【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年9月1日

み言葉にすがる
詩編119編116節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今の時代は「忙しい」という言葉が美化されています。反対に、「暇」であることを罪悪のように錯覚し勝ちです。「夕焼け小焼けで陽が暮れて…」の童謡にもあるように、かつて子どもたちは夕暮れ、お母さんが「ご飯よ」と呼びに来てくれるまで友達と遊んでいたものです。ところが現代のお母さん方は子どもたちを遊ばせることで「勉強が遅れるのでは」という不安に駆られています。また食事のためにゆったりとした気持ちで時を過ごすことも難しいのです。何かせかせかと追い立てられるようにパンをかじりながら目は書類に、空いた方の手で書き物をすると言ったことが普通になっています。これでは多分食べた気がしないばかりか、何を食べたのかさえ分からないでしょう。このように社会全体が時間の奴隷になっている現状では人々の心を刺々しいものにしてしまう危険があります。「忙しい」という文字が「心を亡ぼす」と書くのは言い得て妙です。確かに現代社会は心が滅びつつある時代です。溜まりにたまったストレスが受容の限界を超えてついに凄惨な事件を引き起こす一因となっているのでは?

 このような時代だからこそ1週間の内の1日を教会に来てぼろぼろになりかけた心を主イエスのみ言葉によって繕って頂く必要があるのです。しかしその折角の日曜日さえ礼拝が終わるのを待ちかねて世の中にとんぼ返りしなければならないとすれば、魂に蓄えられたみ言葉が消化不良を起こします。  「あなたの仰せによりすがらせ 命を得させてください。わたしの望みを裏切らないでください。」と詩人は祈ります。今日礼拝に来られたあなたも是非この祈りを祈って下さい。礼拝のメッセ−ジはあなたにとってただありがたいお説教で終わって欲しくないのです。このみ言葉によりすがる思いで、そしてあなたの望んでいる事柄が必ず主イエス・キリストの父なる神に聞き届けられていなければならないのだと言う熱意のもとにもう一度消化して欲しいのです。これがファミリー分級の意味なのです。分級で聖書を読み、また語り合っている内に、あなたはきっとその日礼拝で聴いたメッセ−ジの意味を更に詳しく示されることでしょう。

今日から「教会学校月間」です。豊かな人生を得る道は聖書をより深く学ぶことから見出せるのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2002年9月1日

み言葉にすがる
詩編119編116節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 今日から私たちの日本バプテスト連盟が主催する「教会学校月間」に入ります。毎年9月になると教会学校の目的と使命を改めて考えさせられます。「全ての人がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれながら教会を形づくり、生の全領域において主イエス・キリストのみ言葉に聴き、主をあかしする生活を確立することにある」と、これが教会学校の目的です。同時にこれが教会学校に関わる者に与えられた使命でもあるのです。そして今年の聖書教育誌7〜9月号18頁に「教会学校月間の目的」が箇条書きで書かれています。短い文章なので引用したいと思います。

@ 教会学校の使命を教会全体に伝えること。
A 信徒一人々が教会学校での奉仕や参加する喜びを確認すること。
B 夏休みで散っていたメンバーがこの機会に教会に戻り、教会学校への参加者の輪をさらに広げること。秋の特別伝道集会やクリスマスへとつなげること。

 ちょっと分かりにくい文章ですが、意味することは理解できます。要するに教会学校の使命を教会全体で確認して、喜びをもってその奉仕に参加し、メンバーを呼び集めて秋から冬にかけての教会プログラムにつなげて行こうと言うことだと思います。そもそも私たちの連盟はいつからこのようなことを提唱するようになったのでしょうか。確かわたしがまだ高校生の頃まではなかったように思います。わざわざ呼びかけなくても、たくさんの青少年が教会に来ていたからかも知れません。ところがいつの頃からか、9月第1主日に「教会学校振起日」という呼び名で教会学校の拡充がはかられると共に、教師たちのレベルアップを目指して実践的指導法の必要が叫ばれ、教派を超えて様々な参考書が次々と出版され始めました。その後、9月第3〜4週にかけて「教会学校強調週間」と呼び名も新たに、文字通り教会学校の必要が強調されるようになりました。そして1989年から「教会学校」となりました。このように時代と共に、呼び名の変遷はありますが、連盟を挙げて教会学校は伝道のための重要な機関であることを改めて感じさせる良い機会として用いられています。

