【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年9月15日

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詩編91編14-16節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 詩編91篇の詩人は「彼」が神を慕う者(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人=1節)であるから、神もまた前面、背後、側面などあらゆる方向から来る災難があっても彼を守ると約束しておられます。では、神を慕う心を持たない人に対して、聖書の神はどうされるでしょうか。創世記にヤコブという人の生涯が書かれています。この人は後に神から「イスラエル」という名で呼ばれるようになり、聖書はその子孫をイスラエル人と呼んでいます。彼は実に神に愛された人です。しかし聖書に見るこの人の生き様はそれにふさわしいとはとても言えません。はっきり言うと嫌いになります。でも少し好きになれる部分もあります。ずっと後の方まで我慢して読むと、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(創世記48:15)と言っています。彼は自分の性格の悪さに気が付いていたのです。嫉妬深く、計算高く、狡猾でどうしようもないいやな人間だと言うことを誰よりも知っていました。しかし人間という者は、分かっていてもどうにもならないことがあります。私たちが聖書を読んでいてヤコブをどうしても好きになれないのは、自分の中にもヤコブ性が見えるからではないでしょうか。

 私たちは自分の性格を自分で変えることが出来ないことを知っていながら、人には限りなくその努力を求めるのです。人をだますことに慣れた人ほど、人に騙されると激しく怒ります。ヤコブがそうでした。一度は命からがら叔父を頼っておきながら、一息つくとその叔父と激しい駆け引きを繰り返し、叔父の裏切りを赦せなくなるのです。そしてついに喧嘩別れしてしまいました。そう言う人でした。しかしその彼も晩年、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神」と述懐します。自己中心の自分を、ただ一方的に愛し、赦し、今日まで守り導いて下さっていた神がおられることを知った彼は、心からの悔い改めと感謝の思いに満たされて神を讃美します。

 聖ルカ病院の日野原重明先生は、「人間は生きた時間の長さではなく、生きた中身の濃さが大切だ」と言われました。中身の濃い人生とはどう言う人生でしょうか。私たちが罪深い者であるのに、私たちの罪が赦され、清められるために、私たちに代わって神の審きとしての十字架に死んで下さった御子イエスの恵みの数々を知って、この神の赦しの中に生きる人生です。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2002年9月15日

救いを見る
詩編91編14-16節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 世間では今日、9月15日を「敬老の日」と呼び、人生の先輩に敬意を表します。とても良いことです。教会でも勿論同じ思いで今日という日を迎えています。そしていつまでもお元気でいてほしいと言う心に変わりないのです。同時に私たちはこの教会には、共に主イエス・キリストの道を歩む仲間として、高齢の方々が与えられていることを主に感謝し、主の御前に礼拝を献げているのです。

 全員のお名前をご紹介させて頂きます。最高齢者は服部幸太郎兄(96)。 続いて石原憲男兄(85歳)、岡本綾子姉(84)、今野高子姉(84)、角柄タツ子姉(82)、鈴木菊枝姉(82)、石原ひろ子姉(80)、吉永明子姉(80)、仙波志げ子姉(76)と言う順に9名を数えます。本当に感謝します。

 ところで聖ルカ病院の日野原重明先生は、「人間は生きた時間の長さではなく、生きた中身の濃さが大切だ」と言っておられます。また「良く生きることは良く死ぬことであり、良く死ぬことは良く生きることだ」とも言われました。今年卒寿(90歳)を迎える方の言葉だけに重みがあります。

 「まだ若いよ」と誰からも相手にされない服部昭衛兄、高橋斐子姉、そして私のように60代の者は世に言う還暦です。人生の折り返し点ですから、そろそろ身の回りの整理を始めかけているのです。自分の過ぎ来し方を顧みて、人生の中身について考え始める年頃です。70代、80代の方々は何をこしゃくなと笑うかも知れませんが、その方々もきっと60代に入った頃にはある種の感慨があったのではないかと思います。日野原先生の言われる、「生きた時間の長さではなく、生きた中身の濃さが大切だ」と言う言葉の重みを思えばなおのことです。ましてや70代、80代、90代の方々はこの言葉を他人事ではないと言う思いで受けとめておられることでしょう。是非ともしっかりと受けとめて欲しいのです。では、中身の濃い人生とはどう言う人生でしょうか。それは「我が生涯に悔いなし」と言える、良き死を迎えることに尽きるのではないでしょうか。

