アドベント第1週                      2002年12月1日
【主日礼拝・メッセージ要約】                      
「皮の衣」

創世記3章20−24節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「アドベント」とは、「来臨」という意味です。教会ではキリストの御降誕を祝うクリスマスまでの4週間、祈りつつ待ち望む日々をクリスマス・アドベントと呼んでいます。今朝はその第1日曜日としてキャンドルの灯が1本ともりました。罪に塗りつぶされた暗黒の世に平和と希望の光であるキリスト(救い主)が降誕して下さるという約束の徴としての灯りです。

 ところで聖書によると、クリスマス・アドベントは天地創造の初めから始まっています。アダムとエバは禁断の木の実を食べたとき、確かにその目が開かれました。しかしそれは善に目覚めたのではなく、罪と恥に目覚めた瞬間でした。彼らはお互いに裸であることに気付き、イチジクの葉をつづり合わせて隠しました。これが裁縫の起源であり、エプロンという衣服の起源です。けれどもイチジクの葉はやがてしぼみますから、彼らはその都度作り直したことでしょう。こんなことを繰り返しても、いつかはイチジクそのものが地上から消え失せてしまうだけです。現代人もまた高い科学文明と生産力を誇りながら同じように愚かな行為を繰り返し、地球資源を枯渇させようとしています。己の欲望を満たすために禁断の木の実に手を伸ばした2人とその子孫である私たちは、このように悲しい辻褄合わせに奔走しているのです。それでも神は愚かで罪深い人間をお見捨てになりません。人間が犯した罪の償いを神はご自身の手で解決して下さいました。心を込めてお造りになった獣をアダムとエバのために屠って下さいました。皮の衣は彼らの罪を赦すという神の憐れみの徴です。これには神の独り子イエス・キリストを与えるという約束が込められているのです。動物が屠られて愚かな人間の恥を覆ったように、キリストは私たちの罪を覆う救いの衣として十字架に屠られて下さいました。

 クリスマス・アドベントに入りました。私たちには救いの衣が備えられているのです。罪に汚れた暗い現代社会に救いの光が灯りました。まだ救いを知らない人は十字架の上に血を流してあなたのために救いの衣を備えて下さったイエスさまを心の内に待ち望みつつアドベントの日々をお過ごし下さい。

 
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アドベント第1週                      2002年12月1日
【主日礼拝・メッセージ】                      
「皮の衣」

創世記3章20−24節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 クリスマス・ツリーを飾るようになった歴史はそう古くはありません。今から約480年ほど前の16世紀にドイツのアルザス地方で最初に飾られたという記録があります。ツリーの創始者はアンスガールとも、ボニファティウスとも、或いはマルチン・ルターだとも言われています。いずれにしても誰かがパラダイスの「木」とクリスマスの「光」を合わせたクリスマス・ツリーを飾りだしたことから始まりました。このようにクリスマス・ツリー自体は聖書に由来しているわけではありません。しかし思いつくまま、まるで七夕の笹に願い事の限りをくくりつけるように、何でも飾ればよいと言うものではなく、極めて聖書的意味を持っていることを心に留めなければなりません。

 先ず何故ツリーなのでしょう。これはキリストの十字架を意味しているのです。ツリーには常緑樹が選ばれます。それはキリストによる復活の命、永遠の生命を意味しています。そのツリーの天辺には一際大きな星があります。これは遙か東から来た博士たちを、救い主がお生まれになったベツレヘムへと導いた星になぞらえています。金や銀の玉は、ヨハネの黙示録に約束されているパラダイス、即ちアダムとエバが追放されたエデンの園の回復と、そこに実る果実を現しています。天使とベルはキリストの福音を、杖は迷える羊のようにこの世を導く羊飼いキリストを象徴しています。ツリーのあちこちに見られる赤い色のものはキリストが十字架に流された血潮を、白は清さを、金は王なるキリストを現しているのです。またツリーの本場ドイツではドイツ語でホスティエと呼ばれる主の晩餐式用のパンを掛けるのです。ついでのことに家々の門口に飾るリースは、キリストの頭に被せられた茨の冠を現しているのです。この時期に見られるポインセチアや柊もまたキリストの血潮を現しているのです。このように、クリスマスはただイエス・キリストの御降誕を喜ぶだけではなく、そこには私たちの罪のために死んで下さったキリストの贖罪を記念する意味も込められていることを忘れてはなりません。

 

 クリスマス・アドベント第1主日の今日、キャンドルの灯が1本ともりました。「アドベント」とは、「来臨」という意味です。教会ではキリストの御降誕を祝うクリスマスまでの4週間、祈りつつ待ち望む日々をクリスマス・アドベントと呼んでいます。罪に塗りつぶされた暗黒の世に平和と希望の光であるキリスト(救い主)が降誕して下さるという約束の徴としての灯りです。では、罪はいつからこの世に入り込んできたのでしょうか。驚くべき事に、天地創造の初めに早くも罪はこの世に入り、この世を暗くしたのです。それを今日ご一緒に学びたいと思います。

 