 

 皆さんは毎週日曜日毎に教会に来て礼拝を献げておられます。確かに礼拝は私たちの日常の生活を整えるために欠かせない時間です。しかし牧師として正直に申し上げますが、礼拝に出ているだけでは十分とは言えないことにも気付いて頂きたいのです。聴いたメッセ−ジを消化する時間が必要です。今の時代は「忙しい」という言葉が美化されすぎているように思えます。反対に言うと暇であることを罪悪のように錯覚される時代ではないでしょうか。「夕焼け小焼けで陽が暮れて」の童謡にもあるように、かつて子どもたちは夕暮れ、お母さんが「ご飯よ」と呼びに来てくれるまで友達と遊んでいたものです。ところが現代のお母さん方は子どもたちを遊ばせることで勉強を遅らせるのでは」という不安に駆り立てられているようです。

 食事のためにゆったりとした気持ちで時を過ごすことが許されていないのです。何かせかせかと追い立てられているようにパンをかじりながら目は書類に、空いた方の手で書き物をすると言ったことが普通になっています。これでは多分食べた気がしないでしょう。また何を食べたのかさえ分からないでしょう。このように社会全体が時間の奴隷になっている現状では人々の心を刺々しいものにしてしまう危険があります。「忙しい」という文字が心を亡ぼすと書くのは言い得て妙です。確かに現代社会は心が滅びつつある時代です。溜まりにたまったストレスが、受容の限界を超えて、ついに凄惨な事件を引き起こす一因となっているのではないでしょうか。

 このような時代だからこそ1週間の内の1日を教会に来てぼろぼろになりかけた心を主イエス・キリストのみ言葉によって繕っていただく必要があるのです。しかしその折角の日曜日さえ礼拝が終わるのを待ちかねて世の中にとんぼ返りしなければならないとすれば、今朝私たちの魂に蓄えられたみ言葉が消化不良を起こします。

 「あなたの仰せによりすがらせ命を得させてください。わたしの望みを裏切らないでください。」と詩人は祈ります。今日礼拝に来られたあなたも是非この祈りを祈って下さい。礼拝のメッセ−ジはあなたにとってただありがたいお説教で終わって欲しくないのです。このみ言葉によりすがる思いで、そしてあなたの望んでいる事柄が必ず主イエス・キリストの父なる神に聞き届けられていなければならないのだと言う熱意のもとにもう一度消化して欲しいのです。これがファミリー分級の意味なのです。ファミリー分級で聖書を読み、また語り合っている内に、あなたはきっとその日牧師を通して語られたメッセ−ジの意味を更に詳しく示されることでしょう。もう1時間、いや30分でもファミリー分級に参加して、頂いたメッセ−ジを消化する時間に宛ててみて下さい。後の6日間の生活がきっと今までと変わっていることにあなたは気付くはずです。   「教会学校月間」は誰のためでもない、あなたの為のものです。どうか、皆さんのために祈りをもって準備して分級に望んでおられるクラスのリーダーのご奉仕に感謝して下さい。そしてこの方々のために祈って下さい。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝もまたあなたから頂いた命のみ言葉を心から感謝します。今日私たちの周りには理解しがたい凄惨な事件が相次いでいます。この不気味に乱れた社会、また荒れすさんだ家庭を救って下さるのはあなた御自身であり、あなたのみ言葉以外にありません。どうかこの地域の一人でも多くの人が教会に導かれますように、み言葉に耳を傾ける機会が与えられますように、私たちもまた出て行ってこの良い音信である聖書を彼らにお届けする者とならせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげ致します。アーメン。


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