【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2002年7月14日

 

「油の備えはあるか」

マタイによる福音書25章1−13節

 

 私たちは世の終わりというと、何か不気味な恐ろしいことが待っているように考えていましたが、主イエスは「その日、その時は婚宴にもまさる大いなる喜びと祝いの日である」と教えて下さいます。旧約聖書には神とイスラエルの会衆の関係を夫と妻の関係に譬えられています。例えば、ホセア書には夫ホセアと身持ちの悪い妻の関係を憐れみ深い神と罪深いイスラエルの会衆に譬えて預言されています。この例話をそのまま読むと、「聖書の神も一夫多妻の神か」と誤解されそうですが、一人の神がイスラエルという群れを妻のように命を懸けて愛されたという意味なのです。

 ここで言う「イスラエル」とは、ユダヤ民族のみを指していると限定的に読むことも誤りです。イスラエルの本当の意味は、民族を越えて「神に選ばれた者」です(イザヤ書54:5)。更に新約聖書は「夫と妻の関係はキリストと教会の関係のようでなければならない」と教えています(エフェソ5:32)。しかしこのような信仰は人間が独自に考え出したものではなく、主イエス・キリストの教えに従ったものです(ヨハネ3:29、黙示録21:2,9,22:17)。

 この譬え話から教えられる二つ目のことは、「だからその日のために霊の目を覚まして信仰と希望を失わず待ち望んでいなさい」と言う教えです。忠実で賢い乙女も、愚かな乙女も10人とも寝入ってしまいました。似たような実例があります。十字架に上げられる前夜、ゲッセマネの園で血のような汗をしたたらせながら一生懸命祈っておられる直ぐ後で弟子たちはこくりこくりと寝入ってしまいました。主イエスはそれを叱りながら、「心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)と同情して下さいました。

 主イエス・キリストの御再臨を待ち望む私たちも心は燃えていますが、肉体の弱さには勝てません。ついうっかりと居眠りのような教会生活をしてしまうものです。でも、「主は来られる」と言う望みの油と、「主よ来てください」と言う祈りの油を備えている限り、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声が聞こえたとき、直ちにその油を補充して消えかかった信仰の炎を再び燃え立たせて、主をお迎えすることができるでしょう。しかし、肝心の「主イエスは再びおいでになる」という確信が揺らぎ、望みが薄れ、祈りを絶やしてしまう人はその日、その時、目の前で婚宴の入り口を閉ざされてしまうことでしょう。 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                     2002年7月14日

 

「油の備えはあるか」

マタイによる福音書25章1−13節

 

 当時のユダヤ人社会の婚約から結婚に至る手続きは複雑で、長い時間を必要としていたそうですが、そのことについては後日機会があればお話しすることもあると思います。今日はいよいよ晴れて婚宴を目前にしためでたいお話です。主イエスの譬え話の流れからして、この日の婚宴は花嫁の家、若しくは花嫁の側で準備された会場で行われることになったようです。こう言うことはヤコブとレアのケース(創世記29:22)、サムソンとデリラのケース(士師記14:10)を考えると、あり得た話です。その理由は通常花婿をエスコートするのは花婿の男友達なのに、ここでは10人の乙女たちが出迎えることになっているからです。彼女たちは花嫁の代理人として選ばれて婚宴会場の入り口の前で花婿を待ち、花婿が到着すると、花婿に続いて宴会場に入れて貰えることになっていました。しかし選ばれた乙女達ですが、「忠実で賢い乙女」と、「愚かな乙女」の2種類に描かれています。

 私たちが今読んでいる聖書では「賢い」とか、「愚かな」と言われていますが、別訳の聖書には「思慮深い」とか、「思慮の浅い」と言われています。この方が原文に近いように思われるし、読む私たちにも分かりやすいように思われます。この人たちがともしび(多分ランプでしょう)を手に花婿の到着を待っていましたが、余りに遅いので寝入ってしまいました。しかし、「心は熱していても、肉体の弱い」彼女たちを非難する言葉は見られません。問題とされているのは、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声を聞いた後の対応です。彼らはその叫び声を聞いて反射的に飛び起きました。けれどもよく見ると、あんなに明々と燃えていたランプの灯が今消えかかっています。最初の5人の乙女たちは予め用意していた予備の油を継ぎ足しましたので、ランプの灯は再び勢いよく燃え輝きました。

 ところが後の5人の乙女たちは、迂闊にも予備の油を備えていません。そこで予備の油を備えている5人に油を少し分けて欲しいと頼みましたが、それほどの余裕はないので、町へ行って買い足した方が良いでしょうと言われます。なるほどと、補充の油を買いに行っている間に花婿は到着してしまい、予備の油を用意していた「賢い乙女たち」は婚宴の席に招待され、直ちに宴会場の戸が閉じられました。一方予備の油を備えていなかった「愚かな乙女たち」が戻ってくると、既に戸は閉じられ、最早中に入れません。いくら頼み込んでも、主人は「はっきり言っておく、わたしはお前たちを知らない」と冷たく言い放たれてしまいました。

