【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年10月20日

「心は燃えても」
マタイによる福音書26章36-46節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ゲッセマネとは「油しぼり」と言う意味があり、オリーブの栽培が盛んに行われていた土地です。その一角で主イェスは神の怒りの杯(十字架刑)という究極の苦い杯を避けることが許されるならと、さながら油をしぼり取るように苦しみ呻きながら、祈りをささげられました。同時に十字架の向こうに見えるもっと恐ろしい地獄を思い、そのような所に世界の誰をも陥れてはならないと、高きにいます「神の子」としてではなく、どろどろとした罪人の住む世界に身を置く「人の子」であり続けて、結局私たち罪人が受けるべき神の審きとしての十字架を私たちに代わって受ける道を選び取ってくださいました。それ以外に私たちを救う道がないからです。

 その頃、主を愛して止まない弟子たちは何をしていたかと言うと、眠っていたのです。主は睡魔に勝てない弟子たちを叱りながら、それでも「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と同情を寄せて下さいました。彼らは普段主イェスの直弟子と言うことで、多くの人の尊敬を集めていたことでしょう。自分たちも、よもやこの大事な時に居眠りをするとは予想もしていなかったはずです。これが弟子たちの限界でした。そしてこれが私たちの現実です。私たちがどれほど「主を愛している」と言い切ったとしても、主イェスが私たちを愛して下さる愛の大きさにはかなわないのです。そのことを思い、私たちは主の御前にもっと謙らなければなりません。

 主イェスが飲み干された「杯」とは、「神の激しい怒りのぶどう酒の杯」(ヨハネの黙示録16:19)です。神は神に背く世の人々に対して激しく怒り、世を審く死の杯を注ごうとしておられます。神は聖にして義なる方ですから、世の罪、汚れを見過ごしにできません。これを一掃してしまいたいのです。しかし、同時に神の本質は愛です。愛なる神は世の罪人をご覧になって、憐れみの御心を起こされました。神は世の罪を審いてぬぐい去り、しかも罪人を救うという、一見相矛盾することを成し遂げて下さいました。それが十字架です。神は愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、一切の罪を彼に負わせ、その命を罪の代償として私たちを神の怒りから免れさせて下さいました。ここに愛があります。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                         2002年10月20日

「心は燃えても」
マタイによる福音書26章36-46節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 主の弟子ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。…たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(33,35節)と、自分がいかに主を愛しているかわかって頂こうと熱弁を振るいます。しかし、人間は未来のことについて何も分からないのですから、「決して」とは決して言うべきではないのです。

 このできごとは4福音書全てに記録されているのですが、注意深く読むと、「ゲッセマネの園」と明記されているのはマタイ26:36とマルコ14:32だけで、ルカは「いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると」(22:39〜40)と言うように、ゲッセマネとはっきり書いていません。またヨハネも、「さあ、立て。ここから出かけて行こう」(14:31)と言うように、もっと曖昧な表現になっています。ルカやヨハネにとって、改めて「ゲッセマネ」と書く必要もないほど、そこは弟子たちの間で良く知られた場所、主が祈りの場としてしばしば用いられていたところです。実はこの「いつもの所」と言うことが弟子たちにとって思わぬ落とし穴となりました。そこは通い慣れた所です。良く知っている場所です。祈る主イェスの後ろ姿もまた見慣れた光景です。しかし弟子たちにとって、この慣れがつい睡魔と戦う気力を萎えさせたのだと言えないでしょうか。

 皆さんにとってこの仙川キリスト教会は通い慣れた会堂です。ここではいつもの時間に礼拝がささげられ、いつもの曜日に祈祷会が開かれています。良く知っているのです。ここで愛する主に従い、学ぶことを私たちは喜んでいます。心は燃えているのです。しかし同時にこの良く知っている、「いつもの所で、いつものように」献げる礼拝と祈り会も、時間の経過と共に、次第に緊張感を失わせ、信仰的惰眠を貪る落とし穴となっていることがあります。この事を今朝もう一度心しておかなければなりません。

 

 ゲッセマネとは「油しぼり」と言う意味があり、オリーブの栽培が盛んに行われていた土地です。ルカ22:44によると、主はゲッセマネの園で血の滴るような汗を流すほど苦しみもだえながら、切に祈っておられたのです。戦っておられたのです。主イェス御自身お言葉に出されたほど、十字架という究極の苦い杯を避けたかったのです。けれども主イェスは十字架の向こうに見えるもっと恐ろしい地獄のあることを思って、そのようなところにいかなる人をも陥れてはならないと、戦ってくださったのです。主イェスはあの時高きにいます「神の子」としてではなく、どろどろとした罪人の住む世界に身を置く「人の子」であり続けて下さいました。主はこの祈りの後、私たち罪人が受けるべき神の審きとしての十字架を私たちに代わって受ける道を選び取ってくださいました。それ以外に私たちを救う道がないからです。

 その頃、主を愛して止まない弟子たちは何をしていましたか。眠っていたのです。主イェスは睡魔に勝てない弟子たちを叱りながらそれでも、「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と同情を寄せて下さいました。彼らは普段主イェスの直弟子と言うことで、多くの人の尊敬を集めていたことでしょう。自分たちも、よもやこの大事なときに居眠りをするとは予想もしていなかったはずです。これが弟子たちの限界でした。そしてこれが私たちの現実です。私たちがどれほど主を愛していると言い切っても、主イェスが私たちを愛して下さる愛の大きさにはかなわないのです。そのことを思い、私たちは主の御前にもっと身を低くしなければなりません。

 

