛(いと)おしむ思いがあって良いのです。昔も今も世の中がぎすぎすしています。余りにも人の命を軽く考えているようでなりません。主は世の終わりが近いことを悟る手掛かりとして、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われましたが(マタイ24:12)、昨今人と人との心の隙間が大きくなり、冷え冷えしたものを感じないでいられません。その原因を私たちは社会の仕組みや政治、経済の所為(せい)にし勝ちですが、聖書は言います。「一人ひとりが本当に自分を愛せていないところに原因がある」と。

 私たちはもっと自分を愛おしむ心が必要です。私たちは他の誰でもない、この私のために命をさえ捨てて下さったイエスさまによって救われているのだと言うこと、愛されているのだと言うことを深くふかく悟るべきです。神に愛されている自分を思えば、隣人のことも大切に思えてくるはずです。私たちを愛してくださる神さまは、隣人をも愛して下さっているのですから。それが分かったら、隣人を自分のように愛する」ことができるのです。全ての人は十字架のイエスさまの御前に立つことによって、聖書の言う「愛」の意味を知ることが出来るのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                            2002年4月14日

「神への愛、人への

マタイによる福音書22章34−46節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 明治維新の功労者である西郷隆盛という人は34−40節から「敬天愛人」という四文字熟語を考えつきました。多くの人によってこれを黄金律とも言われ、また愛読されています。私たちは今朝、主イエスとユダヤ教の指導者の間で交わされた対話を通して、その主題となった「愛」について学ぼうとしています。「神への愛」と「人への愛」です。最も美しい言葉でありながら、最も難しいのが「愛する」と言うことです。教会生活の長い短いを問わず、今初めて聞く思いで謙ってみ言葉に聴くことにしましょう。ユダヤ教の指導者、特にファリサイ派の学者たちは、民衆がそれぞれの生活の場で聖書の戒めを実践しやすいように、特に創世記から申命記までのいわゆるモーセ五書と言われる律法全体を248の積極的な戒め、即ち「…しなければならない」という命令と、365の消極的な戒め、すなわち「…してはならない」と言う命令とに分析してくれています。それでも人々は、時々どちらの戒めに従うべきか迷うことがありました。例えば、食うや食わずの生活をしている人が僅かな金品を前にして、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めと「神に対してイスラエルの会衆としての誓いを果たせ」と言う戒めのどちらを優先すべきか迷います。神を第一に考えるなら神に献げるべきです。しかし親不孝はもう一つの戒めに背くことなのです。会衆が待つ礼拝の時間に遅れることはその奉仕者である祭司・レビ人には許されないことです。しかし今目の前で瀕死の重傷を負っている人を見て見ぬ振りすることはこれまた民の模範である祭司・レビ人に許されることではないのです。このジレンマをどのように解決すればよいのでしょうか。

 

 それで彼らは目の前におられる主イエスに尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。とても良い質問です。しかしマタイによる福音書の著者によると、彼らはこれを純粋な思いからではなく、主イエスを試そうという底意地の悪さからのものであったと言うことです。彼らは律法の専門家なのですから、正解は分かっていたはずです。今更聖書のイロハを教えて貰う必要はないのです。だからこそ、この「イエスを試そうとして」という言葉の持つ意味を考えると悲しくなります。聖書は神のみ言葉です。聖書の前には全ての人が謙らずにおれないはずです。それなのに聖書を武器に、人を陥れようと言う底意地の悪さをイエスさまはどんなに悲しく思われたことでしょう。主イエスの溜息が聞こえてきそうです。

 

 それでも主イエスはこの質問の意図がどこにあろうとも誠実に答えて下さいます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。並行箇所のマルコ12:30には「力を尽くして」が加えられています。一言でいえば全身全霊で主なる神を愛しなさいと言うことです。この戒めは聖書全体のエキスであると言われました。この戒めの出所は旧約聖書申命記6:5です。

 

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。4節にも注目して下さい。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である」。「聞け」というヘブル語は「シェマ」と言います。それでユダヤ人はこの戒めを「シェマ」と読んでいます。また6節以下に「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」とあります。それでユダヤ教の会堂では礼拝の度毎にシェマを告白し、人々は日に二回これを口に唱えます。忘れっぽい人が大切なことを書いた紙を手に巻き付けるようにこのみ言葉を結び、昔日本の山伏が「六根清浄」と言いながら額に経文を書いた紙切れの入った箱をくくりつけたように、このみ言葉を「覚えとして額に付けて」歩きなさいとモーセは命じました。私たちが愛すべき神は、八百万のどこにでも手軽に作り出せる神ではありません。天と地の創造主、イスラエルの人々を奴隷の地エジプトから解放して下さった神、私たちを十字架に於いて罪と死と滅びの縄目から自由にし、永遠の生命を賜った唯一真の救い主なる神です。私たちを丸ごと愛して下さったこの方を私たちも手に額に、全身全霊で愛することを忘れてはならないのです。感謝と喜び、そして緊張と畏れを以てこの方の前に跪くことなくして私たちはこの主なる神を愛しているとは言えないのです。主イエスは更に続けて言われます。「第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。「律法全体」は分かります。モーセ五書のことです。ではそれに続く「預言者」は何をさしているのでしょうか。このみ言葉にも注目しましょう。これこそサドカイ派の人々が聖書と認めないヨシュア記から残り全部のことです。主イエス御自身39巻全てを旧約聖書とお認めになっておられる証拠です。そして主イエスは言われます。旧約聖書39巻全ての所で「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と戒められていると言われます。主なる神を全身全霊で愛することを求める主イエスは隣人に対しても全身全霊を以て愛しなさいとお命じになります。

