アドベント第3週                      2002年12月15日
【主日礼拝・メッセージ要約】                      
「わたしはひとりではない」

ヨハネによる福音書16章22−33節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

主イエスは十字架の死を目前にして、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」といわれました。

 マタイによる福音書1章にキリストの系図が見えます。初めてここを読む人には意味不明の系図に見えるかも知れません。しかし、キリスト者である私たちには著者マタイの意図が良く理解できます。17節に説明されているように、最初の14人は族長の系図です。次の14人はイスラエル歴代の王の系図です。最後の14人は王族直系子孫の系図です。アブラハムに始まり、ヨセフに至る系図の内、前半の28人については旧約聖書を通して詳しく知ることができます。その中にはユダヤ人の純潔主義から見て決して混じってはならない異邦人の血が入り込んでいます。また族長や王たちの中にもキリストの系図に値しない人も少なくありません。しかし著者はたといキリストの聖さを汚す者がいるとしてもその人たちを系図から消し去るようなことをしてはいません。ありのままに書き記しています。キリストはこのような罪人のもとにつかわされ、汚れた血筋、罪人の中に生まれて下さったのだということです。人は皆生まれながらに罪深い者です。倫理的にも汚れています。「だからキリストがあなたに必要なのだ」と聖書は言います。救主イエス・キリストはインマヌエル(神はわたしたちと共におられる)の主です。神が私たちと共におられてこそわたしたちの罪は救われ、汚れは清められるからです。マタイによる福音書1章に出てくる42名のリストの1人、それは或いはあなたなのです。

 クリスマスから十字架に至るまで主の御生涯は「わたしはひとりではない」と証しする御生涯でした。主イエスの御心にはいつも父なる神が共におられたからです。また同時に主は別の意味でも「わたしはひとりではない」といわれます。この世のいかなる罪人をも十字架の下に引き寄せてその罪を認めて悔い改める者に対して、「あなたはきょうわたしと一緒に楽園にいる」と天の御国に引き上げてくださるのです。この世で唯一人主イエスは罪を知らない方です。罪を知らない方が罪人の一人に数えられることを恥と思われなかったのは、実にあなたを救うためだったのです。これがクリスマスの意味です。

 
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アドベント第3週                      2002年12月15日

【主日礼拝・メッセージ】                      
「わたしはひとりではない」

ヨハネによる福音書16章22−33節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝、主は孤独な人生を余儀なくされている人のために何という慰めに満ちたみ言葉を下さったことでしょう。

 主イエスは十字架の死を目前にして、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」といわれました。人の心を知る神の御子イエス・キリストは間もなく御自分を裏切って逃げ去る弟子たちの弱さを見抜いておられます。しかし、この予告は弟子たちの弱さをなじるものではなく、後に弟子たちが再びご自身のもとに立ち帰る機会を与えるためのものでした。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」という言葉に主イエスの御心が窺(うかが)われます。

 主イエスにとって十字架の死は孤独な死、先行き不透明な死ではありません。父なる神によって御国の権威を約束されている死なのです。先週この講壇からお話ししましたように、この世は複雑で生きていくことに疲れます。先が見えない不安が私たち全ての者を疲れさせているのです。このような時代だからこそ、「しかし、勇気を出しなさい」と力強いみ言葉をもって私たちを導いて下さる主イエス・キリストが必要なのです。この方が共にいて下さってこそ、わたしたちは暗く厳しいこの世を生き抜いて行くことができるのです。

 

 この事をマリヤとその夫ヨセフの信仰から更に詳しく学ぶことができます。マタイによる福音書1章にキリストの系図が見えます。初めてここを読む人には意味不明の系図に見えるかも知れません。しかし、キリスト者である私たちには著者マタイの意図が良く理解できます。1〜16節の系図を14代ずつに整理できると17節に説明されています。これによるとアブラハムからダビデまでは14人の族長の系図です。次の14人はイスラエル歴代の王の系図です。最後の14人は王族直系子孫の系図です。アブラハムに始まり、ヨセフに至る系図の内、前半の28人については旧約聖書を通して詳しく知ることができます。その中にはユダヤ人の純潔主義から見て決して混じってはならない異邦人の血が入り込んでいます。また族長や王たちの中にもキリストの系図に入れるに値しない人も少なくありません。しかし著者はたといキリストの聖さを汚す者がいるとしてもその人たちを系図から消し去るようなことをしてはいません。ごまかしたりもしません。ありのままに書き記しています。キリストはこのような罪人のもとにつかわされ、汚れた血筋、罪人の中に生まれて下さったのだということです。人は皆生まれながらに罪深い者です。倫理的にも汚れています。「だからキリストがあなたに必要なのだ」と聖書は言います。救主イエス・キリストはインマヌエルの主です。神が私たちと共におられてこそわたしたちの罪は救われ、汚れは清められるからです。マタイによる福音書1章に出てくる42名のリストの1人、それは或いはあなたなのです。

クリスマスから十字架に至るまで主の御生涯は「わたしはひとりではない」と宣べ伝える御生涯でした。主イエスの御心にはいつも父なる神が共におられたからです。また同時に主は別の意味でも「わたしはひとりではない」といわれます。この世のいかなる罪人をも十字架の下に引き寄せてその罪を認めて悔い改める者に対して、「あなたはきょうわたしと一緒に楽園にいる」と天の御国に引き上げてくださるのです。この世で唯一人主イエスは罪を知らない方です。罪を知らない方が罪人の一人に数えられることを恥と思われなかったのは、実にあなたを救うためだったのです。これがクリスマスの意味です。

