【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年10月13日

「鶏が鳴く前に」
マタイによる福音書26章章31-35節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

主イェスはオリブ山へ行く途中、弟子たちに向かって、彼らの裏切りを予告して、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。間もなく弟子たちは主イェスを見捨てて八方に散らされ、逃げて行くと言うのです。誰かが羊飼いを打つと、羊は四方八方へと散らされてしまいます。主イェスが十字架によって打たれるとき、弟子たちは皆離散して行くと主が予告すると、弟子たちは「わたしたちは決してそのようなことをしません」と否定しました。ペトロなどは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と断言しました。頼もしい決意表明です。これに対して主イェスは静かに「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と警告されます。それでもペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と自信を仄めかします(マタイ26:33)。

しかし、このような絶対の自信にこそつまずく必要があるのです。この場合つまずくとは、砕かれるという意味を同時に持っているのです。つまずき、砕かれて自分の不確かさに目覚めて初めて人は真に救われるのです。私たちの信仰は人間の努力で積み上げて行くものではなく、私たちの思い上がった罪のために死んで下さった主イェスの恵みに対する応答でなければならないのです。

「鶏が鳴く前に」と主イェスは言われます。これは一番鶏の鳴く前にと言う意味です。カレンダーの日付が変わったと言っても、まだまだ世間は暗い時刻です。私たちの心もまた暗黒に包まれ、どこをどう進めばよいか分からない時があります。自分のことしか見えなくなり、心ならずも友や親兄弟を裏切ることがあります。いや、私たちは愛する主イェスをさえ裏切ってしまうのです。しかし、一番鶏が鳴く時刻は暗闇でも、やがて間もなく、初更を迎える時が迫っています。主イェスは、主を裏切ってしまうような弱い私たちの罪を贖うために十字架に勝利して下さったのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2002年10月13日

「鶏が鳴く前に」
マタイによる福音書26章章31-35節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

フランスのカトリック信者で作曲家のオリヴィエ・メシアン(1908−、1962年来日、各地で講演。現代作曲界に大きな影響を与えた)が22歳の時に作った曲に、「忘れられたささげもの」と言うのがあります。「ささげもの」とはイエス・キリストの十字架による贖いのことです。その作品によると、人は皆キリストが私たちの罪を贖うため十字架に死んで下さったことを忘れているというのです。メシアンはまたその作品の中で、「イエス・キリストが十字架に上げられて死んだことを覚えているだけなら、それは知識である。問題は、なぜイエスが十字架に死なねばならなかったのかと言うことを忘れている。だから主イエス・キリストの十字架は忘れられた献げものになってしまった」と聴く者に語りかけているのです。キリストは私たちにとっても「忘れられた献げもの」となってはいないでしょうか。しかと心に留めて今朝のメッセ−ジに耳を傾けましょう。

 

主イェスはオリブ山へ行く途中、弟子たちに向かって、彼らの裏切りを予告して、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。間もなく弟子たちは主イェスを見捨てて八方に散らされ、逃げて行くと言うのです。誰かが羊飼いを打つと、羊は四方八方へと散らされてしまいます。主イェスが十字架によって打たれるとき、弟子たちは皆離散して行くと主が予告すると、弟子たちは「わたしたちは決してそのようなことをしません」と否定しました。ペトロなどは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と断言しました。頼もしい決意表明です。これに対して主イェスは静かに「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と警告されます。それでもペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と自信を仄めかします(マタイ26:33)。

しかし、このような絶対の自信にこそつまずく必要があるのです。この場合つまずくとは、砕かれるという意味を同時に持っているのです。つまずき、砕かれて自分の不確かさに目覚めて初めて人は真に救われるのです。私たちの信仰は人間の努力で積み上げて行くものではなく、私たちの思い上がった罪のために死んで下さった主イェスの恵みに対する応答でなければならないのです。

「鶏が鳴く前に」と主イェスは言われます。これは一番鶏の鳴く前にと言う意味です。カレンダーの日付が変わったと言っても、まだまだ世間は暗い時刻です。私たちの心もまた暗黒に包まれ、どこをどう進めばよいか分からない時があります。自分のことしか見えなくなり、心ならずも友や親兄弟を裏切ることがあります。いや、私たちは愛する主イェスをさえ裏切ってしまうのです。しかし、一番鶏が鳴く時刻は暗闇でも、やがて間もなく、初更を迎える時が迫っています。主イェスは、主を裏切ってしまうような弱い私たちの罪を贖うために十字架に勝利して下さったのです。

 