 

 私たちはこのような愛し方を神に対して、人に対して考えたことがあるでしょうか。私たちの生き方はまるっきり反対です。いつでもどこでもまず自分です。私たちは自分が一番大切でかわいいのです。クリスチャンでありながら、主である神さまも隣人も自分の生活の視野からとても遠い存在になってしまっているのです。でも考えて下さい。私たちはその自分をさえ本当に愛しているでしょうか。大切にしているでしょうか。聖書を注意深く読むと、実にそこの所を考えさせられるのです。「自分のように」という前提を軽く考えてはいけないのです。私たちは先ず自分自身を愛して良いのです。自分を愛おしむ思いがあって良いのです。昔も今も世の中がぎすぎすしています。余りにも人の命を軽く考えているようでなりません。主は世の終わりが近いことを悟る手掛かりとして、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われましたが(マタイ24:12)、昨今全ての世界で冷え冷えしたものを感じないでいられません。その原因を私たちは社会の仕組みや政治、経済の所為にし勝ちですが、聖書は言います。「一人ひとりが本当に自分を愛せていないところに原因がある」と。私たちはもっと自分を愛おしむ心が必要です。私たちは他の誰でもない、この私のために命をさえ捨てて下さったイエスさまによって救われているのだと言うこと、愛されているのだと言うことを深くふかく悟るべきです。神に愛されている自分を思えば、隣人のことも大切に思えてくるはずです。何故なら私たちを愛してくださる神さまは、当然隣人をも愛して下さっているのですから。それが分かったら、隣人を自分のように愛する」ことができるのです。全ての人は十字架のイエスさまの御前に立つことによって、聖書の言う「愛」の意味を知ることが出来るのです。

 

 最後に、もう一つ重要な教えがあります。主イエスはファリサイ派の人々に、「メシアがダビデの子なら、どうしてダビデ自身、メシアを主と呼んでいるのか」と問いかけました。これに答えうる人は誰もいませんでした。メシアとはヘブル語で、救い主という意味です。主イエスがここで引用された聖書は旧約聖書の詩編110:1です。この詩編によって、ユダヤの人々はメシアはダビデの子孫としてお生まれになると信じていました。ある人はこのように信じているユダヤ人のことを、「彼らはブランドもののメシアを待望していたのだ」と評しています。ダビデの子メシアとは王家の末裔として、力の主として、この世の君としてローマの圧制を覆してくれるメシアを待望していたのです。しかし、主イエスはそのような迷信をきっぱりと否定なさったのです。

 

 主イエスは確かにマリアを母としてダビデの血統を戴く家にお生まれになりました。しかし、主イエスにとって本当につくべき王座は十字架でした。主イエスは言われます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と。愛をテーマとした語らいに相応しい主イエスの宣言です。このみ言葉は私たちに次の聖書の一節を思い起こさせてくれます。

 

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償いいけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ4:10)と。世は今もブランドもののメシアを待ち望んでいます。八百万の神々は、「力こそ神」という哲学の産物と言いきる人がいますが、皆さんはどう思われますか。少なくとも靖国にはその匂いが醸し出されます。聖書がわたしたちに証言するメシア像、キリスト像は低きに上る主イエスの中にこそ見られます。

 

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス・キリストの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主であると』公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6−11)   

 

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

世は高級なブランド商品を求めるようにかっこよいキリスト、この世の力に満ちたキリストを待ち望んでいます。このような誤ったキリスト待望が自分の中に宿って下さる神の愛を退け、隣人を拒否し、利己的な生き方から逃れられない結果を招いています。しかし、今朝あなたはこの世に真の愛を告げ知らせて下さいました。あなたのメッセ−ジによって今朝私たちは、本当に名誉ある生き方は低きに下り、最も高きに上られた十字架のイエス・キリストを告白することから始まることを知りました。どうか私たちの心をもっと謙らせて、全身全霊を以てあなたを愛する者、隣人を自分のように愛する者と造り変えて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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