 アダムはパートナーをエバと名付けました。これはアダムの創造主である神への悔い改めの告白です。エバとは「命」という意味があり、彼女が全て「命ある者の母」となったと説明されていることから分かります。彼は神の息(霊)を吹き入れられたことによって、神の命を宿す者として造られました(2:7)。更にまた神は彼のために命の木を備えて下さいました(2:9)。彼と彼のパートナーとして造られたエバはその実を自由にとって食べることができたのです。その実を食べることによって、彼らは被造物の中で唯一永遠の命を約束されていたのです。エデンとは「喜び」とか、「楽しみ」という意味ですが、彼らはそのエデンの園において永遠の幸福を享受することができたはずでした。しかし、彼らは創造主である神の戒めよりも、光の天使に変装したサタンと呼ばれる悪魔が囁く耳障りの良い誘惑の言葉に聞き従ったために(3:1〜6)、彼らは産みの苦しみと子育ての苦労、顔に汗して働く明け暮れの後、やがて土に還る者、即ち死すべき運命を背負う者となってしまいました。アダムが妻の名をエバと名付けたのは、そうした自分たちの罪の歴史をありのままに認めて告白したことを意味しているのです。人は誰でも「母」という呼び名に何とも言えない快い響きと、懐かしい郷愁を感じます。しかし、聖書が「母」の呼び名のルーツを語るとき、アダムが認める罪の告白の事実を示しているのです。「人間は泣きながら産まれてきて、泣きながら死んで行く」と言った人がいます。確かに赤ちゃんが笑いながら産まれてきたのを目撃した人はいないでしょう。アダムに始まる罪の歴史を、私たちに思い起こさせる神の御心ではないでしょうか。

 アダムとエバは禁断の木の実を食べたとき、確かにその目が開かれました。しかしそれは善に目覚めたとか、真の知恵に目覚めたのではなく、罪と恥に目覚めた瞬間でした。彼らはお互いに裸であることに気付き、比較的面積の広いイチジクの葉をつづり合わせて隠しました。ある聖書はこれをエプロンと訳しています。これが裁縫の起源であり、エプロンという衣服の起源です。けれども枝から切り離されたイチジクの葉は僅かの時間しかその役目を果たすことができません。それはやがてしぼみ、彼らはその都度作り直したことでしょう。こんなことを繰り返しても、いつかはイチジクそのものが地上から消え失せてしまうだけです。現代人もまた高い科学文明と生産力を誇りながら同じように愚かな行為を繰り返し、地球資源を枯渇させようとしています。己の欲望を満たすために禁断の木の実に手を伸ばした2人とその子孫である私たちは、このように悲しい辻褄合わせに奔走しているのです。

しかし、神は愚かで罪深い人間をなおもお見捨てになりません。人間が犯した罪の償いを、神は、神ご自身の手で解決して下さいました。ご自身心を込めてお造りになった獣をアダムとエバのために屠って下さいました。「皮の衣」は彼らの罪を赦すという神の憐れみの徴です。

 

 しかし福音書を見ると、神が彼らのために備えて下さった皮の衣には、アダムの子孫である全世界の罪人を救うために、神の独り子イエス・キリストを与えるという約束が込められていることに気付かされます。

 聖書は「皮の衣」を身にまとっている3人の人を紹介しています。1人はアダム、2人目はエリヤ(列王記下1:8)、3人目はバプテスマのヨハネ(マタイ3:4)です。エリヤもバプテスマのヨハネも偉大な預言者たちでした。彼らの人となりもまた模範とすべき人格高潔の教師と呼ぶことができます。多くの人は彼らの纏っている衣を見て何と質素なものであったかと語る人がいます。しかし、皮の衣は本当に質素なものと言えるでしょうか。今日でも革製品は高価です。アダムはともかくバプテスマのヨハネはラクダの毛衣であったと言いますから、決して質素であったとは言えません。全てに質素であったエリヤもバプテスマのヨハネもアダムと同じ毛皮の衣をまとって預言活動をしていたのは、このような毛衣にまさる更に良い救いの衣を纏わせるために、いつの日か神は救い主を与えて下さることを世に知らしめると言うメッセ−ジをそこに込めているのです。

 アダムとその子孫である私たちは今なお遠くエデンの東に住む者です。しかし、クリスマス・アドベントに入りました。私たちには救いの衣が備えられているのです。クリスマスは神さまがイエス・キリストと言う神の小羊を十字架に釘付けることによって、愚かな辻褄合わせをしている私たち罪人に、永遠の生命という救いの衣を備えて下さったという証であります。この事実を知ってこそクリスマスは真にめでたいのです 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 聖書を開くと、人類はその初めから創造主であるあなたに背き、悪魔の誘惑に膝を屈しています。それ以来、光の神に背を向けて暗い世相を手探りで歩いています。しかしアダムのために皮の衣を備えて下さったあなたは、その子孫のために救いの衣を備えてくださっていたのです。全ての人があなたの独り子イエス・キリストを信じることによってさらにまさった救いの衣を与えると約束して下さっていることを感謝します。どうか今日あなたのみ前にある一人ひとりの心を捕らえてください。そしてイエス・キリストを信じる者となりますように。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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