【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2002年6月16日

「笑いを与える神」

(「子どもの日」を記念して)

創世記21章6節
「サラは言った。神はわたしに笑いをお与えになった。
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「太陽はいつも雲の上に」(三浦綾子全集第17巻)という名言集に「雲の上にいつも太陽は輝いている」という無名の言葉が紹介されています。彼女は結核の重症患者として、毎日微熱と寝汗、そして深い疲労に苦しめられながら、いつ癒えるか見当もつかず、痩せ細った身体を病院の一室に横たえていました。そんなある日、西村久蔵というクリスチャン教育者が彼女を見舞い、この言葉を紹介しました。彼女はその時、この言葉に出会えたことに喜びを感じました。以下彼女の言葉をそのままお伝えします。「そうだ。太陽はいつも輝いているのだ。雲が一時太陽をさえぎったにすぎないのだ。わたしは力を与えられた。人生には、太陽は姿を消したかに思われる時があるものだ。事業の失敗、愛児の病気、失恋、人間関係のいざこざなど。しかし失望してはいけない。いかに厚い黒い雲がおおっても、太陽は雲の上にいつも輝いているのだから。」と。

 偉大な三浦綾子さんの言葉に私のような者が更に解説を加えるなど恐れ多いことですが、それでも敢えて一言付け加えさせて頂くなら、この諺の「太陽」を彼女はイエス・キリストと理解しておられることは明々白々です。主イエスは罪と汚れに満ちたこの世に対して言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と。真の太陽であるイエス・キリストを覆い隠して神がおられることを疑わせようとするサタンの誘惑に負けないで下さい。あなたの上にいつも輝いて下さるイエス・キリストを信じ、希望を失わないで下さい。

 今日の聖書テキストの主人公、アブラハムとサラの上にも厚く重い黒雲が覆っていました。彼らが結婚し以来100歳になるこの日まで2人の上に、それはずっと覆っていたのです。でもその上に太陽がありました。神は彼らの苦悩、流す涙を知っておられたのです。太陽ならぬ栄光の神は彼らの上に顔をのぞかせて下さいました。そして愛児イサク(「笑う」と言う意味)を与えて下さったのです。愛する皆さん、真の太陽であるイエス・キリストはあなたの苦悩と涙を見て下さっています。神さまにとって最も相応しいときに、即ちあなたのために一番良い時にあなたの祈りに答えて下さいます。そしてあなたの頬から涙をぬぐい取って、喜びと笑いに替えて下さいます。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                              2002年6月16日

「笑いを与える神」

(「子どもの日」を記念して)

創世記21章6節
「サラは言った。神はわたしに笑いをお与えになった。
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 1856年アメリカ合衆国マサチュセッツ州チェルシー第一ユニバーサリスト教会の牧師レオナードさんは、幼子たちが信仰生活にはいるように勧め、同時にその両親が子女を神にささげる日として6月第2日曜日に特別の礼拝を献げたのがきっかけです。これを知ったニューヨーク州ブルックリンにあるいくつかの教会が、その年7歳になる子どもたちを前に立たせて牧師署名入りの聖書と美しい花束を与え、頭に手をおいて祝福しました。その後1868年アメリカ全土にあるメソジスト教会が6月第2日曜日を「子どもの日」と定めて以来、全世界に広がって行きました。

 更に2年後、今度はマサチュセッツ州ローエル市にある教会の牧師はこの日、子どもたちにバラの花束を贈り、「シャロンのバラの日」と呼ぶことにしました。そして礼拝後、子どもたちは日曜学校の先生たちに伴われて、近くの病院、老人ホームや社会福祉施設、また刑務所や警察署などに美しい讃美の合唱に添えて花を届けました。6月第2日曜日のこの良き習慣は今日(こんにち)世界中の教会に引き継がれています。

 以上が教会が毎年祝う「子どもの日」、「花の日」の由来です。わたしたちの教会では今年に限って6月第3日曜日の今日になりましたが、それは大した問題ではありません。大切なのは創設者の精神を失わないこと、子どもたちに神を信じて畏れ敬い、人々を愛する心が培われることです。

 

 さて、今日の御言葉は余りにも有名で、クリスチャンなら誰でも知っている物語の1節です。でも初めて読む人のために、物語全体を手短にお話したいと思います。今から大凡4000年もの昔、アブラハムと言う敬虔な神の人がいました。。彼は99歳、その妻サラも89歳でした。間もなく夫婦で白寿と卒寿を祝うことが出来るなんて本当にめでたいことです。所がそれを祝ってくれる子どもがこの夫婦の間にいません。ある暑い昼下がり、アブラハムは木陰にテントを張り、入り口に座って涼んでいました。すると向こうの方から3人の旅人が歩いてきます。砂漠に住む人は見も知らない人であっても旅人をそのままやり過ごすことはしません。早速近寄って行き、丁重な挨拶をして是非とも私たちのテントで一休みしていって欲しいと招き入れました。新約聖書の著者は、「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:1−2)と言っています。事実この3人は後で分かったことですが、主なる神とその御使だったのです。誠実に旅人をもてなすアブラハムに対して神は、「来年の今頃、あなたの妻サラに男の子が生まれます」(創世記18:10)と約束して下さいました。実はその数ヶ月前にも「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい」(創世記17:19)と具体的に約束しておられたのです。しかし彼はその時平伏しながら、「こんな年寄り夫婦に、神さまも冗談きつい」と、心の内に笑ってしまいました。そして今度はテントのかげで聞いていたサラまでも笑って本気にしません。しかし、神さまは「なぜ笑ったのか。主に不可能なことがあろうか」と彼らの信仰を支えて下さいました。あれから1年、神さまは約束を成就して下さいました。イサクが生まれたのです。サラは一方で神さまの真実さに恐れおののき、他方で神さまのユーモアに思わず頬がゆるんで、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にするでしょう」とサラは感慨を漏らすのでした。何故ならイサクとは「笑う」という意味があるからです。この出来事について、使徒パウロは次のように書いています。