 さて、この譬え話は主イエス・キリストの再臨、すなわち終わりの日についての教えですが、「その日、その時に備えて私たちキリスト教会が為すべきことは何か」というもう一つの教えがあるのです。

 私たちは世の終わりというと、何か不気味な恐ろしいことが待っているように考えていましたが、主イエスはこの譬え話を通して、「その日、その時は婚宴にもまさる大いなる喜びと祝いの日である」と教えて下さいました。旧約聖書には、神とイスラエルの会衆の関係を夫と妻の関係に譬えられています。例えば、エレミヤ書3:14の「わたしこそあなたたちの主である」という言葉がありますが、この「主」は、よく日本人の妻が夫のことを指して言う「主人」という意味で用いられています。またエレミヤ書31:32にははっきりと「わたしが彼らの主人であった」と書かれています。その他ホセア書には預言者ホセアと身持ちの悪い妻の関係を憐れみ深い神と罪深いイスラエルの会衆に譬えて預言されています。勿論この例話をそのまま読むと、聖書の神もまた一夫多妻の神かと誤解されそうですが、そうではなく、一人の神が一つのイスラエルという群れを妻のように命を懸けて愛されたという意味なのです。しかしここで言う「イスラエル」はユダヤ人という一民族を指していると限定的に受け取ることも誤りです。

 「イスラエル」の本当の意味は「神に選ばれた者」という意味があるのです。従って、神の教えに従順な人であれば、誰でもイスラエルなのです。これを大胆に主張したのはイザヤと言う預言者です。彼はその預言書の中で、「あなたの造り主があなたの夫となられる。 その御名は万軍の主。 あなたを贖(あがな)う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる」(イザヤ書54:5)と言いました。それを受けて新約聖書の著者たちは更に大胆に、キリスト教会とそのメンバーを「新しい真のイスラエル」と呼び、「イスラエルの聖なる神、全地の神」こそ、主イエス・キリストを指す、と告白しました。殊に使徒パウロは結婚の意味を教える中で、夫と妻の関係はキリストと教会の関係のようでなければならないと教えています(エフェソ5:32)。しかしこのような信仰は使徒パウロが独自に考え出したオリジナルではありません。これこそ主イエス・キリストの教えに従ったものなのです。(ヨハネ3:29、黙示録21:2,9,22:17)。

 この譬え話を通して主イエスが私たちに教えておられることは、主イエス・キリストの教会に加えられている者、すなわちキリスト者にとって、終末は恐ろしい審きの日ではなく、喜び祝うべき婚宴の席に招き入れて頂ける日であると言うことです。

 

 この譬え話から教えられる二つ目のことは、だからその日のために霊の目を覚まして信仰と希望を失わず待ち望んでいなさいと言う教えです。忠実で賢い乙女も、愚かな乙女も10人とも寝入ってしまいました。十字架に挙げられる前夜、ゲッセマネの園で血のような汗をしたたらせながら一生懸命祈っておられる直ぐ後で弟子たちはこくりこくりと寝入ってしまっていました。主イエスはそれを叱りながらも、「心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)と同情して下さいました。主の御再臨を待ち望む私たちも心は燃えていますが、肉体の弱さには勝てません。ついうっかりと居眠りのような教会生活をしてしまうものです。 

 でも、「主は来られる」と言う望みの油と、「主よ来てください」と言う祈りの油を備えている限り、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声が聞こえたとき、直ちにその油を補充して消えかかった信仰の炎を再び燃え立たせて、主をお迎えすることができることでしょう。しかし、肝心の「主イエスは再びおいでになる」という確信が揺らぎ、望みが薄れ、祈りを絶やしてしまう人はその日、その時、あなたの目の前で婚宴の入り口を閉ざされてしまうことでしょう。その時「御主人様、御主人様、開けてください」といくら叫んでも、「はっきり言っておく。わたしはお前を知らない」という答えをあなたは聞かなければならないのです。そんな悲惨な結末を迎えることにならないように、日頃から祈りと望みの油を絶やさないようにしたいものです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美申し上げます。

 クリスチャンの多くは、今も熱心にあなたの御子イエス・キリストの御再臨を待ち望んでいます。しかし、時には自己中心的な日常生活に追われて教会生活から離れてしまいそうになります。霊的惰眠に流されてしまっていることがあります。あの日、ゲッセマネの園でイエスさまが十字架という苦い杯を避けさせようとするサタンの誘惑と命を懸けて戦いながら祈っておられたのに、その脇で弟子たちが眠り込んでいたようにです。あの日の弟子たちの眠りは、まさに私たちの眠りです。イエスさまはあの日、その弱い弟子たちのために、そして私たちのためにも執り成しの祈りをささげて下さっていました。イエスさまの十字架はあの弟子たちのためであり、私たちの罪のために成し遂げて下さった完全な贖いの御業だったのです。主よ、感謝します。私たちはそれほど弱い者ですのに、信仰の炎が消えそうになるほど惰眠を貪っていた者ですのに、私たちが祈りと望みの油を備えている限り、あなたは全てを赦して私たちを受け入れて下さいます。

この礼拝を終えてここから出て行く私たちを、世の多くの人々にこの幸いな恵み、あなたの救いを証する者としてお遣わし下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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