【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2002年6月9日

「選ばれた者」
マタイによる福音書24章29-31節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 核保有国が核実験をする度に、良心的な科学者達が核兵器による世界の終わりを示す時計の針を1分、2分と進めます。その目的は何でしょうか。彼らは世界中の人々にただ恐怖心を煽り立てようとしているのでしょうか。そうではありません。彼らは「平和を造り出す者は幸いである」という聖書の言葉に促されて、核のボタンに手をかける当事国政府に自制を促しているのです。主イエスがここで語っておられる意味も同じです。終末に伴う徴(しるし)をあれこれ語ることで、聖書を読む私たちにただ恐怖心を煽っておられるのではありません。科学者の警告に耳を傾けて核のボタンから手を離しさえすれば、人類の消滅は防ぐことが出来るのです。主イエスが世の終わりについて語っておられる警告に耳を傾けて、その罪を認めて悔い改めるならその人は救われます。

 この福音書は紀元50−60年頃に書かれたと言われています。今から考えると、主イエスが天に上げられてそんなに時間が経ってはいません。当時の教会は、主の再臨の日が直ぐにも来る。終末の日が差し迫っていると信じていました。この危機感が彼らを駆り立て、僅かな年月で地中海世界各地に伝道を進めていったのです。しかしあれから2000年を経て、主イエス・キリストの再臨はまだ実現していません。するとキリスト教会は次第に緊張感が薄れて、主日礼拝になっても教会堂のベンチは空席が目立つようになり、伝道意欲も萎えつつあります。ではこの預言は嘘だったのでしょうか。嘘ではありません。

 皆さんはノアの洪水物語を知っておられるでしょう。ノアが方舟を作るまで人々は普通の生活をしていました。やがて方舟の入り口は閉じられました。ポツリポツリと降り出した雨はたちまちの内に豪雨となり、水かさが増し、やがて洪水となって全てが水の中に没してしまいました。この物語は全ての時代、全ての人に、世の終わりを告げる神の警告です。御言葉を小馬鹿にする者はあの洪水によって滅びた人々のように、神の審きの炎の餌食となってしまいます。確実に迫っている終わりの日を深く心に留めて、今と言う時に主イエスの御前に罪を認めて素直に悔い改めましょう。主イエス・キリストをあなたの唯一の救主と信じ受け入れましょう。

 

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                           2002年6月9日

「選ばれた者」
マタイによる福音書24章29-31節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 私たちは先週、終末の兆しとして何が起こるかを学びました。「憎むべき破壊者」、神の敵サタンが立ってはならない聖なる場所に立つ時が来ること、それによって主の教会、主の僕であるキリスト者は言語に絶する苦難の中に突き落とされると言うこと、しかし、それは神のご計画が満ちるための産みの苦しみであり、その後に神が定められた万物の終わりの日が来ると言うことを学びました。今日はその終わりの日にどのようなことが起こるのか、その時世界はどうなるのか、それは本当に起こるのかと言うことについて学びましょう。

 

1. 終わりの日に起こること

 主イエスは「苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。その時、人の子の徴が天に現れる」と言われました。(=イザヤ書13:10)。天地創造の物語を思い起こして下さい。

 「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。」(創世記1:14−18)

 

 天地創造の初め、全てのものが神によって造られ、全てのものが命の鼓動を始めました。ところが、主イエスのみ言葉によると、神が定められた終わりの日には、創世記とは逆のことが起こるのです。昼と夜、日や年や季節を司っていた太陽、月、星の役目は終わり、巨大なブラックホールに吸い込まれてゆくように、太陽も月も、星という星は全て消滅する時が来ます。それによって天体は揺れ動かされるのです。そして太陽よりもはるかな輝きをもつ「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って」来られます。この方こそ、再臨の主イエス・キリストです。使徒パウロの言葉を借りて言うなら、

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、 イェスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6−11)

 主イエス・キリストは神の御子でありながら、全人類をその罪から救うため、贖いの十字架に死なれますが、3日目に甦って天の父なる神の御許に引き上げられます。そして終わりの日にはこの世界を審くために再びおいでになります。これを主イエス・キリストの「再臨」と言います。一度目の来臨、すなわちクリスマスの時は神と人に仕える僕としてこられましたが、再臨の日は天地の主なるキリスト、審判主としておいでになるのです。これが終わりの日に起こることです。

 

2. その日、地上は二つに分けられる

 「審く」というギリシャ語の語源は「分ける」と言う意味です。イエス・キリストの再臨の日、世界は二つに分けられます。地上で信仰の戦いを強いられていた教会、勝利の教会として天に引き上げられます。主イエス・キリストの僕たちは選ばれた神の聖徒として栄光のからだに甦り、空中で主に出会い、主と共に父なる神の御前に引き上げられます。しかし、教会を迫害していた勢力は大いなる嘆きと共に定められた滅びの世界へ落ちて行くのです。主イエスに唯一の望みを置き、数々の苦難を耐え忍んだキリストの僕はその目から涙をぬぐい去られて、天の故郷へと迎え入れられて行きます。しかしイエス・キリストに背を向け、悔い改めることをしないで、神と教会に反抗を続けていた者は燃えさかる地獄の炎を思いながら、嘆き悲しまなければなりません。

