【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年6月23日

「あなたの重荷を主にゆだねよ」
詩編55編23節
あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。
   主は 従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 詩人が住む町は邪悪です。彼は敵対する者の脅迫と虐げに苦しんでいます。更には親しい友の裏切りです。ショックの余り心は絶望の淵に突き落とされてしまいました。無心に飛び交う鳩を見て、「自分にも翼があったら、どこか静かな山の中で平和に暮らしたい」と考え、同時に裏切った友に対する怒りがこみ上げて、藁(わら)人形を柱に打ち込むような呪いの祈りが口をついて出ます。結果的にはそれが良かったのです。呪いの祈りが良かったというのではありません。主なる神の御前に出たことが良かったのです。「あんな裏切り者はもう友と思いたくありません。生きながら地獄の底に突き落として下さい」と激しい怒りをもって神に訴えましたが、その内に彼の心は不思議に平安にされて行くのです。祈りの部屋に入る道を選んだことによって、神は彼の逃れ場になって下さいました。復讐という手段に訴えること、現実から逃避する道を選ぶことも、それは本当の逃れ場ではないと知りました。彼が発見した本当の逃れ場は神の懐(ふところ)でした。現実から逃げることや復讐の爪を研ぐことではなく、苦しい現実を率直に神に訴えている内に、神は彼の心に静かに語りかけて下さいました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」と。

 「『あなたの重荷を主に委ねよ』、自分でこれを負おうとするな。自分でこれを負おうとする為に耐え難い苦痛となる。これを主にゆだねよ。彼はたやすくこれを担うことが出来るのだ。そしてあなたの重荷をあなたに代わって担って下さるだけでなく、重荷と共にあなた自身をも担って下さり、あなたの心に平安を与えて下さるのだ。…」(内村鑑三著『一日一章』より。原文は文語体)

 私たちにとって重荷は悪しき者の迫害、友人の裏切りだけではありません。私自身の内にある恨み、赦せないと言う心、復讐したいという思いも実は重荷なのです。被害者もそう言う罪を犯すのです。その重荷がずしっと私たちの心にのしかかってきます。だから主イエス・キリストは十字架の上から私たちを招いて言われるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                             2002年6月23日

「あなたの重荷を主にゆだねよ」
詩編55編23節
あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。
   主は 従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今年度の「宣教・牧会方針」でも触れたことですが、教会がインターネット・ホームページを通しての伝道を開始して約2年になりますが、その間多くの人が礼拝メッセ−ジや交流の広場などにアクセスして下さいました。中には個人的な相談事で、深刻な内容のものも少なくありません。職場でのいじめやセクハラの問題。教師として、生徒として、また親として学校で起こる様々な問題。夫婦間の問題。親子の問題。教会生活の悩み等々、広い範囲の相談事を目の当たりにして、本当にこの国は病んでいると思わずにいられません。私に寄せられる悩みを一言でいうと、人間の基本である「愛」と「命」に飢え、且つ渇いている人々が圧倒的に多いという現実です。

 小泉政権は「骨太の改革」をモットーに、色々な法案を国会に上程し、またさまざまな施策を講じていますが、国民の実態は肉も皮も筋も骨も、そして魂までもがやせ衰える一方の改革案に悲鳴を上げているのです。その解決を永田町ではなく、霞ヶ関にでもなく、仙川にある小さな教会の一牧師に求めてこられるのです。勿論私はその殆どに気の利いた答えを提供することもできず、耳を傾けて聴く(読む)しかできません。そして時折聖書を通して語られる神さまのみ言葉を紹介するだけです。実際、彼らは私の答えなどに期待しているのではなく、「この場合聖書は何と言っているのか、聖書の神はどうしろと仰っているのか」、それを聴きたがっているのだと感じるからです。彼らはこの世のもの、また軽々しい人間の言葉に失望して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言うみ言葉の通り、神を求める思いが無意識に働いているのではと想像できるのです。

 

 今朝、私たちに与えられた詩 第55編の詩人は都会人です。彼は首都エルサレムの住民の1人でしたが、しかし彼の住む町は邪悪に満ちています。敵対する者の脅迫と虐げに苦しんでいます。それ以上に彼を苦しめているのは親しい友の裏切りです。かつてその友は一緒に主の宮に上って礼拝を献げた信仰仲間でした。余りのショックに彼の心はずたずたに引き裂かれ、絶望の淵に突き落とされてしまいました。その時目の前を無心に飛び交う鳩を見て、「自分にも翼があったら、どこか静かな山の中で平和に余生を送りたいのだが」と考えました。かと思うと、裏切った友に対する怒りがこみ上げてきて、藁(わら)人形を柱に打ち込むような呪いの祈りが口をついて出ます。

