【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年1月5日
                      
「聖所に向かって」

詩編 134編1〜3節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 134編の詩編は夜の神殿が舞台になっています。詩人はやっとの思いでエルサレムに到着しました。喜びと感謝に溢れた詩編のはずですが、現実には5回も「主」と言う言葉を繰り返しています。外に頼るものはないのです。主のみが彼の唯一の助けです。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」というイザヤの言葉(イザヤ書21:12)がありますが、134編の詩編もまたそのような状況にある歌ではなかったかと思います。時代の夜明けを感じさせはしますが、まだ夜なのです。現実には厳しい状況が依然続いています。まだ明るい兆しが見えない夜なのです。詩人はこの暗い夜にも似た時代にあって外の神々を頼りません。人に救いを求めているのでもありません。天地創造の主を求めて手を上げて祈るのです。

 新約聖書に汚れた霊に苦しむ息子を持つ父親の話があります。彼は息子を救って欲しいと主イエスにすがって言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と。すると主は「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」とお叱りになりました。その子の父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:22〜24)と叫びました。この父親は自分の信仰が如何に不徹底なものであるかを指摘されたとき、率直に悔い改めました。それが「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」という祈りになったのです。この父親の信仰は素晴らしいと思います。私たちの祈りはどうでしょうか。神が全てのすべてであることを知って、主の家に立っているでしょうか。この方の御前に手を上げているでしょうか。手を上げる。それはギブアップを意味しています。祈りは自己の可能性に頼るのではなく、主の御前に完全に降伏するときでなければなりません。

 2003年がどんな年になるのか分かりません。決して予断を許さない年かと思われます。幻想を抱くことを許さない厳しい年かも知れません。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」という状況が続く1年かも知れません。主に頼ることを嘲る時代が続くでしょう。だからこそこの暗い時代にも私たちは主の宮に立ち、主の御前に手を上げて祈り、讃美しましょう。主だけが勝利して下さることを信じて。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                       2003年1月5日
                      
「聖所に向かって」

詩編 134編1〜3節

メッセージ 高橋淑郎牧師
 

 この詩編は1節冒頭に書かれているように、エルサレムに向かう巡礼者が歌う讃美歌の1つです。先ずみ言葉そのものを味わいたいと思います。遠く異邦人の地にあって夢にまで見たエルサレムの宮に立ち、彼らは感謝の礼拝を献げます。時間は夜の集会です。先ず会衆は1〜2節と歌い、それに呼応して祭司達が3節と歌います。このように1〜3節までの短い詩編の中に「主(ヤハウェ)」という言葉が5回も見られることに注目しましょう。主の家に立つとは、神の宮で仕えるという意味です。彼らは主の御前に立ち、主に向かって手を挙げます。手を挙げるとは祈りであり、讃美の姿勢を指します。「夜ごと」というのですから、一晩や二晩ではなく、多くの日を重ねながら主に礼拝を献げている人を指しています。通常は祭司、レビ人のことでしょうが、まれには「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」アンナという敬虔な高齢の女性信徒もいたようです(ルカ2:36〜38)。会衆がこのように手を挙げて主を讃美し、主に祈ると、祭司は3節で「天地創造の主が彼らを祝福して下さるように」と祈ります。即ち祝祷を献げます。

 この詩編から私たちはどのようなメッセ−ジを聴き取ることができるでしょうか。134編の詩編は夜の神殿が舞台になっています。ここに言う夜は礼拝者の心の状態を表しているのかも知れません。詩人はやっとの思いでエルサレムに到着しました。一時帰国なのか、それとも永住帰国が許されたのか定かではありません。多くの学者はネヘミヤと共に帰還してエルサレムの神殿を再建した後に作られた詩編であろうと言います。もしそうだとしたら、この詩編は喜びと感謝に溢れた詩編に違いないのですが、現実には5回も「主」と言う言葉を重ねています。外に頼るものはないのです。主のみが彼の唯一の助けなのです。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」というイザヤの言葉(イザヤ書21:12)がありますが、134編の詩編もまたそのような状況にある歌ではなかったかと思います。時代の夜明けを感じさせはしますが、まだ夜なのです。現実には厳しい状況が依然続いています。まだ明るい兆しが見えない夜なのです。詩人はこの暗い夜にも似た時代にあって外の神々を頼りません。人に救いを求めているのでもありません。天地創造の主を求めて手を上げて祈るのです。

 新約聖書に汚れた霊に苦しむ息子を持つ父親の話があります。彼は息子を救って欲しいと主イエスにすがって言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。すると主は「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(マルコ9:22〜24)と。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」とは面白い言い方です。しかしよくよくこの言葉を噛みしめてみると、何とも味わいのある言葉です。この父親は自分の信仰が如何に不徹底なものであるかを指摘されたとき、彼は率直に悔い改めました。それが「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」という祈りになったのです。息子を救って貰うために主の御前に来ましたが、先ず自分の信仰が問われなければならないことを彼は知ったのです。この父親の信仰は素晴らしいと思います。私たちの祈りはどうでしょうか。神が全てのすべてであることを知って、主の家の中に立っているでしょうか。この方の御前に手を上げているでしょうか。手を上げる。それはまたギブアップを意味しています。祈りは自己の可能性に頼るのではなく、主の御前に完全に降伏するときでなければなりません。

 2003年がどんな年になるのか分かりません。決して予断を許さない年であろうと思われます。幻想を抱くことを許さない厳しい年かも知れません。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」という状況が続く一年かも知れません。主に頼ることを愚かしいことと嘲る時代が続くことでしょう。しかし、いやだからこそこの暗い時代にも私たちは主の宮に立ち、主の御前に手を上げて祈り、讃美しましょう。主だけが勝利して下さることを信じながら。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」と。

 み言葉を感謝します。新しい年が明けました。私たちは新年を迎える毎に、今年こそは何か良いことがあるのではないか。平和な時代になるのではないかと淡い期待を寄せますが、年末には悲しみのこもった瞳でまた新しい年に期待を寄せるという繰り返しです。しかし、私たちは宛てもなく期待を寄せたり、いたずらに夢を見ることをしません。なぜなら私たちは時の間を支配しておられる主に知られていることを知っているからです。あなただけが昨日も今日もいつまでも変わらない主でいらっしゃるからです。時代が暗ければ暗いほど私たちは主の宮に来てあなたの御前に手を上げてあなたを讃美し、あなたに救いを求めて祈ります。礼拝を第一のこととします。どうかここにある全ての兄弟姉妹をお守り下さい。試練を耐えさせて下さい。誘惑に勝利させて下さい。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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