ここに並べられている写真の人々は皆私たちにとって信仰の先達です。私たちは今朝この写真の方々を記念してここに集められ、主に礼拝をささげています。私たちが先に召された方々を心に留めること、記念することの意味は、彼らをこの地上に生かし、その人生の途上で彼らと出会い、十字架による救いの道を示し、信仰を与え、色々な経験を通して彼らを導き、そしてこの世の人生を終わらせて御許に召し寄せて下さった神にのみ栄光を帰することにあります。「ほむべきは主」です。同じ讃美と証をこの写真の方々は遺していって下さいました。私たちの心の琴線にもそれは重なって讃美となるのです。

ご遺族、また教会のメンバーにとっても写真のお一人びとりに尽きぬ想い出がおありでしょう。わたしは写真の方全てを存じ上げませんが、それでも角柄登喜雄兄、服部貞子姉、鈴木洋男兄など在りし日を鮮明に記憶しています。その一人、鈴木洋男兄は生前「足跡」という詩をことのほか愛唱しておられました。長い詩なので、全部読み上げることはしませんが、内容は一人の人が夢の中で砂浜に残るイエスと共に歩んだ自分の人生の足跡を見つけます。しかしその所々に一人分の足跡しか見られません。思い返せば、それは自分にとって最も苦しいときであり、密かに罪に悩んでいたときでした。それで彼は主イェスに尋ねます。「あなたはわたしが最も辛く苦しいとき私を独りぼっちにして置かれたのですか」と。すると主が答えるには、「いや、わたしは片時もあなたを離れたことはない。足跡が一つになっているのはわたしがあなたを背負っていたときなのだ」と。

故人となられたこの方々は皆同じです。どの人を思い起こしても生まれてから死ぬ瞬間までハッピーであった、何の問題もなかったと言いきれる人は恐らく無かったと言えましょう。どの人もひそかに罪に泣き、人生の矛盾に愚痴をこぼし、理不尽な不幸を恨みもしたことでしょう。しかしそのような人生のどん底を歩くときにも彼らはその信仰の故に主に背負われている自分を思い返すことが出来たはずです。皆人生の暗黒に鶏の鳴く声を聞き、主を裏切る人生であったことを思い起こして悔い改めの涙を流した人々です。そしてその涙によって主イエス・キリストの十字架の意味を学んだのです。ペトロも、この写真の方々も、そして私たちも。「アーメン。あなたがたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」というみ言葉の前に砕かれなければならないのです。私たちの思い上がりこそ主を十字架に釘付けてしまったからです。

 

しかし、主イェスが語って下さったもう一つのみ言葉は何という慰めに満ちたお言葉でしょうか。

「わたしは復活した後、あなたがたより先にガラテヤへ行く。」とのお言葉です。「先に」とは、時間を表す「先に」ではありません。これは詩編23編、またヨハネによる福音書10章のみ言葉に裏打ちされているのだと言うことを忘れてはなりません。

「わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命をを捨てる。…わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛して下さる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 (ヨハネによる福音書10:12,14〜18)

 

天の父なる神は確かに十字架という鞭で羊飼いである主イェスを打たれるのです。それによって羊である弟子たちはみな散らされてしまうのです。しかし、神は復活の主イェスによって再び彼らを呼び集めて下さいます。これによって分かるように、「あなたがたより先に」とは羊を再び呼び集めてその群を養い、導くために、再び羊の先頭に立って下さると言うことです。彼らを呼び集め、彼らを養い導くその牧場は、ガリラヤだというのです。ガリラヤ、それは弟子たちが主に出会った最初の場所です。そこは彼らにとって信仰の原点です。一度は主イェスにつまずき、主イェスを捨てた弟子たちですが、復活の主はその彼らをもう一度信仰の原点に立たせます。彼らを「初めの愛」に立ち戻らせて下さるのです。

今朝は召天者を記念する主日礼拝です。復活の主にあって、復活の主を待ち望みながら召された兄弟姉妹の信仰を思い、彼らの主であるイエス・キリストを今私たちも受け入れて、同じ御国への道をしっかりと歩み続けることが出来ますようにと祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝、私たちは召天者記念にあたり、あの砂浜に残されたそれぞれの足跡、いや、主が背負って下さった足跡を認めることができます。私自身の足跡もまたそこに認めることができます。その多くの足跡は主よ、あなたに背負われてようやく今あることを認める足跡です。人生の大半はあなたを知らないと言う弱さの連続でした。しかし、主イェスはそのような弱さをあの一番鶏の鳴き声と共に受けとめ、十字架の上にその一切を赦して下さったのです。罪に泣くばかりの私たちの心の闇にもキリストは復活の朝を与えて下さいました。それ故今こそ私たちは主の御名を心から崇め讃美致します。あなたに栄光が世々限りなくありますように。

救主イエス・キリストの皆によってこの祈りをおささげ致します。

アーメン。


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