【主日礼拝―聖霊降臨記念日−メッセ−ジ要約】                            2002年5月19日

「聖霊を悲しませるな」
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、
あがないの日に対して保証されているのです。」エフェソの信徒への手紙4章30節
メッセージ:高橋淑郎牧師

  

 主イエスの復活から50日目に約束の聖霊が弟子たちの上に臨まれました。これを「聖霊降臨」と言います。その1人ペテロは、「この世に来られた神の御子イエスさまをユダヤ人が十字架につけて殺してしまったが、神は彼を甦せた。私たち主イエスの弟子はそのことの証人として選ばれた。全ての人は罪人であるが悔い改めるなら、イエス・キリストの十字架の贖いの故に全ての罪を赦し、清め、永遠の生命を持つ身として下さる」と神からのメッセ−ジを伝えました。するとこれを聴いた人々は心打たれて悔い改め、主イエスを救主と信じてバプテスマを受けました。その数何と3,000人です。聖霊の働きです。この時からキリスト教会が誕生しました。今ではほぼ全世界にキリストの教会があると言えます。

 しかし教会の数は増えても、古い罪の性質を温存している限り、聖霊を悲しませるような自己中心の生き方、人間関係、物事の処置の仕方に立ち戻ってしまいます。どうしてこうなるのでしょう。クリスチャンといえども「この世の時」に捕らわれる余り、「神の時」を忘れてしまうからです。足元を見ながら歩くことが悪いというのではありません。しかし、足元のことばかりに気を取られていては目標を見失ってしまいます。ここに言う「贖いの日」とは、人生の目標とすべきイエス・キリストの「再臨の日」という意味です。不完全なクリスチャンであっても日々み言葉に聴き、祈り、悔い改め、神と人からの和解を受け、教会の交わりと主の晩餐を尊ぶ、即ち清めを求める生活を地上の生涯を通して継続することによって、再臨の日、主イエス・キリストは完全な罪の贖いを成し遂げて下さるのです。しかしクリスチャンとは言え、このことを人間的な頑張りでできるものではありません。聖霊の助けが必要です。足元の生活、政治・経済の問題、平和・環境・人権の問題、仕事や健康、日常の様々な問題もなおざりに出来ません。だからこそ、人間の価値観によってではなく、聖書を通して語られる御霊なるキリストに聴き従うことが肝要です。神は天におられるのです。そこから全ての問題を見ておられる神に聴き従うことなしに真の問題解決は得られません。地上の問題に熱中してこの事を忘れる時私たちは危険な方向へと滑り落ちて行きます。一切の解決は主イエスにあるのです。「贖いの日」とはそう言う意味です。これを忘れて聖霊を悲しませてはなりません。

 

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【主日礼拝―聖霊降臨記念日−メッセ−ジ】                            2002年5月19日

「聖霊を悲しませるな」
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、
あがないの日に対して保証されているのです。」エフェソの信徒への手紙4章30節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエス・キリストが十字架に死んで葬られ、三日目に墓から甦られました。40日目に天に上げられましたが、更にその10日目、即ち復活から50日目に主イエスが約束して下さった聖霊が弟子たちの上に臨まれました。これを「聖霊降臨」と言います。聖霊が臨まれたとき、弟子たちの意識ははっきりしていますが、それまで語ったことのない外国の言葉でイエス・キリストの復活を語り伝えます。物音と、弟子たちのこのような言葉を聞きつけて集まってきた人々は色々な国に国籍を持つユダヤ人でしたが、それぞれの国の言語で分かる言葉を弟子たちから聞いて驚きました。ある人は、「きっと酒に酔った勢いで恍惚状態になり、自分でも分からずデタラメに喋っている内に、たまたま我々の分かる言葉になっただけだろう」と言いました。ところが弟子たちの中のペテロという人が皆を代表して、「今は朝の9時です。祈りの時間です。そのようなときに酒を飲んで酔っぱらうユダヤ人はいません。これは聖霊なる神さまが臨まれて、彼らに語らせているとても神聖なことなのです」と言って、神の独り子イエス・キリストがこの世に来られたこととその御生涯、ユダヤ人がこのイエスさまを十字架につけて殺してしまったこと、しかし神はこのイエスさまを甦らせたこと、イエスさまの弟子である私たちはそのことの証人として選ばれている。イエスさまが十字架に死んだのは私たちの罪のためであった。あなたたちもその罪人の一人であるが、今その罪を悔い改めるなら、神はイエス・キリストの故にその罪をすべて赦し、清め、永遠の生命を持つ身とならせて下さる」と神からのメッセ−ジを伝えました。するとこのメッセ−ジを聞いた人々は心を打たれて悔い改め、イエス・キリストを救主と信じてバプテスマを受けました。その数は何と3,000人です。この時からキリスト教会が誕生しました。今日の劇は弟子たちが聖霊に満たされて色々な国の言葉を語ったという一こまです。

 

 さて、そのように今から2000年前、エルサレムの町にキリスト教会が誕生し、その後も成長を遂げ、エルサレムからユダヤとサマリヤの全土、そして隣国のシリヤから地続きに小アジア全体、北アフリカ、ヨーロッパ一帯へと教会の数は増し加わりました。今ではほぼ全世界と言って良いと思われます。