 詩編91篇の詩人は「彼」が神を慕う者(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人=1節)であるから、神もまた前面、背後、側面などあらゆる方向から来る災難があっても彼を守ると約束しておられます。では、神を慕う心を持たない人に対して、聖書の神はどうされるでしょうか。創世記にヤコブという人の生涯が書かれています。この人は後に神さまから「イスラエル」という名で呼ばれるようになり、聖書はその子孫をイスラエル人と呼んでいます。彼は実に神に愛された人です。しかし実際に聖書を通してこの人の生き様を知れば知るほど嫌いになります。でも少し好きになれる部分もあります。ずっと後の方まで我慢して読むと、こういう1節があります。「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(創世記48:15)という件です。彼は自分の性格の悪さに気が付いていたのです。嫉妬深く、計算高く、狡猾でどうしようもないいやな人間であることを誰よりも分かっていたのです。しかし、人間という者は、分かっていてもどうにもならないことがあります。良く夫婦が別れるときの理由の一つとして「性格の不一致」を挙げる人がいますが、それは違うと思います。性格が合わないからではなく、余りにも性格が似すぎていて、まるで自分のいやな部分を相手の中に見る思いがしますから、それに耐えられずに悪いことを全部相手の勢にして離婚して行くのではないでしょうか。親子も性格が似ていると余り仲が良くないと言います。それでも人は自分を変えるのではなく、相手が変わることを期待するのです。自分で自分をどうしようもないことを知っているからです。私たちも聖書を読んでいてヤコブがどうしても好きになれないのは、自分の中にもヤコブ性が見えるからではないでしょうか。私たちは自分の性格を自分で変えることが出来ないことを知っていながら、人には限りなくその努力を求めるのです。また人をだますことに慣れた人ほど、人に騙されると激しく怒ります。ヤコブがそうでした。一度は命からがら叔父を頼っておきながら、一息つくとその叔父と激しい駆け引きを繰り返し、叔父の裏切りを赦せなくなるのです。そしてついに喧嘩別れしてしまいました。そう言う人でした。その彼も晩年、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神」と述懐します。自己中心の自分をただ一方的に愛し、赦し、今日まで守り導いて下さった神がおられることを知った彼は、心からの悔い改めと感謝の思いに満たされて神を讃美します。

 中身の濃い人生とは何でしょうか。誰でもそうですが、まだ血気盛んな年頃には分かりませんでした。しかし教会の交わりに加えられて還暦を過ぎ、「古希」(70歳)、「喜寿」(77歳)、「傘寿」(80歳)、「米寿」(88歳)、「卒寿」(90歳)、「白寿」(99歳)と年を重ねるに連れて真剣に考え始めます。神はよくも忍耐をもってこんな私を愛し、養い、導いて下さったものだと感謝が溢れてくるものです。その時初めて人は変えることの出来ない自分を変えて下さる全能の神の力を身に染みて知るのです。神の溢れる愛が私に注がれていたからこそ、今あることが赦されているるのだと気付かされるのです。繰り返します。中身の濃い人生とは、私たちのどろどろとしたあの経験、このしがらみではないのです。それは人生の垢に過ぎないのです。人生という血管にこびりついて、神の恵みの流れを妨げて動脈硬化を起こしかけていた悪玉のコレステロールに他なりません。わたしの人生を濃く豊かなものにして下さるもの、それは神の赦しと愛の数々です。

 実際、振り返れば、あの時神の審きが下されて私たちは滅んでいても不思議ではなかったと思い返すことが沢山あります。あるいは真面目に生きているつもりでも、次々と耐えがたい試練が襲ってきた時、神さまは何をしているのかと愚痴ったり、もう駄目だと何度覚悟を決めたか分かりません。しかし、私たちは今、ここにこうして生きているのです。見た目に問題は何一つ解決していないように見えますが、私たちは今ここにいるのです。それは私たちの知らないところで神が働いて下さっているからです。私たちは自分の力で生きていると思うのは誤りです。神の守りの中に生かされているのです。

 詩編91篇の詩人も言っているではありませんか。「彼はわたしを慕う者だから  彼を災いから逃れさせよう。 わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え 苦難の襲うとき、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ わたしの救いを彼に見せよう。」と。

私たちは生きてきた時間の長さを喜ぶだけでなく、色濃く私たちに臨んで下さる神の寛容と赦しの恵みをこそ指折り数えましょう。

 ルカによる福音書にシメオンという高齢の信者のことが書かれています。彼は神の宮で幼子イエスに出会ったとき、感激の涙を流して神を讃美して言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29)と。これほど充実した人生はありません。イエス・キリストに出会い、イエス・キリストの救いに与ることほど幸いな人生はありません。

 今日の御言葉はどの年代の人にも共通したメッセ−ジが与えられていますが、特に今日は長寿を共に祝い、命の主である神さまに感謝する礼拝を献げる日です。そこで高齢者であるあなたに申し上げたい。あなたが今日まで守られた命の日々を思い、あなたの過ぎ来し方を振り返って悔い改めるべきものがあれば今悔い改めて頂きたい。あなたの人生にイエス・キリストとの出会いの機会を与え、救いに引き上げて下さった神に感謝し、心静かに喜びを表して下さい。

 高齢者であるあなたにこれからの日々について申し上げたい。今までと同様に、これからもあなたを持ち運んで下さる主イエス・キリストの約束を思い、ヤコブのように感謝を込めて、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」と讃美する者となって下さい。

高齢者であるあなたに、あなたがこの地上を取り去られる日のことを思って申し上げたい。あなたもあのシメオンのように、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29)と讃美する者となって下さい。   

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちの教会に9名の高齢者を与えてくださっている恵みを心から感謝します。創世記のヤコブも、今日のテキストである詩編91の詩人も、そして幼子イエスさまを腕に抱いてマリアとヨセフを祝福したシメオンも、みな人生の夕暮れを迎えながら、しかしその目は過ぎし日の感謝と、永遠の御国を思う希望に輝いています。人生は長さではない。濃さだと言われた日野原先生の言葉の通り、私たちは若者も高齢もなく、いつ主が私たちをこの地上から取り去られても良い備えが必要ですが、殊に私たちの先輩である高齢の方々にはこの言葉を重く受けとめておられることでしょう。どうか、ここにいる高齢者の一人ひとりをヤコブ、詩編91の詩人、シメオンとして、残された日々を、そして永遠の御国に至るまでもあなたの救いのみ手で守り養って下さいますように、私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。

アーメン。


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