【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年9月22日

主を尋ねよ
イザヤ書55章6−7節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 ユダの民がバビロンに捕囚されておおよそ70〜80年を経過していたかも知れません。キュロスの解放令が出されるのを待ちかねていたように喜び勇んで故国エルサレムに帰還した人々のある一方で、今更住む家も定まらない故国に帰って何ができるのかと不安を覚える人たちは腰を上げようとしません。住む家も保証され、食べるに困らない程度の資産を手にした人々にとって、ここはそれなりに居心地が良いのです。しかし神は預言者を通して、「なぜ、糧にもならぬもののために労するのか」と言われます。経済的、物質的に恵まれているからと言って、それがあなたの魂にどれだけの保証となっているのかと言う意味です。「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」と、何とかして彼らの重い腰を上げて、エルサレム帰還民の仲間入りをさせようと語り続けるのです。そして、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。…わたしに尋ね求めようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」(イザヤ書55:6、65:1)と招きのメッセ−ジは続きます。

 今日あなたの人生は本当に安定した土台の上に築かれているのでしょうか。豊かな物質文明・華やかな文化に、ただ憧れる毎日ではありませんか。異教の地に安住している内に、帰るべき故国を忘れかけたユダの人々のように、あなたもこの世の平和と安定を求めることに心を注ぐ余り、天と地の造り主、永遠の神のいますこと、本当に帰るべきもっと良い天の故郷のあることを忘れてはいませんか。あなたの心から天地の創造主である神を消し去り、見える豊かさや華やかさを追い求めるだけの人生は決して祝されないでしょう。神を捨てたまま生き続ける人を、神もまたその終わりの日に捨てることでしょう。しかし今はまだあなたを捨ててはいません。それどころか、神はいかなる罪人であっても尋ね求められることを喜び、「わたしはここにいる。わたしはここにいる」と呼びかけていて下さるのです。この神こそイエス・キリストです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                         2002年9月22日

主を尋ねよ
イザヤ書55章6−7節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 教会学校月間は今月一杯続きますが、今週末から私たち牧師夫妻は一寸遅い夏期休暇を頂きますので、教会を留守にします。それで1週間早めですが、教会学校月間の締めとして、今朝はファミリー分級で用いられている聖書教育の10−12月号の、特にイザヤ書を中心にメッセ−ジを取り次ぐことにします。

 イザヤとは「ヤハウェの救い」という意味から来た名です。66章からなる膨大な預言書ですが、イザヤが実際に預言活動をし、またそれを記述したのは紀元前7〜6世紀頃のことで、全体の約半分に当たる39章までです。当時南王国ユダはまだ健在で、エルサレムには神殿もありました。その後バビロン帝国によって王国は滅び、ユダの人々は捕囚の身となりました(紀元前587年)。しかし約50年の後ペルシャ帝国の王キュロスがバビロンを滅ぼしましたが、キュロスは捕囚民に対して寛大な政策をもって遇しました。イスラエルの人々も故国に帰ることが許されました(紀元前537年)。それが40〜55章の第二イザヤと呼ばれる預言書で、時代的には紀元前6世紀頃のことで、私たちは11月に学ぶことになります。

 56−66章は第三イザヤと呼ばれるやはり無名の預言者の作ですが、バビロンからの帰還民は、早速神殿の再建に関わります。これを第二神殿と呼びます。しかし、預言者はこの第二神殿を前にしながら、一人ひとりの信仰を鼓舞し、目に見える神殿にもまさって内なる神殿、神への純粋な信仰が打ち立られてこそシオンの回復が実現すると勧めて終わります。私たちはこれを12月に学ぶ予定です。なぜ、9月にエレミヤ書、10〜11月にイザヤ書を学ぶのかを良く考えるのもファミリー分級の内容を豊かにふくらませることになると思います。

 

 ユダの民がバビロンに捕囚されて大凡50年余り経ちました。一口に50年と言いますが、決して短い年月ではありません。寄留の地バビロンではいつの間にか世、。世が大勢を占め、彼らがコミュニティの中心になっています。イザヤ書55章の時代は更に20〜30年を経過していたかも知れません。今では懐かしい故国ユダヤと都エルサレムを知る人は少なくなりました。キュロスの解放令が出されるのを待ちかねて喜び勇んで故国に帰還した人々のある一方で、今更住む家も定まらない故国に帰って何ができるのか不安を覚える人たちは腰を上げようとしません。イスラエル民族としての誇りもすでに薄らいでいます。おまけにかつてユダヤの人々の心を占めていた神殿を中心とした宗教生活は忘れられ、価値観もすっかり変わり、物質生活に慣れきってしまっています。バビロンからペルシャへと支配者が代わり、またそれによって自由を制限されたり、何かと不便を強いられますが、反面少しですが、豊かさのおこぼれにも与ることができるようになっています。住む家も保証され、食べるに困らない程度の資産を手にした人々にとって、ここはそれなりに居心地が良いのです。

