【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年10月6日

「食べなさい、飲みなさい」
マタイによる福音書26章章26-30節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 私たちが月に一度主の晩餐に与るのは、ただ儀礼的な行事をこなしているのではありません。29節をご覧下さい。「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで」と言われました。「新たに飲むその日」とあるように、天の御国では今とは違った意味の酒宴が用意されています。今行われている酒宴はわたしたちの罪の清めと救いのために十字架上で流される神の小羊、イエス・キリストの血潮を象徴したものです。私たちはイエス・キリストを信じバプテスマを受けて救いに与った者です。神の子の一員とされる約束に与った者です。しかし、現実は救われてキリストの弟子とされて後も罪を犯し、神の悲しみとなる失敗を重ねています。このようなことでは父なる神の御国で用意されている「新たな食事」に招いて頂けないかも知れません。

 マタイ22:1−14はその新たな酒宴に招かれた人々の譬え話です。しかし、この席に着こうとした人の中に、貸し与えられたはずの礼服を着ていない人がいて、その人はその場から追放されてしまったのです。それは救われてキリストの弟子とされた者が再び罪に汚れたのに、悔い改めることをしないまま、地上の生涯を終えた人のことを指しているのです。キリスト者であっても罪を犯すのです。地上にあって罪の誘惑に遭わずにすむ人は先ずいません。ではもう一度バプテスマを受けるのでしょうか。それは主をもう一度十字架につけるに等しい愚かなことです。

 では救われて後罪に落ちた者はもう天国への道を永久に閉ざされてしまったのでしょうか。そうではありません。いかなる人にも悔い改めのチャンスがあります。それが主の晩餐です。主イェスは、「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われました。使徒パウロは「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(气Rリント22:26)と解説しています。バプテスマは一回的な救いの門です。しかし主の晩餐は罪に堕ちた者をその都度救済する恵みの道です。だから私たちはこの主の晩餐に儀礼的な気持ちや、義務的な思いで与ってはなりません。それこそ「主の体と血に対して罪を犯す」ことになる、相応しくない姿勢です(气Rリント11:27)。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                                    2002年10月6日

「食べなさい、飲みなさい」
マタイによる福音書26章章26-30節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 レオナルド・ダビンチという画家はこの聖書から「最後の晩餐」と言うタイトルの絵を描きました。皆さんも一度や二度何かの機会にご覧になったことがあると思います。この絵はもちろん西欧風に描いていますから、当時の食事の風景とは必ずしも一致しません。それはともかくこの絵の中には食事中、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われた主イェスのお言葉に、部屋の中が一瞬緊張に包まれ、やがて「その人は誰だろう」と騒然となっている様子が見事に描かれています。考えてみると、この食事のとき主イェスを中心にどの弟子がどこに座っていたのか、とても興味深いのですが、詳しくは分かりません。ただ2人の人物については、四福音書を手掛かりに想像がつきます。主イェスを真ん中にしてその直ぐ右か左隣にヨハネとイスカリオテのユダがいたようです。

 マタイ26:23とヨハネ13:26をご覧下さい。イエスは片方の弟子イスカリオテのユダには同じスープの鉢にパン切れを浸して渡しています。また反対隣の弟子ヨハネはイエスの胸に寄りかかり、「あなたを裏切る者はだれですか」と問いかけています。2人とも主イェスの直ぐ隣でなければそのようなことはできません。他の弟子がどこにいたのか席順についてはっきり分かりませんが、主イェスを真ん中にイスカリオテのユダとヨハネが直ぐ隣にいたというのは、この福音を読む私たちの心を捕らえます。同じように主イェスの直ぐ脇にいて、一人は主の弟子であることを喜び、一人は主を裏切ろうとしているのです。そのことを深く心に留めながら、私たちは心して主の晩餐の意義を学びましょう。

 

 主イェスはパンを裂き、「取って食べなさい」と言い、またぶどう汁を杯に注ぎ、「皆、この杯から飲みなさい」と言われました。このパンはいつも食べるパンですが、いつもとは異なった意味を持つパンなのです。このぶどう汁はいつも飲むジュースですが、いつものジュースとは異なる意味を持つジュースなのです。何がどう異なっていると言うのでしょう。この教義学上の解釈についてキリスト教会では、今日大体三通りの流れがあります。ローマ・カトリック教会では、このパンとぶどう汁が一旦信徒の口に入った途端、その実体がキリストの体に変化すると言います。これを「化体説」と言います。ルーテル教会では、パンとぶどう汁が信徒の口に入ったとき、パンとぶどう汁の中に、パンとぶどう汁と共に、パンとぶどう汁の下に、真実のキリストの体が共に宿ると主張します。これを「共在説」と言います。またジョン・カルバンの流れを汲む長老派や改革派の教会では、パンはパン、ぶどう汁もまたぶどう汁です。それはキリストに変化することはないし、それによってキリストが共在するわけでもない。それはキリストを「象徴」するものであると言うのです。私たちバプテスト教会も大体この説に近いのですが、もっと明確に言うなら、主イェス御自身ルカ22:19で言っておられるように、私たちはこのパンとぶどう汁をもって信仰によってキリストを記念しながら頂くのであります。ですからバプテスト教会ではこの事をしっかり心に留めるべく、このパンとぶどう汁そのものに何か神秘的な意味合いを置く誘惑に陥らないように「聖餐式」とは言わず、敢えて「主の晩餐式」と呼んでいるのです。この特別の式を挙行する者が教会であり、その奉仕をする者が牧師であっても、真の主催者は主イエス・キリストだからです。

 

