【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年8月18日

最後の機会
マタイによる福音書26章章17-25節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 私たちはこうした物語を読む者としてともすればユダの言動に釘付けになります。しかし、私たちはこのような物語でさえユダを直接に見るのではなく、主イエス・キリストの瞳に映るユダを見なければなりません。すると、このユダにも主イエスのもとに立ち帰る機会が無数にあったことを発見できるのです。銀貨30枚を貰ってきた後でさえ主イエスは彼に悔い改めの機会を何度も与えて下さったのです。詩編の1節を思い出せるようにパン切れをユダと同じ鉢に浸しました。そしてはっきり「あなただ」と言われたのです。このようにして他の弟子に分からない方法でユダに語りかけられました。これらはみなユダに与えられた悔い改めの最後の機会です。

 しかしユダはその機会を自ら失ってしまいました。提供された救いの機会を自分から放棄して罪の闇路をさまよい、招きの手から離れ去ってしまう者を見て主イエスは言われます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」と。主イエスは銀貨30枚で御自分を売り渡したユダのためにも死んで下さるお心を持った方でした。では、何故に彼は生まれなかった方が良かったと言われなければならなかったのでしょうか。それは過越祭の食事の席で、何度も悔い改めの機会を与えて下さったその機会を自ら放棄したことです。自分の心の内にある罪に汚れたパン種を主イエスに取り除いていただくことを拒否したことによるのです。

 主にあって愛する皆さんに申し上げたい。あなたがどれほど優秀な頭脳をもって、この世的に成功を収めても、社会的に認められる仕事を成し遂げても、良き家庭人であってもイエス・キリストを救主と認めることの出来ない生涯は自己の罪と向き合うことのできない生涯です。自己の罪と向き合わず、悔い改める事をしない生涯の終わりは滅びの穴が口を開けて待っている闇の中に消え去らねばならないのです。あなたの心の内にある悪しきパン種の存在をあなたは認めなければなりません。それは決して自分で取り除けるものではありません。主の御前に出てありのままの自分を差し出すことです。そうすれば主はあなたを受け入れて下さいます。

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                         2002年8月18日

最後の機会
マタイによる福音書26章章17-25節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「除酵祭」はユダヤ暦ニサンの月、太陽暦で言うと、3−4月に「過越祭」の前1週間祝うことになっています。どうして3月なら3月、4月なら4月とはっきりしていないのかというと、ユダヤ人の暦は太陰暦でした。つまり月の満ち欠けの関係で祭りの日がその年によって前後する関係からこれを太陽暦で換算するとある年は3月、ある年は4月に除酵祭、過越祭を祝うことになると言うわけです。この祭りの起源は出エジプト記12:15−20に記されています。祭りの間、家の中のどこにもパン種があってはなりません。ここに除酵祭の意義があります。この祭りで取り除かれるパン種は罪や汚れなど、要するに悪しき影響力を象徴しているからです。パン種を取り除くように全てのイスラエル人は悔い改めの機会を与えられ、一切の罪も汚れも取り除かれてからこの祭りに参加することが赦されるのです。

 主イエスはこの祭りの第1日に過越祭の食事をする場所を整えるようにと弟子たちを遣わしました。その家は「都のあの人のところ」にあります。他の福音書によると、「都に入ると水がめを運んでいる人に出会う。その人が入る家までついて行け。すると、その家の人は席の整った二階の広間を見せてくれる。」(マルコ14:13−16、ルカ22:10−12)と少し丁寧に説明しています。

 後に続く「ゲッセマネの祈り」→「逮捕」→「十字架」→「復活」の出来事等、どれもドキドキさせられる記事ばかりです。しかし、私は特に今日の箇所に最も緊張を覚えるのです。この食事の席で主イェスを中心に、11人の弟子とイスカリオテのユダの運命がはっきりと、そして永遠に分かれてしまったからです。除酵祭は過越祭の準備のようなもので、家の中のどこにもパン種があってはならないのです。この家の主人はイエス・キリストとその一行が来る前にパン種を取り除いてくれていたはずです。「席の整った二階の広間」というのはパン種を取り除いた二階の広間という意味です。しかしこの食事の席に1人だけまだパン種を取り去っていない弟子がいました。それはイスカリオテのユダです。パン種は主の食卓に相応しくないのです。取り除かれなければなりません。だが、主は彼を強制的に排除するようなことはしません。その代わり思いがけないことを言われます。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。「はっきり言っておく」を直訳すると、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。「はっきり」聞こえるように言うという意味ではありません。「本当のこと」を言うという意味です。この突然の爆弾発言に一同は大混乱に陥りました。食事どころではなくなりました。イタリヤのミラノにあるサンタ・マリヤ・グラチェ教会にあるレオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」の壁画は高さ5m、幅11mという大きなもので、天井の部分は第二次大戦の時の爆撃で破壊されました。けれどもミラノの市民は土嚢を築いて続く爆撃からそれ以上の破壊から守ったと言うことです。さてこの壁画によると、今まさにイエス・キリストからこの爆弾発言を聞かされた弟子たちが動揺の色を隠さず、「主よ、まさかわたしのことでは?」と言いながら、互いに顔を見合わせているのです。