 結果的にはそれが良かったのです。呪いの祈りが良かったというのではありません。どのような言葉でもとにかく彼は苦しい現実から逃れて隠遁生活に入ろうとする前に主なる神の御前に出たと言うことが良かったのです。「あんな裏切り者はもう友人と思いたくありません。お願いです。どうか、生きながら地獄に突き落としてください。」と激しい怒りをもって神に訴えました。しかしそうする内に彼の心は不思議に平安にされて行くのです。もし、彼が祈ることを忘れて復讐のために立ち上がったなら、彼の心は益々苦しくなったことでしょう。平安は得られなかったでしょう。どう言う形であれ、祈りの部屋に入る道を選んだことによって、神は彼の逃れ場になって下さいました。復讐という手段に訴えることも、現実から逃避する道を選ぶことも、それは本当の逃れ場ではないということを、彼は祈り続けることの中で知りました。彼が発見した本当の逃れ場は神の懐(ふところ)でした。現実から逃げることや復讐の爪を研ぐことではなく、苦しい現実を率直に神に訴えている内に、神は彼の心に静かに語りかけて下さいました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」と。

そこで私たちはこのみ言葉から二つの新約聖書のみ言葉が真理であることを教えられます。

 一つは气eサロニケ5:16−19です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはなりません。」と言うみ言葉です。

 「喜び」と「感謝」の間に「祈り」が位置されていることに注意してください。このご時世です。いつも喜ぶことは難しいことです。まして感謝することなど不可能です。でも、祈ることは出来ます。この詩人のように最初、激しい言葉で神に訴えました。でも、神はそれさえも祈りとして受け入れて下さいました。そして彼の心を静めて本当の祈りへと導いて下さいました。上品な言葉を並べ、美しい言い回しが出来なくても良いのです。祈りの内容は日常のことを訴えるのですから、日常的な言葉で祈って良いのです。「とにかく祈れ」、これが聖書を通して神が私たちに求めておられることです。气eサロニケ5:19に「霊の火を消してはならない」と言われています。「霊」とは聖霊です。聖霊は私たちを祈りへと導いて下さる灯です。霊の火を消してはならないとは、祈りへと導いて下さる神の愛の働きかけを否定してはならないと言う意味です。喜べないことを祈る内に、こんな私たちでも祈って良いのかという喜びが沸いてきます。祈っている内に、こんな私の身勝手な祈りにさえ耳を傾けて下さる神に感謝したくなるのです。

 二つ目のみ言葉はマタイ11:28の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というみ言葉です。内村鑑三先生の一日一章の中で、詩編55:23について、「『あなたの重荷を主に委ねよ』、自分でこれを負おうとしてはならない。自分でこれを負おうとするために耐え難い苦痛となる。これを主にゆだねよ。彼はたやすくこれを担うことが出来るのだ。そしてあなたの重荷をあなたに代わって担って下さるだけでなく、重荷と共にあなた自身をも担って下さり、あなたの心に平安を与えて下さるのだ。…」(原文は文語体なので、口語体に改めて書き写しましたが、不正確なところがあったら、その責任は全て私=高橋にあります。)

 詩人は祈っている内に自分の心が軽くなるのを自覚した経験から、読者の私たちに、「主はあなたを支えて下さる」と、感謝の証をしています。内村先生の言葉を借りて言うなら、主は心にのしかかっていた色々な重荷に喘いでいる詩人の祈りに耳を傾けながら、いつの間にか、その重荷を取り去るだけでなく、重荷に打ちひしがれている詩人毎担っていて下さっていることを悟らされたのです。主は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。詩編55:23で詩人の重荷を詩人毎担って下さっていたのは、主イエス・キリストです。

 これまでHPを通して悩みを寄せてこられた方々、そして今朝この礼拝においでになったあなた、あなたは既に主イエス・キリストに担われている1人であることに気が付きましたか?あなたは孤独ではありません。主があなたと共にいて下さるからです。あなたの重荷はどこで下ろされたか教えて上げましょう。それは十字架の上にです。私たちにとって重荷は悪しき者の迫害、友人の裏切りだけではありません。私たち自身の内にある恨み、赦せない心、復讐したいという思いも実は重荷なのです。被害者もそう言う罪を犯すのです。その重荷がずしっと私たちの心にのしかかってきます。だから主イエス・キリストは十字架の上から私たちを招いて言われるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と。

十字架のイエス・キリストがあなたの重荷をあなた毎担って下さったから、あなたはもう自由なのです。これからの生涯を主イエス・キリストと共に歩めるのです。何と幸いなことでしょう。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

私たちは今朝、1人の詩人のお祈りを通して、私たちの人生は決して孤独でも、絶望的でもないことを知りました。あなたがいつも私たちに寄り添い、私たちの苦悩を知り、「その重荷をわたしの所に持ってきなさい。先ず祈りなさい。わたしが聞いて上げる。そしてわたしがその重荷をあなたに代わって担って上げよう、いや、あなたを担ってあげよう」と語りかけて下さいます。主よ、感謝します。私たちは今、信仰をもってあなたの下に私自身を明け渡します。どうか十字架の血潮をもって私たちを清め、そして私たちの生涯をあなたの導きのままに歩ませて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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