 

 もう一方で主と共にいる人々を見ます。ヨセフとマリアのような人です。彼らは出来る限り神を畏れ敬い、日々神の御心に従う正しい生活を志す人々でした。全ての道で主の御心をたずね求める生活を志す人々でした。しかしこのような人こそ却ってこの世で試練に遭遇するものです。従順な信仰の人々だからこそ世間の誤解と中傷の的とされて苦しい日々を送らなければならないことが多いのです。

 イエス・キリストがお生まれになった頃イスラエルは統一した独立国家ではありませんでした。ローマ帝国の強大な権力によって南からユダヤ州、サマリヤ州、そしてガリラヤ州の三つに分割統治されていたのです。ガリラヤ州のナザレという村にヨセフとマリアが住んでいました。ヨセフもマリヤもダビデ王家の血筋を引く由緒正しい家柄の人たちですが、今では落ちぶれて下層民の1人に過ぎません。この貧しい2人にも夢がありました。彼らは許嫁で挙式の日を待ちこがれていました。しかし、何ということでしょう。その微(かす)かな夢さえ砕くような事件が持ち上がりました。天使ガブリエルがマリヤのところに来て、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。…マリヤ、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」というのでした。

 乙女の名はマリヤといいます。ヘブル語で「ミリアム」と言い、「苦い没薬」という意味があります。ユダヤの人々は子どもの名前をつけるにあたって、その時の社会的な事情を背景に命名することが多かったようです。マリヤの家はもう何代にもわたって貧しく、虐げられた立場におかれていたのかも知れません。それで彼女にマリヤなどという名をつけたのでしょうか。確かにこの名は彼女のその後の生涯を象徴しているといえます。その一こまが天使のメッセ−ジです。これは彼女にとって青天の霹靂(へきれき)です。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と天使に尋ね返したほどです。けれども天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神にできないことは何一つない。」と信仰を促します。マリヤはこの言葉を確かに神からのメッセ−ジとして受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と信仰をもって応答し、この先起こる全てのことを主に委ねるのでした。それによって自分の将来に暗い陰をさすことになるかも知れない不安を予測したことでしょうが、敢えてそのリスクを冒(おか)してまでも神に従う決心をしました。

 一方ヨセフはどうだったでしょうか。自分の婚約者マリヤがこともあろうに、まだ夫婦の契りを結ぶ前に子を宿していると聞かされました。彼もまた敬虔な神の人です。だからこそ苦しむのです。大いに驚き、深い悲しみに沈みました。悩み抜いた末、密かに離縁する決心をしましたが、それでもまだ「どうして?」という煩悶の中にあったとき、主の御使が彼に現れて、マリヤの胎内に宿っている命は聖霊によるものだから恐れず彼女を妻として迎え入れなさいというメッセ−ジを受けました。マリヤ同様、彼もまた天使のメッセ−ジを主なる神のお言葉と信じて彼女を受け入れました。こうして生まれたのがイエス・キリストです。マタイはこの時イザヤ書7:14を引用して、このイエス・キリストこそ「インマヌエルと呼ばれるべき方である」と言います。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。

 神に従う決心をしたからと言ってその後の人生が順風満帆(じゅんぷうまんぱん)を約束されるわけではないのです。人はイエス・キリストに対する信仰に生きようと決心をした時から、かえって今までにない苦い没薬、辛い日々を経験しなければならないのです。しかし、そのような日々こそ栄光の道、勝利の道なのです。ヨセフとマリアを、いやその名を「インマヌエル」と呼ばれるイエスを見て下さい。「わたしはひとりではない」と。主は言われます。「あなたはひとりではない」と。神を信じるが故に苦しむことがあるとしても、インマヌエルの主があなたと共にいてあなたの信仰を支えていてくださるのです。

 ヨセフとマリア、そしてマタイによる福音書1章の系図に見る人々の列にあなたも加えられているのです。クリスマス・アドベントはこの事実を日々確認しながら感謝をもって過ごす一日一日なのです。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

「わたしはひとりではない」とのみ言葉がベツレヘムから、また十字架の上から聞こえてきます。

 私たちの多くはベツレヘムの町のように、巷の雑踏に押しつぶされそうになり、ただ孤独な日々を過ごしているばかりの者でした。自分の生活する場の直ぐ近くにお生まれになった救主イエス・キリストを知らずにいました。そうした私たちに、あなたの御子イエスさまは、「あなたはひとりではない。わたしがあなたと共にいる」と呼びかけて下さいました。

 また私たちは人生の意味も目的も分からず罪の淵に迷い、心は良心の呵責で真っ暗でした。しかしあなたはあなたの独り子イエス・キリストをこの世に遣わして十字架の上から、「わたしはインマヌエルの主である。わたしがあなたの罪を贖った。あなたは救われている」と語りかけてくださいます。

 主よ、感謝します。あなたが独りぼっちのわたしの友となるためにベツレヘムに生まれてくださり、わたしの罪を贖うために十字架に死んで甦って下さった救主であることを信じます。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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