 私の妻は3人姉妹の長女です。年齢差は4歳と2歳です。所が不思議なことにそれぞれの連れあいは3人とも1942年生まれです。同年輩と言うこともあってお互い気のおけない間柄ですが、それでも何かと言うと一応長女の夫と言うことで私を立ててくれます。立ててくれるのはありがたいのですが、一人の義弟などは私がキリスト教会の牧師と言うこともあって、「あの人は神さまや」と呼んでいるそうで、恐縮してしまいます。香川県丸亀市内の教会で働いていた頃は町内の女の人たちが妻を呼ぶ時、「高橋さん」とは呼ばないで、「キリストさん」と呼ぶのです。妻はキリストさん、私は神さまです。当然のことですが私たちは、キリストさんでも神さまでもありません。罪の誘惑と戦わなくてはならない一人の弱い人間です。

 ペトロや外の弟子たちと同じように、心の中では精一杯主を愛しているつもりです。一家の台所を預かる人が、毎日毎日、今夜のおかずを何にしようかと頭を悩ますように、教会の牧師も毎週の礼拝メッセ−ジの準備に追われる日々です。一寸油断していると直ぐに金曜日、土曜日になります。ですから礼拝が終わると、もうその次の日曜礼拝のことを無意識に考えているのです。「苦みの混じった料理が良いかな、でも余り苦すぎては胃腸に悪いし、辛すぎると血圧に影響する。かと言って余り甘すぎても糖分の摂りすぎで成人病を引き起こす。固いと消化不良を起こすし、柔らかいものばかりでは力が付かないしなあなた」と食材である聖書の箇所を前にして献立と料理に頭を抱える日々です。その他に毎週の水曜祈祷会や木曜祈祷会のメッセ−ジ準備もあります。

 静かな夜、書斎で原稿作りを始めますが、いつの間にか睡魔が襲ってきます。目をこすり、腿をつねって眠らないように戦えば戦うほど疲労感が更に増して、いつの間にか寝入ってしまっているのです。はっと目を開けると、それは文字の代わりに何行も何行も意味不明の記号のようなものになっているのです。意味不明の記号の長さは居眠りをしていた時間の長さに比例しているのでしょう。福音書によれば、主イエスはこれまでも弟子たちや世の人々のために夜を徹して祈られたと言うことです。今もゲッセマネの園で主は世の救いのために父なる神の御心を求めて一所懸命祈っておられます。この教会と地域の人々、HPを開いてメッセ−ジに目を通し、救いの道を求めて問い合わせてこられる未知の人々に仕えるために牧師/伝道者として召されている私ですが、とてもではないが、ゲッセマネの園で祈られた主の熱心さにかなわないと言うことを思い知らされるのです。

 主イェスが父なる神から差し出された「この杯」について、新約聖書巻末のヨハネの黙示録16:19は、「神の激しい怒りのぶどう酒の杯」だと言っています。神は神に背く世の人々に対して激しい怒りを表し、世を審く死の毒杯を注ごうとしておられます。神は聖にして義なる方ですから、世の罪、汚れを見過ごしにできません。これを一掃してしまいたいのです。しかし、同時に神の本質は愛です。愛なる神の目には自分が何をしているのか分からずに人生をさまよう世の罪人をご覧になって、これに憐れみの御心を起こされました。神は御自身の聖さを満足させ、しかも御自身の内にある愛を満足させたいと思し召しました。つまり、神は世の罪を審いてぬぐい去り、しかも罪人を救うという、一見相矛盾することを成し遂げて下さいました。それが十字架です。神は愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、世の一切の罪を彼の背に負わせ、「怒りの杯」、死の杯をイエス・キリストに注がれました。十字架こそ全世界の罪の象徴です。主イェスはこの杯を受け、ご自分の命を罪の代償として私たちを神の怒りから免れさせて下さいました。ここに愛があります。

 

 最後に主イェスは言われます。「立て、行こう。」と。主イェスは今の今まで眠りこけていた私たちの魂を揺り起こして下さいます。私たちは今初めて知るのです。不信仰で、自己中心で、卑怯で、主の弟子だとか、クリスチャンだとか言うのも恥ずかしい者なのです。そんな私たちにできることは、「立て、行こう」と、眠りかけていた信仰を揺り起こし、促して下さる主イェスに従って行くことなのです。

 

 クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「人は死んで天国に行くと思う前に、神の前に出るのだと言うことを忘れてはならない」と言いました。ロマンチックに天国のことを考えるのではなく、地獄の苦しみを味わって下さった十字架の主イェスを思い、この主イェスに従って行く者となりましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちはあなたを心から愛しています。しかし、あなたが私たちを愛して下さる愛には到底及びません。私たちの主は血の滴りのような汗を流すほどに神の怒りの杯を受けるべきか否か、苦しみもだえつつ御心を求め、結局それを受け取り、飲み干すが如くに十字架の道を選び取ってくださいました。

 しかしその頃主が愛された弟子たちは睡魔に勝てず、深い眠りに陥っていました。あなたの目には私たちもその眠れる弟子の一人です。心は燃えているのですが、肉体の弱さには抵抗できません。私たちは日々このようにしてあなたを失望させています。こんな弱い私たちのためにあなたの御子イエス・キリストは十字架に上げられて下さったのです。確かに私たちが今あるのは、主が私たちの罪の贖いとして私たちに代わって神の怒りの杯を受けて下さったからです。あなたの憐れみ深い赦しと愛を心から感謝します。今より後、あなたのしもべとして最善を尽くして従って参ります。どうぞ私たちを受け入れて下さい。  救主イエス・キリストの皆によってお願い致します。

アーメン。 


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