 「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を讃美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:19−25)と。

 

 これはどう言う意味でしょうか。アブラハムとサラの間に与えられたイサクという子どもの物語はただの昔話として聞き流してはならないと言うことです。先程のローマ4:19を別訳聖書では、「すなわち、おおよそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、またサラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」とあります。私たちはこの物語を通して、死人を生き返らせる神は、即ち、不可能を可能にして下さる主であるという事を信じようではありませんか。アブラハムとサラに与えて下さったイサク、すなわち、溢れる感謝と喜び溢れる笑いを、信仰を同じくする私たちにもきっと与えて下さると望み待ちましょう。今日この礼拝においでになった皆さんはこれまでどれほど多くの涙を人知れず流す人生であったことでしょうか。しかしそれも今日与えられたみ言葉をもって笑いに変えられます。喜びと感謝に代えて頂けるのです。

 三浦綾子全集第17巻に、「太陽はいつも雲の上に」という名言集を収めた頁があります。その末尾にあたる165頁に「雲の上にいつも太陽は輝いている」という言葉が紹介されていました。三浦さんの解説によると、この言葉の作者は分かりません。彼女が結核の重症患者として療養生活をしていた7年目の頃、西村久蔵というクリスチャン教育者が見舞って下さったときに教えられた言葉だそうです。来る日も来る日も微熱と寝汗、そして深い疲労に苦しめられながら、いつ癒えるか見当もつかない日々、痩せてゆくばかりの身を病院の一室に横たえていたとき、まさに彼女の上には毎日重くのしかかる黒雲が覆っているように見えていたときに聞いた言葉でした。彼女はその時、この言葉に出会えたことに喜びを感じたそうです。以下彼女の言葉をそのままにお伝えします。「そうだ。太陽はいつも輝いているのだ。雲が一時太陽をさえぎったにすぎないのだ。わたしは力を与えられた。人生には、太陽は姿を消したかに思われる時があるものだ。事業の失敗、愛児の病気、失恋、人間関係のいざこざなど。しかし、失望してはいけない。いかに厚い黒い雲がおおっても、太陽は雲の上にいつも輝いているのだから。」と。偉大な三浦綾子さんの言葉にわたしのような者が更に解説を加えるなど恐れ多いことですが、それでも敢えて一言付け加えさせていただくなら、この諺の「太陽」を彼女はイエス・キリストと理解しておられることは明々白々です。イエス・キリストは罪と汚れに満ちたこの世に対して言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と。真の太陽であるイエス・キリストを覆い隠して神さまが生きておられることを疑わせようとするサタンの誘惑に負けないで下さい。あなたがたの上にいつも輝いて下さるイエス・キリストを信じ、希望を失わないで下さい。

 アブラハムとサラの上にも厚く重い黒雲が覆っていました。それは彼らが結婚したのが幾つの頃か分かりませんが、100歳になるまで2人の上にずっと覆っていた黒雲でした。でもやはり彼らを覆っていた黒雲の上に太陽がありました。神は彼らの苦悩、流す涙を知っておられたのです。そして神さまは御心を動かし、彼らの上に顔を覗かせて下さいました。愛する皆さん、あなたがたの上にも太陽は必ず輝いてくれます。あなたがたの苦悩と涙を見ていて下さっています。神さまにとって最も相応しいときに、即ちあなたがたのために一番良いときにあなたがたの祈りに答えて下さいます。そしてあなたがたの頬から流れ落ちる涙をぬぐい取って、喜びと笑いに替えて下さいます。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 この地上には悲しいこと、辛いことが満ちています。それは罪をこの世にもたらしたサタンの仕業です。サタンは私たちの心を支配しようとしてあなたに反抗させ、聖書を通して語られるあなたのみ言葉を疑わせ、人間関係を破壊させます。だからこの世は人間の数だけ罪があり、罪になく人があり、苦悩と涙があります。サタンという黒雲が厚く、重くのしかかって私たちの目からあなたを見失わせようとします。しかしどんなにサタンが巧妙に私たちをあなたから引き離そうとしても、あなたはどのようなときにも私たちの思いを越えて生きて働いて下さる方です。あなたはサタンの目論見を撃ち破って私たちの目から涙を拭うために世の光としてイエス・キリストをこの世に下して輝いて下さいます。主よ、どうか今日この礼拝に来られた全ての人々の目から涙をぬぐい取って下さい。アブラハムとサラに真の笑いを与えて下さったように、ここにいる兄弟姉妹たちの心にも笑いで満たして上げて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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