 彼らには心当たりがありません。ヨハネによる福音書13章では、ペテロはイエスさまに近い席で食事をしている弟子に、誰のことか尋ねるように合図を送りました。言われた弟子は主イエスの胸に寄りかかるように「主よ、それはだれのことですか」と尋ねました。すると主は「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とお答えになりました。この言葉をユダ自身はどのような思いで聞いたのでしょうか。多分心は穏やかでなかったと思います。しかし彼はその心の動揺を隠すかのように敢えて「先生、まさかわたしのことでは」と主イエスに尋ねます。他の弟子たちは「主よ」と呼びかけていますが、ユダはここに至っても「先生」と呼びかけています。イエス・キリストを主なる神と認めていないのです。これが彼の悲劇の始まりです。最後の最後までイエスを人間としか見ていないと言うことです。彼はここに来る前、祭司長の所に行って銀貨30枚を貰って主を売り渡す約束をしてきたばかりです。しかしそのことを知る者は誰もいない。仲間から会計を任されるほど信頼されている。大丈夫、誰も気が付いていない。全てが上手く行っていると安心していたのでしょう。しかし、人をだませても主をだましおうせません。主ははっきりと「それはあなたの言ったことだ」とお答えになりました。分かりにくい言葉ですが、確かにこのように訳すしかありません。意味としては口語訳聖書のように「いや、あなただ」となるのですが、多分ユダにだけ分かる言い回しであったと思われます。そしてここもヨハネによる福音書13:27によると、主はユダにパンを渡した後、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたとあります。詩編41:10に「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」とありますが、この預言が今成就しようとしています。日本流に言えば、ユダも「同じ釜のご飯を食べた」仲間でした。「それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。…ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(ヨハネ13:26−30)とヨハネによる福音書の著者は書き続けています。裏切り者は今、闇の中に消えてゆきます。

 

 私は今日のメッセ−ジの主題を「最後の機会」とつけました。聖書テキストとしてこれほど暗い物語はありません。主役は主イエス・キリストを裏切りながら白をきり通し、過越祭の食事まで共にしようとしたユダです。それは最後の最後までイエス・キリストを「主よ」と告白することができないで、「先生」と呼ぶことに拘っている不信仰に起因しています。不信仰はイエス・キリストを神と認めないことから始まります。イエス・キリストの弟子とされながら、自分の殻の中に閉じこもり、自己流のメシヤ像から抜け切れないまま、結局イエスさまに失望します。そして失望させられた腹いせにかどうか分かりませんが、主イエスを裏切ったユダはこうして闇の中に消えて行きました。

 

 私たちはこうした物語を読む者としてともすればユダの言動に釘付けになります。しかし、私たちはこのような物語でさえユダを直接に見るのではなく、主イエス・キリストの瞳に映るユダを見なければなりません。すると、このユダにも主イエスのもとに立ち帰る機会が無数にあったことを発見できるのです。銀貨30枚を貰ってきた後でさえ主イエスは彼に悔い改めの機会を何度も与えて下さったのです。詩編の1節を思い出せるようにパン切れをユダと同じ鉢に浸しました。そしてはっきり「あなただ」と言われたのです。このようにして他の弟子に分からない方法でユダに語りかけられました。これらはみなユダに与えられた悔い改めの最後の機会です。しかしユダはその機会を自ら失ってしまいました。提供された救いの機会を自分から放棄して罪の闇路をさまよい、招きの手から離れ去ってしまう者を見て主イエスは言われます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」と。しかし、ヨハネによる福音書13:1によると、主イエスは御自分の終わりを知りながら、全ての弟子をこの上なく愛されました。主イエスは銀貨30枚で御自分を売り渡したユダをも愛しておられたのです。主イエス・キリストは彼のためにも死のうとしておられるのです。では、何故に彼は生まれなかった方が良かったと言われなければならなかったのでしょうか。それは過越祭の食事の席で、何度も悔い改めの機会を与えて下さったその機会を自ら放棄したことです。自分の心の内にある罪に汚れたパン種を主イエスに取り除いていただくことを拒否したことによるのです。

 

 主にあって愛する皆さんに申し上げたい。あなたがどれほど優秀な頭脳をもって、この世的に成功を収めても、社会的に認められる仕事を成し遂げても、良き家庭人であってもイエス・キリストを救主と認めることの出来ない生涯は自己の罪と向き合うことのできない生涯です。自己の罪と向き合わず、悔い改める事をしない生涯の終わりは滅びです。滅びの穴が口を開けて待つ闇の中に消え去らねばならないのです。あなたの心の内にある悪しきパン種の存在をあなたは認めなければなりません。それは決して自分で取り除けるものではありません。主の御前に出てありのままの自分を差し出すことです。そうすれば主はあなたを受け入れて下さいます。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、私たちは主イエス・キリストと12弟子の一人イスカリオテのユダの悲しい決別の物語を学びました。主イエス・キリストの愛は御自分を銀貨30枚で売り渡そうとする者にも向けられていました。しかしユダはその愛さえも拒み、濃い暗闇の中に永遠に消え去ってしまいました。これほど私たちの心を緊張させる物語はありません。しかもこれはフィクションではなく、現実に起こった出来事なので、尚更心が震えます。主よ、どうぞ今私たちの中にある古いパン種を取り除いて下さい。あなたを主と認めることの出来ない頑なな心、自己中心の心、あなたよりも自分にとって興味深いものを優先させる汚れた心を清めて下さい。こんなに罪深い者ですが、今あなたの御許に震えおののきつつ悔い改めを言い表しますから、どうか十字架の血潮を持って私たちを清めて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげ致します。アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む