【主日礼拝メッセージ要約】                      2002年11月24日

 

「美しい足」

ローマ10章15節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」

 

これは旧約聖書イザヤ書52:7の聖句です。使徒パウロもこのローマ10:15でイザヤ書から引用しています。確かにこの聖句は私たちに「美しさ」の概念を根本的に改めさせる力があります。通常私たちが想像する美しい足は色白で形が良く、汚れていない足ですが、イザヤが語る美しい足はそれとは全く反対です。どろどろに汚れていて、土踏まずなど殆ど目立たないべた足で、しかも埃にまみれた足です。多分殆どの人はその足を一目見るなり、「そのまま家の中に入ってこないで!」と、急いでバケツに水を汲み雑巾とタオルを用意するであろう、そんな足です。この足のどこが美しいというのでしょうか。しかしイザヤもパウロも、誰の目にも汚れている足を「美しい」と言いました。賢明な皆さんにはその意味がお分かり頂けると思います。そうです。この足は良い知らせを一人でも多くの人に聞かせて上げたいという聖い志と愛のために歩き続けたために汚れた足なのです。誰はばからずに見せることのできる足なのです。

もう一つ学ぶべきこと、それは、私たちの足はどのような汚れ方でしょうか。良い知らせを託されているのに、しかし誰にも伝えることをしないで、自分の生活に忙しくしていた為に汚れた足になっているのではないでしょうか。もし、私たちの足が自己中心の生活によって汚れてしまったのであれば、確かにその足は洗って貰わなければなりません。この事で思い出す一つのエピソードがあります。ある日主イエスは一人ひとりの弟子の足を洗ってくださいました。弟子たちの足もまた汚れていたのです。主のために、この世の人々に奉仕する為に汚れた足がありました。けれども己の欲望を満たすために主イエスを裏切る汚れた足もありました。しかし、主はどんな汚れ方をした足であっても無条件に、「あなたはわたしから離れてはいけないよ」という一声をかけながら洗ってくださったのです。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2002年11月24日

「美しい足」

ローマ10章15節

メッセージ 高橋淑郎牧師

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」

 

 これは旧約聖書イザヤ書52:7の聖句です。使徒パウロもこのローマ10:15でイザヤ書から引用しています。確かにこの聖句は私たちに「美しさ」の概念を根本的に改めさせる力があります。通常私たちが想像する美しい足は色白で形が良く、汚れていない足です。しかしイザヤが語る美しい足はそれとは全く反対です。どろどろに汚れていて、土踏まずなど殆ど目立たないべた足で、しかも埃にまみれた足です。多分殆どの人はその足を一目見るなり、「そのまま家の中に入ってこないで!」と、急いでバケツに水を汲み雑巾とタオルを用意するであろう、そんな足です。この足のどこが美しいというのでしょうか。

 何年か前、友人に誘われて超教派の諸教会が主催する集会に参加したことがあります。内容の充実したプログラムで、メッセ−ジにも力があり、得るものの多い集会でした。しかしただ一つ気に掛かったことがありました。謙遜と従順を実践的に学ぶことを目的に、一方の人が相手の足を洗うというプログラムがありました。気になったのは、足を洗ってもらう側の人が急いでおふろ場に行って、自分の足をきれいに洗っているのです。わたしはこの何とも奇妙な光景を見て、プログラムの主旨が分からなくなり、その時間をパスしました。正直言って心が冷めてしまったのです。

 イザヤもパウロも、誰の目にも汚れている足を「美しい」と言いました。賢明な皆さんにはその意味がお分かり頂けると思います。そうです。この足は良い知らせを一人でも多くの人に聞かせて上げたいという聖い志と愛のために歩き続けた結果汚れた足なのです。誰はばからずに見せることのきる足なのです。もし洗って上げようと言う人がいたら、堂々とその人の前に出して良い足なのです。もし、そんな汚れた足は洗いたくないと言う人がいるなら、その方が問題なのです。

 

 もう一つ学ぶべきこと、それは、私たちの足はそのような汚れ方でしょうか。良い知らせを託されながら、それを懐にしのばせて、結局誰にも伝えることをしないで、自分の生活に忙しくしていた結果汚れた足になっているのではないでしょうか。諺に、悪い生活から足を洗うという言葉があります。もし、私たちの足が自己中心の生活によって汚れてしまったのであれば、確かにその足は洗って貰わなければなりません。誰に洗って貰いましょうか。この事で思い出す一つのエピソードがあります。主イエス・キリストご自身、主の晩餐の席で一人ひとりの弟子の足を洗ってくださいました。弟子たちの足もまた汚れていたのです。色々な生活の背景を持っている弟子たちの足を主は黙々と洗ってくださいました。主のために、この世の人々に奉仕するために汚れた足があったでしょう。けれども己の欲望を満たすために主イエス・キリストをあしざまにする汚れた足もありました。しかし、主はどんな汚れ方をした足であっても無条件に、「あなたはわたしから離れてはいけないよ」という一声をかけながら洗ってくださったのです。私がかつて参加した集会のプログラムのように、誰かに洗って貰うために先ず自分で足を洗う必要はありません。汚れたままの足を他ならぬ主の御前に差し出して洗っていただきましょう。主の御前に差し出す足こそ私たちが悔い改めている証として、主はきっと喜んで洗ってくださいます。私たちの罪にまみれた足を本当に清くすることのできる方は主イエス・キリストを置いて外に誰がいるというのでしょうか。