 しかし神は預言者を通して、「なぜ、糧にもならぬもののために労するのか」と言われます。経済的、物質的に恵まれているからと言って、それがあなたの魂にどれだけの保証となっているのかと言う意味です。「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」と預言者は神のみ言葉を取り次ぎながら、彼らの重い腰を何とか上げて、エルサレム帰還民の仲間入りをさせようとしているのです。6−7節はこのメッセ−ジのクライマックスです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。叫び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ  悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば  豊かに赦してくださる。」と。

 ユダの人たちはエルサレムに帰還することもできます。しかしまたこのままバビロンの町に残っても良いのです。今はもう捕囚の身ではありません。彼らは自由です。問題はその自由をどのように用いるかと言うことです。「しかし」と神は言われます。あなたたちは本当にそれで良いのか。本当に自由を勝ちとったと言えるのか。あなたたちの先祖はかつてエジプトで鎖に繋がれながら重労働に喘いでいた。わたしは彼らの叫びを聞いて彼らをエジプトの縄目から解放してカナンの地に導いた。しかし、今あなたはこのバビロンにあってもっと惨めな奴隷になっている。それは鎖に繋がれる奴隷ではなく、このバビロンにおける豊かさを保証する文明、心を楽しくする華やかな文化の奴隷になり果てているからであると言われるのです。

 7節の「神に逆らう者」を口語訳は「悪しき者」、M.ルターは「神なき者」と訳しています。彼らには神に逆らっていると言う意識はありません。ごく普通の人間として、ごく普通の生活をしたいと願っているに過ぎません。では何故神は彼らを指して、「神に逆らう者」、「悪しき者」と呼ぶのでしょうか。それは彼らの心が、バビロンに住む異邦人と同じところに立とうとしているからなのです。彼らの心はいつの間にか「神無き者」となっているのです。神無き人生が全ての悪の根源であり、神に逆らう者の証なのです。天と地の創造主である神を恐れる思いが消えるとき、人は何だってしでかしてしまいます。イザヤ書はここで私たちに警告を発しています。「人は罪を犯して初めて罪人なのではなく、初めに心の中から神を消し去った「神に逆らう者」であるから、初めから罪人だから、罪に罪を重ねてしまうのであると。

 「糧にならぬもの」、それは一時的にしか腹を満たさない物質です。もちろん私たちはそれによって肉体を支える必要はあります。しかしそれが全てではありません。肉体を太らせるだけで心が、魂が痩せ衰えていてはその人の人生は本当に豊かではあり得ません。

 

 今日あなたの人生は本当に安定した土台の上に築かれているのでしょうか。異教の地に安住している内に、帰るべき故国を忘れかけたユダの人々のように、あなたもこの世の平和と安定を求めることに心血を注ぐ余り、天と地の造り主、永遠の神のいますこと、本当に帰るべきもっと良い天の故郷のあることを忘れてはいませんか。あなたの心から天地の創造主である神を消し去り、目に見える豊かさや華やかさを追い求めるだけの人生は決して祝されないでしょう。神を捨てたまま生き続ける人を、神もまたその終わりの日に捨てることでしょう。

 しかし神は何と憐れみ深い方でしょうか。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」と。第三イザヤが取り次ぐ神のメッセ−ジは更に憐れみ豊かな内容です。

「わたしに尋ね求めようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」(イザヤ書65:1)と。

 愛する兄弟姉妹、あなたの人生に神はおられますか。この世の華やかな文化や物質を求める余り、この神を心から閉め出してしまっていませんか。もしそのような人がいるなら、どうか今と言う時に神を尋ね求めて下さい。神は喜んであなたの心の内に住み、あなたの人生をもっともっと豊かなものにして下さいます。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

人は極度に困難を極めても、また余りに安らかな日々が続いてもあなたを忘れてしまう愚かな者です。かつてユダの人々はバビロンの地に安住を求めました。しかし預言者は声を限りに信仰共同体に立ち帰るようにと招き続けました。

今日多くの人もまた目に見える安心の上に腰を落ち着けて、もっと良い天の故郷への憧れを、もつことができなくなっています。しかしあなたは今も私たちを見捨てることなく、私たちに尋ね求められることを期待して、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と呼びかけて下さいます。どうか今朝、ここにいる全ての兄弟姉妹の心にも、あなたを求め、あなたの用意して下さっているもっと良い天の故郷を待ち望む者として下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


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