 30節を見て下さい。主は栄光を帯びて天の雲に乗って再臨なさるのですが、そのお姿は十字架に上げられたままの「人の子」としてのお姿であることに注目して下さい。これは罪の悔い改めを言い表した主の僕、教会にとっては慰めです。イエスを救主と信じ告白したことが間違いではなかった喜びを新たに出来る瞬間です。しかし十字架を小馬鹿にして悔い改めなかった人々にとっては大いに恥じ入り、絶望する瞬間なのです。次のみ言葉を思い起こして下さい。

 「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」と(ヨハネの黙示録1:7)。

 

 滅び行く者の目には、天の雲に乗ってこられる再臨の主イエス・キリストのお姿は紛れもなく、自分たちが十字架に釘付けたそのお方であることが分かるのです。主の招きを拒む者は、全て主イエスを十字架につけた共犯者なのです。彼らは自分たちが嘲りをもって十字架につけた方こそ真のキリスト、救い主であることを遅まきながら知るのです。だから嘆くのです。

 

3. それは必ず起こる

 現在インドとパキスタン、イスラエルとパレスチナの関係が非常に緊張しています。パキスタンは核弾道積載可能なミサイル発射実験を成功させました。超大国アメリカも一方的に決めつけた悪の枢軸国を牽制し、脅迫するように未臨界核実験の準備を始めました。こうした暗いニュースを聞く度に良心的な科学者が集まり、核の使用による世界の終わりを示す時計の針を1分、2分と進めます。時計の針に手をかける科学者たちの目的は何でしょうか。彼らはただ面白がって世界の終わりを示すその針を進めて、世界中の人々に恐怖心を煽り立てようとしているのでしょうか。そうではありません。彼らは「平和を造り出す者は幸いである」(マタイ5:9)という聖書の言葉に促されて、核のボタンに手をかけつつある当事国政府に自制を促しているのです。主イエスがここで語っておられる意味も同じです。弟子たちに乞われるまま、終末に伴う徴をあれこれ語ることで、聖書を読む私たちにただ恐怖心を煽っておられるのではありません。科学者の警告に耳を傾けて核のボタンから手を離しさえすれば、人類の消滅は防ぐことが出来るのです。主イエスが世の終わりについて語っておられるこれらの警告に耳を傾けて、自己の罪を認めて真剣に悔い改めるならその人は救われます。そしてどのような時代が来ても慌てることなく、心の目を開いてその日に備えることが出来るのです。

 今日殆どの人は世界の終わりを薄々感じとってはいるようです。しかし、主イエス・キリストが語られるような終わりの日を信じる人は少ないようです。この福音が書かれたのは紀元50年代とも60年代とも言われています。今から考えると、主イエスが天に上げられてそんなに時間が経ってはいません。当時の諸教会は、主の再臨の日が直ぐにも来る。終末の日が差し迫っていると信じていました。この危機感が彼らを駆り立てて、僅かな年月で地中海世界の各地に開拓伝道を進めていったのです。しかしあれから2000年の時を経て、今なおその日が来てはいません。主イエス・キリストの再臨はまだ実現していません。するとキリスト教会の中に次第に緊張感がなくなり、主日礼拝になっても教会堂のベンチは空席が目立つようになり、伝道意欲も萎えつつあるのが現状です。ではこの預言は嘘だったのでしょうか。嘘ではありません。使徒ペテロはこう言っています。

 「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。』 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ3:3−9)と。

 

 皆さんはノアの洪水物語を知っておられるでしょう。ノアが方舟を作るまで人々は普通の生活をしていました。やがて方舟の入り口は閉じられました。ポツリポツリと降り出した雨はたちまちの内に豪雨となり、水かさが増し、やがて洪水となって全てが水の中に没してしまったのです。この物語は全ての時代に生きる全ての人に、世の終わりを告げる神の警告です。御言葉を小馬鹿にする者はあの洪水によって滅びた人々のように、神の審きの炎の餌食となってしまうのです。今日の御言葉は更に差し迫った神の警告です。確実に迫っている終わりの日を深く心に留めて、今と言う時に主イエスの御前に罪を認めて素直に悔い改めましょう。主イエス・キリストをあなたの唯一の救主と信じ受け入れましょう。  祈ります。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 ノアの時代、人々は洪水を見るまで神の審判を信じませんでした。しかし気が付いた時は既に遅かったのです。今の時代もそうです。あなたは主日礼拝毎に、この講壇に立つ者を通して十字架の言葉を語らせます。主イエス・キリストの十字架は、この地上が罪にまみれている証であり、同時に十字架こそはいかなる罪人であっても素直に悔い改める者を救う力があることを証明するものだからです。どうか今あなたの御前にあるこの者たちを悔い改めに導いて下さい。そしてあなたの全能の力によって彼らをお救い下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む