 

 こうして私たちの生活が本当に整えられたところで、私たちはその足を今度は良い知らせを伝えるための足として用いていただかなければなりません。良い知らせとは、「わたしを愛し、私たちの罪を清めて救って下さった主イエス・キリストは、あなたをも愛し、あなたをも救って下さいます」と告げて回ることです。

 

 今日から日本バプテスト連盟では世界バプテスト祈祷週間(〜12月1日)です。私たちはこの機会に日本バプテスト連盟から派遣された宣教師たちが日夜良い知らせを告げて回っていることを思い、彼らの働きのために祈り、またその働きに必要なものが満たされるために献金しましょう。また、教派を越えて厳しい環境の中にあって、命がけで働いている国々の宣教師や牧師の働きのためにも祈りましょう。更に私たち自身のことにも目を向ける必要があります。

 去る11月9日〜10日にかけて私たちの教会は工藤篤子姉をお招きしてのコンサートを開きました。延べにして106名の参加を得ました。その内教会員、他の教会員の方々、その他2日とも参加された方々を除くと、それでも50名ほどになるでしょう。この企画は一般の方々に親しめるように「コンサート」と呼びましたが、教会としては「秋の伝道集会」と位置づけて1年がかりで準備してきた集会です。この2日にわたるコンサート呼ばれる伝道集会が成功したか否かは106名の参加人数によって決まるのではありません。沢山の参加が得られたことを以て喜ぶだけではここは劇場と変わりないことになります。これから私たちがこの50名の方々に、何らかの方法で継続的に教会へお誘いして良い知らせを告げること、またこの教会まで遠い方は、どこか近くの教会に定着するように関わりを持つことを通して、彼らの内の幾人かがイエス・キリストに真に出会って罪の悔い改めと救いに与る人があってこそ、この集会は成功であったと言えるのです。これこそ主から託されている教会としてのミッションであることを忘れてはなりません。勿論50名の方全てがアンケートに名前を残して行かれたわけではありません。アンケートに書き残していって下さった方の中にも、引き続き教会からの集会案内など連絡を断るという回答もありました。そのような人たちの存在は神が私たちに与えて下さった祈りのチャンスです。私たちはこの方々を忘れてしまって良いというのではありません。祈りはこのような時のためのものです。主の御霊にこの方々を委ね、継続的に祈りに覚えることです。神は私たちの祈りを通して働いて下さいます。私たちが祈り続けるなら、彼らはきっと長い時間の後、どこかの教会に導かれることでしょう。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(コヘレトの言葉11:1)というみ言葉があります。

 住所も書き残して下さり、連絡も良いという回答の人がいます。また回答はなくても、皆さんの中にはその参加者と個人的に親しい人がいらっしゃることでしょう。そのような人の存在は神がこの教会に与えて下さった伝道のチャンスです。世界はあなたの足元から開かれています。あなたの愛する家族、友人、職場や学校の先輩、同僚、後輩、近所の人、通勤・通学途中や日常の買い物先で出会う全ての人、この人たちがあなたにとって世界への第一歩なのです。良い知らせを告げるチャンスは無数にあります。私たち夫婦はこの春、日帰りで奥多摩の湯に浸かって参りました。偶々そこで出会った一人の方と親しくなり、短い時間ですが、自分が牧師であることを含めてお話しする機会が与えられました。その方はその後も私たちのことを覚えて下さっていて、この度開かれたコンサートにおいでになりました。また、最近では都内のある地下鉄の電車の中で証券新聞を読んでおられる証券マンと隣り合わせました。その方はわたしと同年輩なのに、眼鏡もかけずに細かい活字を読んでおられるので、「羨ましいですね」という一言から親しく話し合う機会が与えられました。繰り返しますが、このように良い知らせを伝える機会は沢山あるのです。私たちは出会う人毎にひたすら良い知らせを告げるのみです。後はその良い知らせを聞いた側の責任です。イエス・キリストを信じるか否かはその人の決断にかかっているのですから。そのために私たちの足が汚れるほどに告げて回るのです。足に豆ができるかも知れません。形の良い足が扁平足になるかも知れません。きれい好きのあなたとしては抵抗があるかも知れませんが、汚さなくてはならないのです。それでこそ主にあってイザヤが言い、パウロも評価するほどの「美しい足」となれるのです。そうです。良い知らせを告げるあなたの足はこの世の美脚コンテストでは先ず落選間違いなしです。しかし、天国の美脚コンテストではあなたの足はきっと高い評価を得ることでしょう。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今日から世界バプテスト祈祷週間に入りました。このようなとき、私たちは文字通り世界中で厳しい迫害の中、今日も熱心に伝道のために働いておられる宣教師や牧師のことを思い起こす機会が与えられますから感謝です。真の平和をもたらす器として彼らを尊くお用い下さい。どうぞ彼らに特別の祝福がありますように。そして世界中の教会を通して世界中の魂をお救い下さい。

 顧みますと、私たち仙川キリスト教会もその世界の中にある教会の一つです。どうか私たちの足をも世界中の教会とそこで働く宣教師や牧師と共によい知らせを告げ回る足として用いて下さい。あなたから美しいよと言われるほど、福音のために汚して下さい。

 私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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