 処で、主イエスは弟子たちにパンを分け与えるとき、一つ一つのパンではなく、一個のパンを裂いて渡されました。ここに主の晩餐の大いなる意義があります。使徒言行録を見ると、初代の教会の信徒たちは、「パンを裂く」と言えば、「主の晩餐」のことと理解していました(使徒言行録2:42,20:7,27:35)。それほどにパンを「裂く」ということがこの場合重要なのです。その意味はキリストの十字架に共通しているのです。主イェスは繰り返し、「わたしは天から降って来た命のパンである」と言われました(ヨハネ6章)。霊的な意味でのパン、私たちの魂を救い、養う神の言葉の受肉としてのキリストを指します。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者がこの席で裂かれたパンを食べるとき、その一人ひとりは十字架の上で自分のからだを裂き、罪の贖い代として死んで下さったキリストと共に、古い罪に死んで葬られたことを思い起こして真実な悔い改めへと導かれるのです。

 今日衛生面からぶどう汁は各自小さなガラスのコップから頂きますが、主イエスは弟子たちにぶどう汁を分け与えるとき、一つの器にぶどう汁をついで、それを回し飲みするように手渡しました。ここに主の晩餐に与るもう一つの意義があります。これは主イェスが十字架の上で流される血潮を意味します。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者がこの席でぶどう汁を飲むとき、一人ひとりは十字架の上で流された主イェスの血潮によって全ての罪が清められ、救われ、神の子としての身分を与えられるのです。イエス・キリストが十字架の上で流して下さった血こそ、神の契約を有効にする証印なのです。私たちはそれによって神に属する共同体、即ちキリストの教会の一員とされたことを思い起こして主に対する感謝と讃美へと導かれるのです。一つのパンから切り分けられ、一つの杯から分けられたぶどう汁を受ける時、キリストの教会は形造られるのです。キリストの教会が形造られるとはどう言う意味でしょうか。

 「神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:1−7)と、教会は主の晩餐に与る毎に愛において一致し、謙虚にされて行くのです。

 以上でお分かりのように、私たちが月に一度主の晩餐に与るのはただ儀礼的な行事をこなしているのではありません。主イェスは「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで」(29節)と言われました。「新たに飲むその日」とあるように、天の御国では今とは違った意味の酒宴が用意されています。今行われている酒宴はわたしたちの罪の清めと救いのために十字架上で流される神の小羊、イエス・キリストの血潮を象徴したものです。私たちはイエス・キリストを信じバプテスマを受けて救いに与った者です。神の子の一員とされる約束に与った者です。しかし、現実は救われてキリストの弟子とされて後も罪を犯し、神の悲しみとなる失敗を重ねています。このようなことでは父なる神の御国で用意されている「新たな食事」に招いて頂けないかも知れません。マタイ22:1−14はその新たな酒宴に招かれた人々の譬え話です。しかしこの席に着こうとした招待客の一人は貸し与えられたはずの礼服を着ていなかったために、その場から追放されてしまいました。それは救われてキリストの弟子とされた者が再び罪に汚れたのに、悔い改めることをしないまま、地上の生涯を終えた人のことを指しているのです。キリスト者であっても罪を犯すのです。地上にあって罪の誘惑に遭わずにすむ人は先ずいません。ではもう一度バプテスマを受けるのでしょうか。それは主をもう一度十字架につけるに等しい愚かなことです。では救われて後罪に堕ちた者はもう天国への道を永久に閉ざされてしまったのでしょうか。そうではありません。いかなる人にも悔い改めのチャンスがあります。それが主の晩餐です。主イェスは、「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われました。使徒パウロは「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(气Rリント11:26)と解説しています。バプテスマは一回的な救いの門です。しかし主の晩餐は罪に堕ちた者をその都度救済する恵みの道です。だから私たちはこの主の晩餐に儀礼的な気持ちや、義務的な思いで与ってはなりません。それこそ「主の体と血に対して罪を犯す」ことになる、相応しくない姿勢です(气Rリント11:27)。

 主と主の弟子たちは地上における最後の晩餐を終えて、讃美を歌いながら、オリーブ山へと出かけました。それは十字架への道行きです。私たちも主の晩餐を終えて再びこの世に遣わされます。それは主に従う者が負うべき十字架の道でもあるのです。しかし、私たちにはその十字架を踏み越えて勝利された復活の主が共におられます。讃美を歌い、新たな希望に燃えてこの場から出て行きましょう。

 

祈りましょう。 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

あなたの大いなる愛とくすしい恵みを感謝します。あなたは私たちがまだあなたを知らず、この世の習わしに従って、自己中心の生活を送っていたとき、私たちの罪を執り成す救主イエス・キリストをこの世に与え、十字架において、救いの門を開いて下さいました。そしてこの地上にキリストの教会を建て上げ、全ての罪人に悔い改めの機会を与えて下さいました。私たちは十字架のイエス・キリストに導かれてバプテスマを受け、古い罪の私に死んで葬られ、復活の主イェスと共に甦らせられて、新しい永遠の生命を持つ身となりました。

しかし、私たちはその後にもサタンの誘惑によって罪に罪を重ね、あなたの悲しみとなる生活へと立ち帰りそうになります。しかし、あなたはそのような私たちを見捨てることをしないで、その都度十字架のイエス・キリストに立ち戻って悔い改めに導く主の晩餐の席を用意して下さっています。これによって私たちはあなたから引き離されることがないのです。この恵みの席に今私たちは悔い改めと感謝をもって着こうとしています。更に今日主イェスを信じてバプテスマを受けたいという思いが与えられている人がいることを確信します。どうぞここにいる全ての者に罪の悔い改めとあなたを信じる信仰へとお導き下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。

アーメン。


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