 しかし教会の数は増えても、その内実は必ずしも伴いません。クリスチャンはかつて十字架のイエス・キリストによって罪を悔い改め、新しく生まれかわりました。この世の価値観で物事を眺めたり、判断することをやめて、内にいます聖霊なる神さまの基準で判断しては行動に移すようにと造り変えられているのです。けれどもそのように新生を経験したクリスチャンであっても、古い罪の性質を温存している限り、聖霊を悲しませるような自己中心の生き方、人間関係、物事の処置の仕方に立ち戻ってしまいます。どうしてこうなるのでしょう。使徒パウロに言わせれば、それはクリスチャンといえどもこの世の時に捕らわれる余り、神の時を忘れてしまうからです。足元を見ながら歩くことが悪いというのではありません。しかし、足元のことばかりに気を取られていては目標を見失ってしまうのです。ここに言う「贖いの日」とは、イエス・キリストが十字架に死んで下さった贖いの日という意味ではありません。イエス・キリストの十字架の贖いは1回的な出来事であって、2度も3度も必要ないのです。罪を犯したクリスチャンにもう一度バプテスマを受けさせると言うことではありません。ここに言う「贖いの日」とはイエス・キリストの「再臨の日」という意味です。不完全なクリスチャンであっても日々み言葉に聴き、祈りと悔い改め、神と人からの和解を受け、その証として主の晩餐に与ること、これをもって清めを求める生活と言いますが、このような生活を残された地上の生涯を通して継続することによって、再臨の日、主イエス・キリストは完全な罪の贖いを成し遂げて下さるのです。栄光の御国へと引き上げて頂けるのです。しかしこのようなことはクリスチャンとは言え、人間的な頑張りでできるものではありません。聖霊の助けが必要です。足元の生活、政治的・経済的な問題、平和・環境・人権の問題、仕事のこと、健康のこと、日常の様々な問題もなおざりに出来ません。だからこそ、私の価値観に拘ることをやめて、聖書を通して語られる御霊なるキリストのみ言葉に先ず聴き従うことが肝要です。神は天におられるのです。高いところから全ての問題を見ておられる神に聴き従うことなしに真の問題解決は得られないのです。地上の問題に熱中する余りこの事を忘れる時私たちは危険な方向へと滑り落ちて行ってしまいます。一切の解決は主イエスにあるのです。ここで言われている「贖いの日」とはそう言う意味です。この事を忘れて聖霊を悲しませてはなりません。

 

 ある教会にクリスチャン暦50年以上にもなる72歳の男性がいました。この方が病気になったというので、教会の人々2,3人でお見舞いに行きました。するとこの方はは、みんなが持ってきてくれたお見舞いの果物やお菓子には見向きもしないで、一人の人に「私のために必要な聖書の言葉を読んで下さい」と頼みました。その人も他の人も一生懸命聖書の頁をめくってどこがよいか探していました。するとその方はみんなに「パン屋さんが朝、お客が来たと言うのに今日はあなたのためのパンはありませんと言い、魚屋さんが夕方来たお客に魚はありませんと言ったのでは、そのお店に来る人はいなくなります。私たちはクリスチャンですよ。クリスチャンというのはキリスト屋という意味です。キリスト屋は神さまのみ言葉屋です。クリスチャンが、み言葉を読んで欲しいと言っている人に、『あなたのためにお役に立つ聖書の言葉は見つかりません。』と言うようではクリスチャンをやめなければなりません」と言いました。それを聞いたみんなは恥ずかしそうに帰っていったと言うことです。

 

 今朝この礼拝に来られたあなたはどうですか。折りに適ってみ言葉があなたの心に浮かびますか。必要としている人に慰めと希望と命のみ言葉をいつも用意できていますか。72歳の彼は言いました。クリスチャンはキリスト屋だ、キリスト屋は神のみ言葉を人々に語り聞かせる専門家だと。実は彼もまた一人の罪人でした。だから病床にあって、救い主の確かなみ言葉、赦しと慰めと祝福のみ言葉を愛するクリスチャン仲間を通して聴きたかったのです。

 まだイエス・キリストを信じるに至ってない方に申し上げます。信仰暦50年以上になった人でさえ神のみ言葉が必要なのです。人は生きている限り神の御前に罪を犯す可能性から逃れられないからです。世に罪を犯さないで生涯を全うできる人は一人もいません。大事なのはあなたの罪の為にイエス・キリストがこの世に降誕して罪の贖いの十字架に死んで甦って下さった事実を信じることです。実に聖霊は今あなたの内にあってその事実を信じることの出来る信仰へと導こうとしておられます。素直に聖霊の導きのままに「わたしはイエス・キリストをわたしの救主と信じます」と告白して下さい。あなたを信仰に導こうとしておられる内なる御声に逆らって聖霊を悲しませないで下さい。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今私たちはペンテコステ、聖霊降臨を記念する主の日の礼拝を献げております。今から2000年の昔、主イエスの弟子たちに降り、キリスト教会を誕生せしめ、今もあなたを求める者の内に生きて働き、主イエスを信じる信仰へと導いて下さっています。聖霊を悲しませてはならないとあなたは言われます。聖霊を悲しませるとは勿論罪に罪を重ねることですが、それ以上に悲しいことは、どんな罪でも主イエスの十字架には清める力、救う力があると言うあなたの招きの言葉を拒むことです。主よ、どうか今あなたの御前にあるこの全ての人々の内に不平や愚痴の言葉ではなく、悔い改めの心を与えて下さい。そしてあなたにあって生かされている事を感謝する者として下さい。あなたに従うことを喜びとする者とならせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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